6-4

 東の夜空が白み始め、世界が目覚めの兆しを見せ始めた頃。

 宣言通り、アルフレッドは銀の巨体を駆り、再びライアの前に現れた。綾也の命と引き換えに穿たれた右目は、何事も無かったかのように再生を果たしている。その気力は全く衰えていなかった。

 率いる手勢の人狼兵は、すでに三匹しかいなかったが、問題は全くなかった。ガウルは『聖女の慈悲』に倒れ、緋森綾也はこの手で葬った。敵である『緋森』に、最早戦力と呼べる戦力は残っていない。

 解毒と体力の回復に専念する為に夜明けまで待ったが、その必要はなかったようだ。どこかに姿を眩ますか、と思っていたが、探すまでもなく、ライアは変らずそこにいた。

 立ち尽くしている少女の横には、銀色の巨体と長身の男の死体が無造作に転がったままだ。憐れにも、一人残された吸血鬼の少女は茫然自失のていで、あの惨劇の瞬間から硬直したままらしい。

 軽い肩透かしを食らった気分だったが、無理もあるまいとアルフレッドは嗤う。彼女を守る物はもう、紙切れ一枚たりとて無いのだ。

「よう、久しぶりだな」

 ──さて、どんなツラをしていることやら。

 魔女ユリスの似姿である少女の顔が、慟哭に濡れる様は、アルフレッドの嗜虐心を一層沸き立たたせる。魔女の陰惨さには程遠い、処女の初雪の如き純白さを穢すのは、いつに無く心地好い。

 しかし、アルフレッドの期待は、吸血鬼の少女の力強い眼差しによって裏切られた。

 彼我の間合いが、およそ一〇メートルという銀狼を相手どるには致命的な近距離で、ライアは、ぴたりとアルフレッドに視線を据えていた。怯えるでもなく、睨みつけるでもなく、その聖麗な瞳に感情の揺らめきを顕さずに。

 その先ほどの醜態からは別人かと見間違える程に雰囲気を変えた吸血鬼の姿に、アルフレッドは気付く。

 この吸血鬼は、ただこの惨劇の跡地で忘我に囚われていたのではない。決然たる決戦の覚悟を胸に、アルフレッドを待ち構えていたのだ。

 ──何を狙っている……?

 戦いの場で、敵に先入観を持つのは危険だと知りつつも、アルフレッドは少女の意図を量りかねた。

 この吸血鬼には、『聖女の慈悲』以外には特筆すべき点はないはずだった。ガウルのような剛腕も、綾也のような術策知謀も、メティスのような黒の暗泥もない、まさに無力に等しい弱者が、何のつもりで原初の銀狼に立ち塞がってみせるのか。

 気でも狂ったのか、はたまた叶いもしない夢想にでも精神を囚われたのか。そのどちらかに違いあるまい。いかに抵抗してみせたとて、彼女の命はアルフレッドの掌にあるのと同然だ。『聖女の慈悲』の力、その最後の一滴まで搾り取ってくれる。

 一歩を踏み出そうとしたアルフレッドに、ライアは右手を持ち上げて突き出した。その手に握られたナイフを、彼は胡乱げに見つめた。

 アルフレッドの右目を一度は潰し、綾也の命脈を絶った銀の凶器。おそらくはそれ以前にも数多の命を吸ったに違いない刀身は今、最後の所有者の血に染まっている。

「お嬢ちゃん、何のつもりだ?」

「──私は今まで、身体の毒に怯えるばかりで、その力を制しようと思わなかった。いつか周囲を巻き込んで、死ぬしか脳が無いと思っていた……」

 ライアは両手で捧げるように、銀狼の牙を胸の前に抱く。

「これは、綾也さんと、ガウルさんが私に託した力です。今から貴方を殺すのは、私じゃない──」

「何を……」

 ライアの意図を問う間も無く、そして彼女を止める隙も無かった。

 吸血鬼の少女は、何の躊躇も無く、銀狼の牙を自らの喉へと導いていた。

「なに……!?」

 深深と突き立った喉の傷から、鮮血が飛び散るかと思いきや、じわりと白い肌から黒い淀みが滲みだした。

 美しい白銀の刀身が、毒圧に負け、その銀の輝きを毒の色に染めて、砕け散った。ぐらりと支えを失い、少女の矮躯がかしぐ。同時に、傷口から現れた毒泥が蒸発し、黒霧と化して猛烈な勢いで膨れ上がった。

