2-3

「……勿論、確たる根拠があってそう言うんだろうね?」

 重い沈黙を裂いたのは、美咲だった。

「残念ながら、あたしも過去何人か「魔女の悪意」を持つという吸血鬼に会ったことがある。まぁ、全員偽者だったわけだが」

「功名心に走った輩が「魔女の悪意」の所持を騙っていたことは、存じております。ですがどうか、そんな輩と我が主を一緒にしないで下さい。彼女の力は本物です」

 確信に満ちた声で、メティスは猜疑を払わんと弁を奮った。

「私は何度もこの目で、主の血で人狼が滅ぶのを見ています。凶暴な悪獣が、瞬時に崩れるその様を。決して偽りではない」

「だが、口先だけならいくらでも言える。それも確かだろう」

 ライアとメティスの来訪の意図を悟ったガウルは、先ほどまでの敵意を消していた。だが、代わりに彼の口調に宿っていたのは静かな熾き火の如き怒りであった。

「それを、当然お前も良く理解している。だから、俺にライアの血を飲め、と言うんだな?」

「…………」

「自分の、血の正統さを証明してみせる為に、俺に『魔女の悪意』を受けろ、と?」

「……その通りです」

「いい度胸だ」

 ガウルが、御していた感情の手綱を手放した。総身の銀毛を逆立て放たれる憤怒が、黒い霧と化して彼の足下で蟠る。

 それは、一度綾也を人狼の群から守った衝撃波の源であり、彼を「双頭の魔犬」と呼ばしめる由縁であった。

 猛々しいガウルの戦闘態勢を見て取り、メティスも緊張した面持ちで身構えた。ガウルと同様に黒い念体を放射し、両者の戦意が部屋の中心で激しくぶつかった。

「まぁ、落ち着けよ、二人とも」

 美咲が二人を諌めようと口を開くよりも一瞬早く、綾也が間に割って入った。巨大な力場の渦に怯みもせず、彼は両の手の平を睨み合う二人に向けた。

「邪魔だ、綾也。そこをどけ! その連中は──」

「確かに、彼女達の要求は「お前の死」みたいだな。銀狼であるお前の死に因って、ライアちゃんは正統な「魔女の悪意」保持者として認められるってわけか。なるほどねぇ」

 片手で荒ぶるガウルを制しながら、綾也はメティスへと目をやった。彼女は、ガウルから目を逸らさず、小さく頷いて綾也に返答する。

「いきなり現れて、「死んでくれ」なんて、美人の頼みでも怒るぜ、メティス。いや、僕なら怒らないけどな」

「……ですが、必要な事です」

「二人が生半可な覚悟で、此処に来たんじゃないのも分かってる。ガウル、二人はその気になれば、お前を騙して血を飲ませることくらい出来ただろうさ。敢えて、怒りを買うのを承知で秘密を明かした心意気は、汲むべきじゃないのか?」

「だが……」

「いいから、二人とも「黒の暗泥」をひとまず仕舞ってくれ。暑苦しい」

 緊張感を欠いた態度ではあったが、綾也の言葉は冷静に正鵠を射ていた。ガウルは唸りながら、メティスは無表情に、同時に矛を納める。部屋に立ち込めていた暗霧が、見る影も無く溶け散っていく。

「全く、ライアちゃんが泣きそうじゃないか。よしよし、僕が慰めてあげよう」

「あ……ありがとうございます。綾也さん」

 綾也は優しく床に座り込んでしまっていたライアの手を取り、立たせてやった。どうやら、この少女は耐え切れない恐怖に襲われると、猫のように身を竦ませて、体の自由を手放す癖があるらしい。

「納得のいく話だがな。吸血鬼おまえたちから見れば銀狼おれの命など、ゴミ同然だからな」

 戦意は抑えたものの、滲み出る怒りをそのままにガウルが言い捨てる。

「確かに、俺は『魔女の悪意』を試すのに最適なモルモットだろう。居場所が知れた銀狼なんざ、俺しかいないだろうからな」

「それは否定いたしません、ガウル・オーランド。私たちは貴方の命にすがるしかなかった」

 言葉に一切の装飾を施さず、メティスはガウルの怒りを身じろぎもせず受け止める。

「貴方に全く非はない。怒るのも当然でしょう。ですが、貴方の命と引き換えに証明される「魔女の悪意」の正当性は──間違いなく貴方の命より重い」

「ぬけぬけと……!」

「はいはい、やめろって二人とも」

 再び一触即発の様相を呈する二人を、呆れ顔で綾也が宥める。

「一生押し問答続ける気か、お前達は。こういう時は、公正な第三者の判断を仰ぐもんさ、経験豊富な」

 「なぁ婆さん」と笑ってみせる綾也に、美咲はやれやれと苦笑を返す。自分の部下の手練手管には正直舌を巻く思いだった。

 綾也は、美咲が思考の先に見出している結論を見切っている。そして、「緋森」の英雄と彼女を尊視するメティスが、彼女の決定には耳を貸すであろうことを見越しているのだ。

「あたしの結論から言えば、メティス、そしてライア、あなた達の願いの為にガウルの命を危険には晒せないね」

「……それは、情から来る憐憫ではないでのすか、美咲殿」

「違う。とははっきりとは言えないがね、何せ、その子とも二〇年の付き合いだからね。だが、客観的に見てもだ、ガウルの命を「曖昧な何か」と引き換えには出来ないね。その子は、長年人狼と戦ってきた実績がある。これからもそうだろう。確かな結果を約束されているモノをおいそれと手放せるかい?」

