2-1

 打ち棄てられたビルのオフィスの一角。八階の元はとある企業の大会議室であった部屋に、対人狼部隊「緋森」の仮宿かりやどしつらえられていた。と言っても、広い部屋の片隅に資材が無造作に積み挙げられているのみで、殺風景と呼ぶのも憚られるほど乱雑だ。全ての窓に黒布で目張りがされている為に、内からも外からも光は一切漏れない。

 蛍光灯の白々とした照明のもと、老婆がリクライニングチェアに小さな身を埋め、手元の書類を順に繰っていた。

「……なるほどねぇ」

 物憂げに、後ろで一つに括った豊かな白髪を撫でながら、老婆は一人ごちた。

 彼女こそが、泣く狼の子も黙る極東の対人狼部隊「緋森」の元部隊長、緋森美咲と知れば誰もが驚くだろう。数々の戦場を渡り歩き、数多の戦果を挙げた彼女は、生ける伝説となりつつある。その女傑が、いまや見る影も泣く老いさらばえたと思うのも、彼女の痩せた手足を見れば仕方の無いことだろう。

「ご苦労だったね、ガウル、綾也」

 美咲は、目の前に並んでいる狼男と優男に向けて、何気ない風で彼等の労をねぎらった。

「お前達の後始末は、政府の殲滅チームが請け継ぐそうだ」

「こういう時だけは、手が早いよなあいつら」

「そう言うな、綾也。元々あたし達と連中はそういう風に住み分けてんのさ」

 憮然として愚痴をたれる綾也を、美咲はやんわりと窘めた。

「鵜流辺を逃したのが、唯一の気がかりだが」

「まぁ、気に病むことはないだろうよ、ガウル。手負いの獣相手に、連中もそうそう遅れはとらん」

 政府が保有する殲滅チームは、その名の通り大量発生した人狼を殲滅する為に動員される事が多い。部隊は、訓練された屈強な兵士と吸血鬼によって編成され、強力な戦闘力を誇っている。

 対して、対人狼部隊である「緋森」は、古の時代から吸血鬼と契約を交わし、人に仇なす吸血鬼と戦い続けてきた一族を根幹に創設された部隊である。

 夜の世界を支配する吸血鬼の存在を知る人間は、ごく限られている。しかし、世界的に国家と吸血鬼と友好的な関係が築かれてからは、その刃は「偽人狼」へと向けられた。人群に紛れ、闇の中で蔓延る魔を秘密裏に狩って来たその経緯を買われ、「緋森」は法の下で白刃を振るうことを許されている。

 命を奪うという行為を認められた以上、その断罪は絶対であり確実でなければならない。「偽人狼」との戦闘は、刃を交える瞬間よりも、むしろその正体を見破るまでの捜査にあると言えるだろう。そして、その研ぎ澄まされた嗅覚こそが、「緋森」の「緋森」たる由縁であった。

「しかし、今回ばかりは直ぐに解決とはいかんだろうねぇ……」

「そうだろうな」

 美咲の言葉を受け、ガウルが頷く。

「公権力の懐に人狼の根が入り込み、権力が捻じ曲げられて使用されていたわけだ。この遺恨は相当残る」

「いや実際、今回はしんどかった、ほんと」

 鵜流辺を追い続けた日々を思い、深々と綾也が息を吐く。

 今回は警官という特殊な立場にある「偽人狼」ということで、綾也は相当な苦戦を強いられた。通常なら協力を求めてしかるべき警察が、全く当てに出来なかった。しかも、少しでも周囲に「緋森」の匂いを相手が嗅ぎ取り警戒されれば、捜査は暗礁に乗り上げていただろう。

 実際に鵜流辺の痕跡の消し方は徹底していた。長年、犯罪者との攻防の知識を活かした老練な手口であった。周囲の評価も信頼も高く、綾也の見る限り彼の人格は清廉潔白であるように見えた。

 最終的に糾弾に叶う確たる証拠が得られなかった彼等が取ったのは、博打以外の何物でもなかった。鵜流辺の本性が──瞳が金の光に輝かなければ全ては終っていたのだ。

 鵜流辺の鉄壁の偽装を暴いたのが、彼の妻である鵜流辺泰葉によるものであるのは、神の皮肉であろうか。

 鵜流辺は本当に心から妻を愛していたのだろう。それは、彼が「偽人狼」となってからも、歪んで彼の心に深く刻まれていたようだ。本来、人狼にとって人間は単なる肉と血の塊に過ぎない。だが、理性を保つ「偽人狼」は特定の獲物に対して異常な執着心を見せる場合がある。

