4-1

 火薬が炸裂する音が、立て続けに二発鳴った。介錯の刃となった銃弾は、隊員の眉間を正確に打ち抜いた。

 びしゃりと、耳を覆いたくなるような音と共に、血飛沫を上げ、男の顔面が砕け散る。小口径のハンドガンに、頭を吹き飛ばすような威力は無い。だが、「魔女の悪意」によって肉体のかたちを留め置くを外された為に、頭蓋骨はすでにその機能を無くしていた。骨と肉と脳漿を撒き散らし、男の意識は吹き飛んだ。腐敗に堕とされた肉体から、せめて魂だけは解放されたと、そう信じたかった。

 意思を司る頭部が破壊されたからか、腐敗の侵攻は速度を増した。「魔女の悪意」に人としての姿を全て食い尽くされ、男は纏っていた装備をそのままに、汚泥と化した。赤黒い泥の塊が、ほんの数秒前まで人間だったと、一体誰が信じられるだろうか──。

 綾也は、男装の女吸血鬼を見た。

 メティスは、結果を当然と言わんばかりに、平静のまま血溜りを見つめていた。

 自然と銃を持つ指に力が入る。自らの掌まで、「悪意」に腐食されたかのような不快な手応えが、ねっとりと残っていた。

 罵倒の類が、幾つも綾也の喉まで登り、口の中で鬱積する。だが、一言足りとて、吐けない。自分がメティスを批難する資格が無い事を、綾也は認めていた。

 人狼を殺す為ならば、人道にもとる行為も全く厭わなかった。鵜流辺を追い詰める為に、妻の墓を暴くなど、まだ手緩い方だ。必要ならば、泣き叫び嘆願する母親の前で息子を切り裂き、父よと縋る娘の前で父親を撃ち殺した。彼の歩いて来た道は、感謝や尊敬では無く、恨みや憎しみの呪詛で踏み固められている。

 銃で殺す事と、毒で溶かし殺す事、どちらも命を奪われる側に取っては、等しく理不尽でしかない。彼がメティスを問い糾せば、彼女は確実にこう返してくる。

 ──私と貴方の、何が違うのでしょうか?

 きっと自分は碌な死に方はしない。いつか、手に染み付いた血は、きっと刃となって喉を切り裂くだろう。

 だが、苦痛に満ちた最期を覚悟した綾也ですら、男の死に様は許容し難かった。。恐らくは綾也と同じ気持ちを、かつての原初の銀狼も抱いたのではないだろうか。

 灰燼と帰す方がまだ慈悲深いと言えた。「魔女の悪意」は、この裏切りの代償を示す事で、銀狼に魔女への忠誠を誓わせたに違い無かった。

「──審判は下ったようですね」

 冷淡に男装の女吸血鬼が宣言した。

「見ての通り、我が主の「魔女の悪意」によってこの男は裁かれた」

 何の罪によって? 指先一つ動かせなかった重傷人を、残虐な刑に処するに足る理由など存在するのか?

 ──ある。どんな手口を用いても、抹殺しなければならない理由は、歴然とある。

 人狼であること、それこそが罪。無限に罪を拡散させるこの重罪は、死罰を持って誅するしかない。男は、体を汚泥とする事で、罰を受けながらに自らの罪を証明した──。

「──違う」

 綾也はかぶりを振って呻く。

「証明にはならない。そうだろう? メティスも分かっているはずだ」

「…………」

 言葉を発せずに、メティスは綾也へと視線をずらした。

「なるほど、確かにその隊員は「魔女の悪意」で死んだ。人狼だった可能性はある、だが人間のままだった可能性だってある」

「それはありえません。毒の効果が現れた以上、彼は人狼だった」

「──例えばだ、僕がその毒を飲んだとしよう。生き残ればそれで良し、溶け死ねば、あんたは必ずこう言うだろう。『この男は裁かれた』ってね」

 数十秒前のメティスの発言を、綾也はなぞった。

「『緋森に偽人狼が紛れ込んでいた』。たった一言で、僕の全てを塗り替える事が出来る。僕の人生を意にも介さずに、僕はあっという間に人狼扱いだ──ライア?」

 名を呼ばれ、俯いたままライアが肩を震わせた。とても綾也の顔を見れない、という風に、下を向いたままだ。

「僕は、君を、そんな毒を身に宿してしまった君を、心から、可哀相だと思うよ」

「え……」

 打って変わって穏かなトーンで響く綾也の声に、ライアは思わず顔を上げた。綾也の眼差しは、声と同様に深い憐憫の光を帯びている。

「君のその毒血は、何の疑いも無い白を、真っ黒にしてしまう猛毒だ。僕も、君から話を聞いたときは、「魔女の悪意」があるならどれだけいいか、と思った。でも、今は違う。その毒はその名の通り「悪意」そのものだ」

 狼禍症が発見された直後、世界各地で「狼狩り」の名の下に虐殺が頻発した時期があった。疑心暗鬼に囚われた人々が、人狼だと断定した人間を次々と私刑にかけたのだ。その選定には何の根拠も無かった。怪しい、疑わしい、気に喰わない。疑念、或いは醜い私怨で、人生を全て否定され、人狼のレッテルを貼られた罪なき人々。その蛮行を、ライアの血は、伝説の「魔女の悪意」の権威を得て、容易に再現するだろう。