「ちぃっ……!」

 大きく舌打ちを残し、アルフレッドは全力で跳躍し、霧の魔手から逃れる。

 メティスが予見していた、ライアの死に伴う『聖女の慈悲』の暴走。周囲五キロを殺戮する死の霧が、殻を破り噴出し始めたのだ。

 小さな少女の身体に、一体どれだけの毒が鬱積しているというのだろうか。『聖女の慈悲』は生まれる端から蒸散し、津波の如く脈打ちながら押し寄せる。その真価を体を持って味わっているアルフレッドは、色を失って回避する。この量の毒に巻き込まれれば、例え原初の銀狼といえど、解毒が間に合わず即死するだろう。

 待機していた三体の人狼兵はあっさりと飲み込まれた。悲鳴すらその渦巻く瘴気で遮り、その姿があっという間に見えなくなる。

 元々死んで廃墟と化していた緩衝地帯は、ものの数秒で霧に閉ざされた。その勢力は留まる事を知らず、人々がまだ眠りに沈む住宅地にまで伸びようとしていた。

 ライアが自棄にかられて、自殺する可能性は確かにあった。だが、アルフレッドはそうなる可能性は非常に低いと見ていた。数多の人間を観察して来た彼には、吸血鬼の少女は自由意志を持たぬ人形だと見抜いていた。これ程の大きな決断を、たとえ少女は銀狼に迫られても最後まで下せない、と確信していた。

 それを見誤ったのが、彼の行動を遅らせた。その気になれば、少女にナイフを持たせる事なく拉致するなど、造作もなかったのだ。

 ただ──少女はアルフレッドに一矢を報いたつもりで死んで逝ったのだろうが、蔑笑を禁じえない。死の霧の拡散速度は確かに早い。人間ならば逃れることは叶うまい。だが、銀狼の脚力には大きく及ばないのだ。アルフレッドはこのまま死の霧の圏外に退避すれば、それで済む。

 結局は、ライアの死体と何十万の血泥が生まれるのみ。感傷に突き動かされた、まさに愚考の極みと言えた。

 余りにも興を削がれる結果に、最早一秒たりともここにいることに利は無いと、アルフレッドは判断した。

 視線を黒い霧から外そうとしたその時、突然ピタリと、死の霧がその拡散の動きを止めた。

「む……?」

 その不審な状況に、思わずアルフレッドも動きを止める。空まで覆いつくす呵成だった侵攻が、その歩みを留めていた。まるで立ち込めるその姿は、闇が凍結しているかのようだ。

 そして突如、再び毒霧が蠢き始める。ただし、

 事態を飲み込めず、言葉を失うアルフレッドの前で、急速に、拡散したその速度を持って霧が収束していく。渦を巻き、唸りを上げ、荒れ狂いながらも、その行く先は乱れなく一点に集中している。確か、あの場所は、吸血鬼の小娘が死に絶えた場所では無かったか。

 黎明の廃墟群を飲み込んでいた霧は瞬く間に失せ、何事も無かったかのように元の姿を取り戻して言った。そこに何ら毒が残した痕跡はない。そう、何もないのだ。毒に飲み込まれたはずの人狼兵の健在な姿を見て、アルフレッドはさらに驚愕する。

 あれは、『聖女の慈悲』では無かったというのだろうか。いや、そんなはずはない、とアルフレッドは即座に否定する。銀狼の超感覚は、あの霧が命を奪う魔気を帯びていると告げていた。しかし、確かに人狼兵は無事な姿を残しているのだ。

「…………」

 霧が消え、黒は散った。清涼な早朝の空気の中に、アルフレッドは見た。霧を飲み干したその敵の正体を。

 或いは、ライアが健在で、展開させた死の霧を逆流させたことも考えられた。死の霧を操り、反転させたのは間違いなかった。だが、それを行ったのはライアではなく──。

「……まさか、ガウルか?」

「…………」

 アルフレッドの声は、現れた敵の正体を捉えきれず、誰何に近かった。

 霧の底から現れたのは、弛緩したライアの体を胸に抱いた、巨大な黒影だった。その狼を模った顎、牙、爪、体格は、アルフレッドの姿と相違ない。ただ一つ、その毛皮のみが銀色の輝きを失っていた。まるで墨汁を垂らしたかのように、全身を覆う長毛のその毛先までが、漆黒に染まっていた。