 綾也は、鵜流辺泰葉の墓を暴き、納められていた遺灰の化学鑑定を行った。高温によって灰になろうとも、焼却前の成分はある程度鑑定出来る。

 結果、遺っていた灰に、肉や血の成分はほとんど見出せなかった。それはつまり、何者かが全身の骨から肉を剥ぎ取っていた事を示している。それも、偏執的なまでに入念に。

 狼禍症の発生で、一番巻き込まれる確率が高いのは、言うまでもなく発症者の家族である。野獣にも増して邪悪な狂気は、肉親や子どもすら、分け隔てなく平等に蹂躙する。理性ある「偽人狼」は、発症前に抱いていた愛情を、歪んだ愛へと変形させる。愛する血族の血肉を、永遠に我が物にしようと。

 鵜流辺もその例に違わなかった。妻の他に、鵜流辺には県外の高校に通う息子がいたが、先月急に転校し、現在の所在が分からなくなっている。おそらくは、母と同じく、既に父親の手にかかったのだろう。

「さて、ここまで大掛かりな舞台を用意してたからにゃ、連中の関与は間違いないだろうねぇ」

「──「狼と征く者ハンドラー」」

 三人のやりとりを、木目の壁に背にし、後ろから見守っていた男装の麗人が薄っすらと唇を開き、呟いた。

 濡れるような黒い短髪。その下に覗く肌は、蛍光灯の白光の下で、更に白く輝いて見える。中性的なまでに整った端麗な顔立ちで、ブラックスーツの男装が、倒錯的な美しさを煽っていた。

 誰もが目を奪われる、と言っても決して過言では無かった。彼女を篭絡する為ならば、あらゆる犠牲も厭わない男など山ほどいるだろう。

「人狼と手を組み、己の利を貪る輩。未だにどの国家も実体を掴みきれていない秘密結社だと聞き及んでいます」

「その通りだ、えーと……」

「メティス・ドートリアと申します、緋森美咲殿。かの勇猛なる「緋森」の英雄にお会いできて、光栄です」

「いやいや参ったね、これは」

 この上なく優雅に一礼してみせるメティスに、美咲は思わず苦笑する。

「貴女の方があたしよりも年長のはずだ。そう畏まられても困るね」

「そんなことはありません。貴女は尊ぶべき吸血鬼われわれの盟友です。どうか、急な訪問をご容赦ください」

 あくまで襟元を緩めないメティスの姿勢は、美麗に洗練されていた。悪い気はしないものの、美咲には馴染みの薄い雰囲気であった。

「で、隣の可愛らしい眼鏡の子がライアちゃん、だよね」

「は、はい」

 綾也の気安い声に、メティスの体に隠れるようにしてライアが頷く。敵では無い、と理解しつつも未だに警戒は解かれていないようだ。

「綾也、お客に失礼なこと言ってんじゃないよ」

「どこが失礼なんだよ、婆さん。可愛い女の子に可愛いって言っちゃまずいのか。それとも何だ、もっと舌下を尽くして賛辞の言葉を奉れ、という命令なのか?」

「どっちも違うわ、クソガキ。いいから黙ってな」

 節操と品性に欠けた物言いの部下を、同じ次元の口調で美咲が叱り飛ばす。格調高い儀礼よりも、くだけた罵倒の応酬の方が体に馴染んでいるのはお互い様のようだ。

 二人の乱暴なやり取りに、ライアはますます萎縮したように俯いた。メティスがその小さな肩へ、いたわるようにそっと手を置く。

「我が主はながらく外界と隔絶された環境におられまして、人間あなたがたに慣れておりません。非礼があれば、私からお詫びを」

「なるほど、さしずめ「吸血鬼の姫君」というわけか」

 壁に巨体を預け、腕を組んだガウルが、メティスに視線を向ける。口調は穏かなものの、声色には荒々しい険が篭もっている。

「それで、麗しきお姫様とその従者が、何故あんな危険な場所に?」

「おい、ガウル。おかげで助かったじゃないか」

「結果的には、だ。綾也を救った事に関しては感謝している。だが、それとこれとは話が別だ」

 綾也の諫言に取り合わず、ガウルが言い放つ。

「メティスと言ったな。どういう意図で、あの場にライアを一人放置した。彼女は、お前と違って「黒の暗泥」もまともに使えない、未熟者だろう。まして人狼と戦ったこともない」