「君は、そんな力に頼っちゃいけない。その「悪意」は、人狼どころか世界の全てに牙を剥く可能性がある。世界を敵に回した魔女の遺産が、僕等の味方になるとは──」

「……「魔女の悪意」は私の全てです」

 諭すように語りかける綾也を遮り、ライアが語気を強めて言った。

「私はこの「魔女の悪意」で人狼を、ひいては銀狼を滅ぼす為に生まれて来たんです。私には他に何も無い。戦えないし、黒の暗泥もまともに使えない。貴方が否定した物を失えば、私は生きている意味が……ないじゃないですか……!」

 淀んでいた滓を掻き出すかのように、初めてライアは「恐怖」以外の感情を露にした。苦しげなその表情に、眼鏡の奥の弱弱しい瞳の輝きに、綾也は問いかける。

「ライア……、それは本当に君の意思なのか?」

「……勿論です」

「僕にはそうは思えないな」

「知り合って一日も経たない貴方に、私の何が分かるんですか……!」

「……君は、他人の痛みを、自分の痛みとして認識出来る子だ。今、君の血で死んだこの男の苦痛も、君は全て知っている」

「…………!?」

 薄氷の仮面を被っていたライアの顔色が瓦解し、みるみる青ざめていく。

「君の「幻視」なら、この血の匂いだけで十分なんだろう? 君は今、腐って溶ける苦痛と恐怖を追体験したはずだ」

「そ、それは……」

 ライアが口元を抑えてよろめく。綾也はそんな彼女を追い詰める、自分の冷酷さに嫌気が差しながらそれでもなお、言い募る。

「肉が崩れる痛みを、血が腐る苦しみを、君は知っている。恐らくは何度も何度も、君はいつも間近でそれを味あわされてきた。気が狂わないように、感情を殺して、心を麻痺させて。「悪意」と同じように、記憶の片隅に追いやって、封じ続けている」

「ちが……」

「違わない」

 狩人のように、少女の逃げ道を潰していく。

「君がどんな吸血鬼なのか。さすがに全て理解したなんて、傲慢になる気はない。だがこれだけは言える。「悪意」の死を甘んじて受け入れる存在なんて、この世にはいない。有無を言わさず、強制でもされない限り[#「強制でもされない限り」に傍点]──」

「……随分、迂遠な物言いだが」

 綾也の言葉を受けたのは、ライアではなく、メティスだった。少女を庇うように下がらせて、男装の麗人は綾也の前に立った。

「私が、ライア様の意思を捻じ曲げて、「魔女の悪意」の行使を行わせているように聞こえますが?」

「そのつもりで言った」

「ならば、邪推も甚だしいと言わざるを得ない」

 声色は変わらずに平静だったが、彼女の口調は辛辣だった。

「我が主は「魔女の悪意」を宿して生まれた時点で、人狼との対決を運命付けられた。ライア様もそれを承知して、日々戦われている。先ほどからの貴方の言葉は、その尊い決意をを愚弄するも同然だ」

「尊いからと言って、正しいとは限らない」

「正誤こそ、問答するにも値しない。正義は常に我等にある」

「……「魔女の悪意」の証明はどうするつもりなんだ?」

「私達がこの地を訪れた理由をお忘れのようだ。人狼への効果は、御覧の通り。後は銀狼への実行を残すのみ」

 メティスの論法は乱暴で、全てを一方的に決め付ける偏った思想に支配されている。証明不能な事実も、彼女が事実だと言えばそれまでだった。故に、綾也はどう言葉を弄してもメティスを説得することは出来ないと、改めて痛感した。

 人間と吸血鬼、合い争っていた過去と同様に、所詮どうやっても分かり合えないのだという断絶を、綾也は見せ付けられているようだった。

「ですが……今回は徒労に終ったようです。新たなる脅威は発覚したものの、この施設に銀狼はいないようだ」

「──ならば、一刻も早く、俺の目の前から消えろ」

 敵意を隠そうともせず、遠雷の轟きのように、ガウルが唸り声を上げた。

「この場で、貴様らのこれ以上の勝手は許さん。風の流れの匂いからして、地上への階段は直ぐそこだ。さっさと、銀狼を求めて、次へ行くがいい」

「……無論、そのつもりです。ガウル殿」

 殺気を漲らせる銀狼を一瞥して、メティスはライアの手を取って、屍を踏み越えていく。

その背中を忌々しげに睨みながら、ガウルは息のある隊員の横に腰を下ろした。

「綾也。俺はここで隊員の様子を見ている。癪だが、奴の言う通り狼禍症感染の疑いのある人間を放置してはおけない」

「……そうだな」

「お前は外にいる殲滅チームとコンタクトを取って、搬送の段取りをしてくれ。一言、二言交わしただけだが、あの部隊の隊長は話が通じやすそうだ」

 綾也の目が、もう一度男の成れの果てに落ちる。異臭を放つ血溜りは動かない、何一つ彼に返さない。

「それと、あの吸血鬼達だが」

「──分かっている。施設を出るまでは目を離さない。もし、何か僕等の害を成そうとするなら」

 綾也は、スラックスの下に常に携行している、ナイフの鞘の、硬い感触を確かめながら言った。

「あの二人は──僕が殺す」

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