 銀狼──いや、黒狼はそっと腕の中の少女をアスファルトの上に、そっと優しく横たえる。傷痕を残しながらも、白い喉の傷口は塞がっていた。

 黒狼はアルフレッドに一瞥を投げると、彼を無視して立ち尽くしていた人狼兵共へ襲い掛かった。アルフレッドはそれを阻止もせず、観察する。銃弾を弾くその堅牢な毛皮、あっさりと人狼の体を両断するその膂力。その動きは、ただ色を失ってはいるが、彼が知るガウル・オーラントに間違いない。

 不可解な復活劇ではあったが、正体さえ掴めば畏れることは無い。人狼兵との戦闘にも、その姿の異様さに伴う変化は見られない。未知なる能力を潜めているというなら、直に相対して引き摺り出すのが、アルフレッドの信条であった。

 銀狼が地を蹴り、今しがた三体の人狼兵を屠った黒狼へ襲いかかる。接近する敵に気付き、黒狼が身構えるが、遅い。アルフレッドの握り固めた拳が、ガウルの顔面で炸裂する。 黒狼はあっけなく吹き飛び、ビルの側面に叩き付けられた。身を起こそうとするも、再び肉薄した銀狼が蹴りを見舞う。銀狼の剛脚は、黒狼が背にしていた鉄筋コンクリートごとその肉体を粉砕する。つい、数時間前の再現だ。原初の銀狼の連撃に、黒狼はただ翻弄され、何度も何度も地に這い蹲る。

「…………?」

 ──不意に、アルフレッドの右手に痺れるような小さな痛みが走った。思わず手を検めるが、特に異常は見られない。

 彼が些末な違和感に立ち止まる間に、ガウルは立ち上がった。よろよろとその足下はおぼつかず、呼吸は虫の息だ。

「どうした、ガウル? てめェ、俺に殴られる為に起きたのか? そんな性癖があったのか?」

 アルフレッドが口汚く挑発する。

「せめて、『赤熱の灼泥』でも打ってみたらどうだ? そのまま、粉々にでもなるつもりか?」

「……『赤熱の灼泥』は、もう使えない」

 おもむろにガウルが口を開く。その苦しげな声には、やはり負傷と疲労の色が濃い。

「見ての通り、俺の身体はボロボロだ。もはや、以前のように力技での戦闘は出来まいよ。だが……お前を倒すにはこれで十分だ」

 黒く染まった双眸に、暗い殺意を秘めて、ガウルが不敵に嗤う。

「殴られる為に起きたのか、と言ったな? 。まず、お前にその手で、その足で触れてもらう必要があった」

「なに……?」

「いくぞ」

 黒狼が宣戦布告と共に、加速した。その黒爪を振りたて、銀狼に肉薄する。常軌を逸したそのスピードは、しかし銀狼にとって小さな脅威にもならなかった。多大なダメージからか、むしろその動きに以前のキレは微塵も無い。

 アルフレッドは軽く右腕で振り払おうとし────、

「な……!?」

 その右腕の激痛を伴う痺れに驚愕した。一度は見逃した異常の、その予想を越える反復に、全身が釘つげになる。だが、その異常に耐えながらも、ガウルを迎撃する余裕はまだ残っていた。ガウルの振りかざした爪を、左手の爪で受け止める。

「ガァ……!?」

 同じく走る左腕の痺れに、アルフレッドは今度こそ悲鳴を上げた。両腕のコントロールを理不尽に奪われ、がら空きになったその胸板に、ガウルは立て続けに拳を放った。

 威力を大幅に減じたガウルの拳など、幾ら数を重ねようが意味はない──はずだった。だが、もはや疑いようは無かった。拳を放った右腕、防御した左腕、そして今、胸を襲う嵐の如き乱打。悲鳴を上げる銀狼の肉体の部位は、ことごとくガウルに直接触れた箇所だった。その一撃一撃に、杭に貫かれるような痛みが伴う拳から、アルフレッドは色を失くして離脱する。

「て……、てめェ何をしやがった……!?」

「……違う」

「……あァ!?」

「俺は無力だ。俺の牙は貴様に届かなかった、だから俺はさっき、一度死んだ」

 ガウルの声が静かに夜気に広がっていく。アルフレッドに対しては、燃え盛る激情しか叩きつかなかった男が、今は冷徹な視線を投げている。その変貌に、アルフレッドはようやく気付かされた。

 子犬と侮った相手が、原初の銀狼の命に届く牙を持っている。その確信をもって目の前に立っていることに。

「あの娘か……! その体、一体何をしやがった……!」

「俺の体は毒に負けた。あいつは、俺の体を作り替えたんだ。毒に抗うのではなく、毒を受け入れて生きる体に」

 

 

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