2-4

 まだ、太陽が顔を出して間もない市街のメインストリートは閑散としていた。

 茶色い煉瓦調のホテル──サンノートに辿り着くまでに、あまり一般人とすれ違わなかったのは幸運であった。

 異国然とした二人の吸血鬼は、街の空気に全く馴染まない美しい異彩を放っていた。事実、応対に現れたホテルのフロント係も目を丸くして、二人の風貌に見入っている。その様子に綾也は思わず失笑を漏らす。

 吸血鬼は男であれ女であれ、そのほとんどが絵に描いたような美貌の持ち主である。それは、人を魅了してやまず、心を虜にして離さない。

 人を捕食する彼等にとって、それ以上の擬態はないだろう。吸血鬼の顔は、個性を顕す記号ではなく、誘蛾灯の機能を持つ器官なのだ。

 フロントにことづけけられていた保冷バッグを受け取り、手続きを済ませた綾也は二人を振り返った。

「これから、朝食でも一緒に、どう?」

 屈託無く笑って問う綾也に、メティスとライアは顔を見合わせた。保冷バックの中身は、綾也に問うまでもなく、漂う芳しい匂いから察しはついていた。


「いいんですか、綾也さん?」

 座卓の向こう側で、焼き魚の骨を丁寧に取り除いている綾也に、ライアは心配そうに声をかけた。

「美咲さんに怒られるんじゃ……?」

「ん? ああ、心配いらないよ、ライアちゃん。婆さんには「寄り道するな」って言われただけだから。ホテルから出ずに、ライアちゃん達と仲良くすれば済む話だ」

 子どものような屁理屈を、綾也は臆面もなく言い切った。美咲の渋い顔が容易に目に浮かぶ。

 三人は宿泊する部屋とは別に用意された、八畳一間の和室に通された。「せっかく日本に来たんだから」という綾也の無駄な計らいである。ただ、個室ということもあり、人目を憚る話も出来る。

 黒檀の長方形の座卓の窓側に綾也が胡坐をかき、その反対側にライアとメティスが足を崩して座っている。綾也の前には、湯気の躍る白米に味噌汁、味のり、生卵、焼き魚──定番の朝食メニューが並べられていた。対して、吸血鬼たちの目の前にはワイングラスが一つずつ置いてあるのみである。

 グラスになみなみと注がれた赤い液体は、美咲が病院に手配した健康な献血者の血液だった。グラスは、ただパックから直に飲むのでは味気無いだろうと、これも綾也の演出である。

「悪いね。本当は生き血の方がいいんだろうけど。僕は規則で吸血鬼には血を捧げられないんでね」

「いえ、とんでもない。それに、今の時間帯から獲物を──失礼、血を供してくれる人間を、衆目を避けて探すのは難しいですから」

 グラスを傾けて、メティスが血を嚥下する。その姿もまた優雅で、様になっていた。その横で、ライアがグラスを両手で抱えるようにして、ちびりちびりと恐る恐る口をつけている。

 吸血鬼の生きる糧、人血。普段、人間はありとあらゆる動植物の肉体を糧としているが、いざ自分達がその対象となると恐れを為すだろう。

 吸血鬼が求めているのは、何も血液が持つ物質的な栄養価ではない。人が生きていく上で、全身にあまさず届き渡らせる、魂、または生命力、感情──。生者と死者を分かつ、明確な「何か」を吸血鬼は啜り上げ、奪い取り、自らの命脈とする。それが人間の理解の外にある彼等の営みである。

 故に、吸血鬼は獲物から直に湧き出る生き血を最も好む。生命の器から零れる雫は、まさにその零れた瞬間に極上の美酒となって、吸血鬼の喉を潤すのだ。体から切り離され、血液パックとなってしまっては、醍醐味のほとんどが喪われてしまう。

「それに、我が主は生き血が得意ではありませんので」

「そうなの?」

「はい……。私は少し、「幻視」の力が強すぎるので」

 寂しげに、ライアは綾也に笑ってみせた。

 吸血鬼は血液を介して、人間の真理を読むことが出来る。「幻視」と呼ばれるその能力は、強力であれば人の記憶すら読み取ると言われている。その為、「緋森」の人間は機密保持を理由に、吸血鬼に血を吸われることを禁じられている。

 他人の感情と記憶が流れ込んで来るなど、綾也には想像すら出来ない現象だ。ただ、少女の精神にとって、それが重荷になっている事は、なんとなく理解出来た。

「ところで」

 血に濡れた唇を拭い、グラスを卓に置いたところで、メティスが切り出した。

「私達に何か尋ねたいことであるのでは? そのつもりで朝食に誘ったのではないのですか」

「いや、別に?」

 答える綾也は、視線を生卵へ落とし、慎重に醤油を落とす量を調整している。声色には何の衒いもない。

 食物連鎖の上で、人間の上位に座する吸血鬼の前で、注意を、よりにもよって生卵に向けるなど、命知らずにもほどがあった。無論、メティスやライアが、ここで自分を襲う理由もメリットも無いと確信してこその無警戒なのだろうが。

 相手の正体が吸血鬼である、という事実しか知らない状態であれば、大抵の人間はこれくらいはやってのける。だが、彼等の力を目の当たりにしながら、猶も自然体で接する事が出来る人間は稀有であり、貴重であった。そういった人間は、吸血鬼の良き理解者となり、友人となる。一方で、その理解を敵意へと転じ、強大な宿敵となる可能性も秘めているのだが。