「長い目で見れば、それは賢明は判断ではありません」

「かもしれない。だが、『魔女の悪意』の証明にガウルの命を使うしかない、と考えるのも早計だろう? あたしも第一線を引いて久しいが、まだ多少顔は利く。別の方法を模索するならば、喜んで力になるよ、メティス?」

 「どうだい?」と最後に付け加え、美咲はメティスに逆に判断を仰いだ。メティスの瞳に浮かんだ感情の色は失望か、落胆か、彼女の表情は全く心の裡を映さなかった。

「心遣い感謝します、美咲殿。ですが、私はこれ以外に道はないと思っています」

「……そうかい」

「しかし、貴女の判断が正しいことも理解しているつもりです」

 メティスは口元を緩めると、頭を垂れた。

「貴女は噂に違わぬ聡明な方だ。ここは、貴女の言葉に従います」

 彼女の言葉に、美咲は密かに胸を撫で下ろしながら、リクライニングチェアに深深と背中を沈めた。この女吸血鬼は、頑なではあるが、柔軟さが無いわけではない。

「つきましては、しばらくこの街に滞在しようと思うのですが、よろしいでしょうか?」

「ああ、構わない。あたし達もまだしばらくはここで残務処理に追われるろうからね。良ければホテルも用意しよう。食事の方も、病院のツテで血液パックなら用立てるが、どうするね?」

「お言葉に甘えさせて頂きます」

「あ……ありがとうございます、美咲さん」

 主従揃っての礼に笑みを返してから、美咲はデスクに放り出してあった携帯を手に取った。手早くホテルと病院に手配を取り付け、視線を綾也へと投げた。

「お前が案内しな、綾也」

「お、気が利くね婆さん」

「いいかい、おかしな真似はすんじゃないよ? 送ったら寄り道せず、さっさと帰って来るんだ」

「それでは参りましょう、お二人とも」

 美咲の苦言に全く耳を貸さないまま、上機嫌の綾也は二人の女吸血鬼を連れて大会議室を後にした。

 三人の気配が消えた、しばらくの後。

「美咲」

「分かっている。あの二人の詳しい素性は今から調べを付けよう」

 ガウルの呼びかけに、美咲が首肯する。

「実際のところどうなんだい? あのライアに、何か感じるところはあったのかい?」

「分からない。俺がまっとうな銀狼なら分かったのかもしれないが……」

 メティスの不遜な進言に激昂に駆られたものの、ガウルも「魔女の悪意」の有効性を認めていない訳ではなかった。

 「魔女の悪意」の実在の証明は、世界の趨勢を大きく変えることを意味する。

 ガウルや「緋森」は、現状発生した狼禍症事件を鎮圧することしか出来ず、後手に回ることを余儀なくされている。

 だが、人狼のみを滅するこの特殊な毒は、人狼を炙り出す踏絵となる。人類と吸血鬼に初めて攻勢に打って出るだけの光明を与えるに違いない。その光量は、敵を噛み砕くしか脳の無い自分など、塵芥のように掻き消すだろう。

「ただライアの視力の低さや、黒の暗泥の脆弱さは、演技ではない。彼女の吸血鬼としての能力は無いに等しいな」

「意外だね。彼女の肩を持つのかい?」

「事実を言ったまでだ。逆に不可解な点も挙げればいくらでもある。魔女の消滅からの一〇〇〇年、彼女がどうしていたのか、何故今になって現れたのか。魔女がどういった経緯と意図で彼女を遺したのか──」

「分かった。それも含めて、そうさね『トランシルバニア』に探りを入れよう。まぁ、あの色ボケも少なからず情報を集めてくるだろうが。あんたはひとまず体を休めてな。お疲れだったね」

「ああ。そうさせてもらう」

「──ガウル。さっきはああは言ったが」

 美咲は皺枯れた顔を悪戯っぽく綻ばせ、踵を返したガウルの背中を見つめた。

「あんたの命は、ゴミなんかじゃないさ。ゼレニアから貰った命を、そう卑下するもんじゃないよ。あいつの怒鳴り声が、あたしには聞こえるがね」

「…………」

 ガウルは振り向きもせず、無言のまま会議室を去っていった。

「やれやれ、面倒にならなけりゃいいがねぇ」

灰色のコートがドアの向こう側に消えた後、一人残された部屋に美咲は、ぽつりと呟いた。

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