 ガウルの瞳を正面から見据えたまま、メティスは沈黙を守っている。ガウルは沈黙を、肯定と受け止めた。

「お前達の目的は何だ。俺達の作戦の決行時に偶然通りかかった、などと言うつもりか?」

「──どうでしょうね。偶然とも言えるでしょうし、必然だったとも取れるでしょう」

「どういう意味だ?」

 要領の得ない答えに、ガウルの眼光が更に険しくなる。銀狼の気迫にライアの顔は、気絶するのではと言うくらいに真っ青になっている。

 気勢が無いにも程がある。

 自分の姿に震え上がるライアに、ガウルは苛立ちを隠せなかった。

 吸血鬼にあるまじき脆弱さ、そして「黒の暗泥」の貧弱さ。人間にも劣り兼ねない彼女の能力は、劣等生もいいところであった。

 それに、飾り気の無い服装をしている割に、眼鏡をかけていることが癇に障る。吸血鬼の視力は、人間よりも遥かに優れ、夜目も利く。レンズで矯正する必要など全く無い。彼等にとって眼鏡など装飾品の一つに過ぎないのだ。

 そう、ただ気に食わないのだ。

 吸血鬼が眼鏡など、まるであの魔女のようではないか──。

「我々の目的は、唯一つ、貴方なのです。ガウル・オーラント。貴方が現在、この地の「緋森」に身を寄せていると耳にし、我々はここまでやって来た」

 対して、メティスは白皙の美貌を微動だにせず、穏かに答えた。

「昨夜私たちは、貴方の気配を追ってコンビナートに辿り着きました。そこで貴方達と、人狼に遭遇してしまった」

「そりゃ災難だったね、二人とも。ふざけんな、ガウル。お前のせいじゃないか」

「色ボケは黙ってろ」

 相好を崩し笑顔を絶やさない綾也を一蹴し、ガウルは追及の姿勢を崩さない。

「だが、その娘を一人で置いていたのは何故だ」

「それは無論、我が主に、人狼の目を引く囮になって頂く為です」

「なに……?」

「通りすがりとは言え、人狼は我が仇敵。捨て置くわけにはいきません。ただ、あの場所は土地勘の無い私には広すぎる。あの愚昧な獣を狩るには、おびき出すに限る」

 メティスの唇が、小さな笑みを浮かべた。その美しい微笑は、冷酷な殺意を匂わせた。

「不遜を承知で言えば、我が主ほど狗共の目を惹くお方はいないでしょう」

「……図らずも、俺達と同じ手を打ったということか。だが、仕える主を囮にまでしてか?」

「──じ、人狼は許されざる存在です。無力な私ですが、出来るなら力になりたい」

 今まで見守るばかりだったライアが、急に口を開いた。

「私の意志でもあるんです。ご迷惑をおかけしたのは、謝ります。ごめんなさい」

「…………」

 囮にされた少女自身にそう言われては、ガウルも二の句が告げない。納得を得られぬままであったが、この問答は打ち切るしかなかった。

「それで、俺に用だって? 吸血鬼のお前達が、よりによって銀狼の俺に?」

 一般人には知る由もない事実であるが──人狼の体液、爪、牙には吸血鬼を害する猛毒が秘められている。その毒は吸血鬼の体はおろか、彼等の最大の武器たる「黒の暗泥」にまで影響を及ぼし、死へと誘う。

 銀狼は、忌み嫌われる人狼の中にあって、最低最悪と蔑まれる、人狼の上位種である。醜悪なる狼の似姿を覆う剛毛は、それだけで吸血鬼を焼き、「黒の暗泥」を完全に無力化する。銀狼の前では、強力な吸血鬼であっても剣を折られたに等しい。しかも猛毒の凶悪さは、人狼や偽人狼の比ではないのだ。

 天敵であるガウルに、わざわざ頼みごとなど尋常ではない。ガウルは、吸血鬼の間での自分に対する風聞を良く理解していた。現在、人類に味方しているとはいえ、銀狼として彼が犯した罪は、依然恐怖と怨恨の対象と目されている。「双頭の魔犬」という与えられた二つ名が、それを如実に物語っていた。

「銀狼であるからこそ、貴方に会いに来たんです、ガウルさん。貴方に、私の血を飲んで欲しい」

「……?」

 言葉の意味を図りかねたガウルが追問する前に、ライアは意を決したように、初めてガウルの瞳を覗き込んで、言った。

「私は、魔女ユリスの血を引く者です。私の体の中には『魔女の悪意オールドヴェノム』が保管されています」

「な……!?」

 少女の言葉に、ガウルのみならず、綾也と美咲も、三者三様に言葉を失う。

 慄然としながらも、三人は確信に近い予感を抱く。一つの狼化症事件は快方へと向かったが──新たに持ち込まれた彼女の告白の方が、遥かに難解で厄介な事件に発展するだろう、と。

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