「せっかく美女が二人もいるんだ。一人で朝食も味気ないし、誘わない手は無い」

 俗物か傑物か、メティスの目を持ってしても判じ得ない男は、ついに納得のいく卵かけご飯を完成させ、掻き込み始めた。

「敢えて言わせてもらうなら、今ここで二人から聞き出せる情報程度は、今頃婆さんが調べて掴んでるだろうし。こうして、美人と共に食卓を囲うだけで僕には十分有意義な時間だ」

「……貴方は、私たちを怖れていないのですね」

「とんでもない」

 箸を休め、綾也は緑茶を手に取った。

「ガキの頃からあんた達を直に見て来たが、未だに恐ろしいよ。昔の人間が喧嘩を売ったらしいが、僕にはとても無理だ。理解できないね」

 その言葉とは裏腹に、綾也の姿はとても緊張しているようには見えない。

「何せ、あんた達は人の姿をしている癖に、僕達からしてみれば内面は常軌を逸してる。裡に何が潜んでいるのか全く底が見えないんだよ。だからこそ、魅力的なんだがね」

 緑茶を飲み干し、さて残りをたいらげようかと箸を持ち直した綾也は、ライアがグラスを持ったまま、じっと自分を眺めているのに気が付いた。

「ライアちゃん、どうかした?」

「い、いえ。そ、その……」

 綾也と合った視線を慌てて、赤い水面へと落として、ライアはもごもごと言葉を続ける。

「それなら、綾也さんも美咲さんも、ガウルさんを怖がってるのかな、と思って。その、あんなに仲が良さそうだったから……」

「ああ、ライアちゃん、あいつ怖いの? それなら全く怖がる必要なんかないから」

 綾也は、ライアの不安げな呟きを、軽妙な笑顔で請け負った。

「見てくれがB級スプラッタ映画のモンスターなだけで、中身はただの馬鹿だから。ガキの頃から、全く進歩してないね、あいつは」

 ガウルがこの場に居合わせれば「お前にだけは言われたくない」と声を荒げて罵っていただろう。二人の間にある奇妙な知己を、メティスも、人間の機微に疎いライアも、容易に読み取った。

「……子どもの頃から? 綾也さんはずっと、ガウルさんと生活して来たんですか?」

「あいつも俺も同時期に「緋森」に拾われたのさ。あいつは乳児だったっけな。俺は三歳くらいだったはずだ」

「あ……す、すみません」

「いや、構わないよ。むしろ、僕に興味を持って貰えて嬉しいね」

 「緋森」は代々伝わる一種の称号であり、そこに血縁は有無は介在しない。「緋森」に求められるのは、任務を遂行するに足る能力と胆力、そして決して狼禍症に冒されないという先天的な素質である。

 綾也は、狼禍症事件で幼い頃に両親を失い、自身も人狼に因って重症を追った。生き残り、狼禍症を発症しなかった時点で、彼は抵抗力が持っていることを、皮肉にも身を持って証明した。

 「緋森」に籍を置く若者は、そういった事情を持つ人間ばかりである。組織の成り立ちからして、彼等は非情な運命の渦中にあった。

「でも、一〇〇〇年を生きる銀狼が、乳児……?」

「ああ、ライアちゃんは知らないのか。あいつは、いわゆる原初の銀狼の生き残りじゃない。駆除された人狼がたまたま妊娠していて、その胎内から摘出されたんだ、銀狼あのままの姿で」

「そんな……」

 ライアが絶句する様を、メティスがさして動じる様子も無く見つめている。これは周知の事実であり、界隈で知らぬ者はほとんどいない。

 現代に生まれ出でた、新たなる銀狼。

 ガウルという忌子の発覚が、当時どれだけ世界に衝撃を与えたか、想像に難くない。

「しかし、良く「緋森」が彼の身柄を確保できましたね。トランシルバニアが黙っていたとは思えませんが」

 トランシルバニアとは、北欧に拠を構える吸血鬼の総本山である。その意思は、吸血鬼にも人間社会にも大きく介入し続けている。

「そこがあいつの唯一の幸運だったな。ガウルを拾った吸血鬼が破格の大物で、誰も彼女の命令に逆らえなかったのさ。消し炭にされたくはなかったんだろうな」

「……なるほど。長年の疑問がようやく解けました」

 納得した様子で、メティスが頷く。

「何故、ガウル殿が、オーラントの名と、『竜公女ドラグレス』の心臓を継いだのか[#「の心臓を継いだのか」に傍点]。ずっと疑問でしたが、そういった因縁があったとは」

「まぁ、当時の詳しいいきさつは知らないけどな──ちょっと失礼」

 不意に振動音が和室に響いた。綾也は、会話を中断し、スラックスのポケットから携帯を取り出す。その液晶に映った文字に、心底辟易したように溜息をつく。

「何だ、婆さん。まだ一時間経ったくらいだろ? 少しはゆっくり……」

 開口一番、携帯に文句を吐き出した綾也だったが、急に口元を引き締めた。双眸を眇め、真剣に電話に耳を傾けている。

「──了解した。二人には僕から伝えていいな?」

 通話を切り携帯をしまうと、綾也は向かい合う二人へと視線を戻す。

「ど、どうかしました?」

「ああ」

 ただならぬ綾也の雰囲気に、ライアがおっかなびっくり声をかける。

「二人とも、悪いが後でまた連絡をつける。それまでしっかり休んでいてもらえないか。場合によっては力を借りる必要が出てきた」

「何か、あったようですね」

「まだ確定してはいないんだが……」

 重苦しい口調で、綾也が告げる。

「鵜流辺を追っていた殲滅チームとの通信が途絶えたそうだ。誰一人、応答しないらしい」

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