3-4

 戦いの終焉を悟ったメティスが、黒球の防御陣を解除する。

 途端、熱風が逆巻いて、清涼だった周囲の空気が部屋の温度と同調する。息をするにも、喉につかえそうな熱気と、鼻を突く焦げた建材の臭気に、綾也は軽く咳き込んだ。

「……久しぶりに、派手にやったなぁ」

 嘆息しながら、改めて部屋の惨状を眺める。

 仄暗い照明に見える範囲だけでも、赤熱の灼泥が残した焼痕は凄まじかった。床板はもとより、炎の舌は床下のコンクリートまで焼き焦がし、なお燻っている。

 その焦げ痕が、メティスの張った黒の暗鋼の防壁に沿って綺麗に残っているのは、ガウルが周囲に全く気を遣わずに、力を行使したことを物語っている。裏を返せば、熱一つ通さずに凌いでみせたメティスの技量もさるものであった。

 炎焼の根源であるガウルは、部屋の中央で膝を折り床へ腰を下ろしていた。肩を揺らしている所を見ると、莫大な能力の放射は、銀狼に相応の消耗を強いたようだった。

 元々、吸血鬼の黒の暗泥は、銀狼たるガウルには相容れない、反属性の能力である。生来の素質も才能も無いガウルは、大吸血鬼の心臓に頼って無理矢理に、かつての「竜公女」の力を一部再現しているのだ。吸血鬼を殺す銀の爪牙と共に、人狼すら容易く屠る赤熱の炎泥。全く異なる二つの凶器を有する化け物を、裏の世界ではこう呼ぶのだ。「双頭の魔犬」と。

「大丈夫か、ガウル」

「……当たり前だ」

 気遣うでもない綾也の声に、ガウルは片手を上げぶっきらぼうに答えてみせた。既に銃撃にさらされた傷痕は消え失せていた。再生能力も銀狼の恐るべき武器の一つだ。

「「赤熱の灼泥」……聞きしに勝る火勢ですね……」

 ライアを連れ立って、メティスも彼らに歩み寄った。

「いてくれて助かったよ、メティス。何分、ガウルもまだ未熟なんでね。多少のコントロールは効くみたいだけど、手加減なんて器用な真似は出来なくてさ」

「……悪かったな」

「それで? 鵜流辺はどうなった?」

 尋ねるまでもない事を、敢えて綾也はガウルへ問う。答えるまでも無かったが、ガウルは事実として確立する為に、敢えて口にした。

「灰にした。今度こそ、間違いなく」

「──そうか」

 綾也が声を落とす。勝者として生き残りはしたが、彼にもガウルにも、勝利の愉悦や余韻は微塵も無かった。

 鵜流辺が、すなわち彼が加担したハンドラーが残した禍根は非常に大きい。今まで、人狼を軍事利用しようとした勢力が存在しなかったわけではない。だが、制御法のない人狼の使い道など、精々が敵陣や街中で解放するくらいであった。

 それでもテロとしての効果は十分過ぎたが、制御法が確立するとなると、齎される災禍は桁が違う。技術を持つ勢力は、持たざる勢力を一方的に蹂躙する事になるだろう。よしんば、お互いが狼を食い合わせるとしても、その人狼はどこから沸いてくるのか。

 貧しき人、弱き人。ただ生きることすら窮する命の、巨大なマーケットになるのは間違いない。それは、人類が闇の一面において、人狼との共存を受け入れることを意味する。それは「緋森」やガウルにとって、敗北に等しかった。

「……鵜流辺が先に突入した隊員を何人か生かしてある、と言ってたな」

「ああ。まずそいつらを探そう」

 ガウルは気だるそうに立ち上がると、鵜流辺が現れた方角へ歩き出した。それに続いて、三つの靴音の残響が、闇の奥へと消えていった。


 地下施設の内装は、地上の病院とほぼ同じであった。長い廊下の左右に、両開きのドアが点在している。残党の気配が無いか、全てのドアを注意深く開けていくが、どこももぬけの殻であった。

「やっぱり一足遅かったな……」

 綾也の嘆息は、床に残る凹みに向けられていた。巨大な機材が置いてあったのは明らかで、しかも埃の溜まり方みても動かされたのはつい最近だ。

 鵜流辺の言葉を信じるならば、人狼技術は未だに発展途上であるらしい。この時点で確実に潰しておく必要があったのだが……。

 施設が襲撃される可能性が、僅かにも生まれた時点で、撤収されたのが窺われる。ケージにいた人狼の規模から見ても、相当数のスタッフでこの施設は維持されて来たはずだ。それが機材ごと消えているとなると、敵ながらその潔い引き際は見事と言うしかなかった。

 あれだけの人狼を従えた鵜流辺ですら、所詮は蜥蜴の尻尾だということだ。搬送が難しいとはいえ、実験の成功例の陣狼を惜しみもなく捨て駒にするハンドラーの底知れなさに綾也は寒気を覚えた、

「……この先か」

 ガウルが廊下の突き当たりのドアを押す。空気の流れが、綾也ですらそれと分かる血臭を運んで来た。

 ドアの向こう側も、薄暗い照明のままで内情をつぶさに観察は出来ない。だが、床に無造作に転がっている影の正体は、容易に想像が付いた。

 野戦服を無残に切り刻まれた兵士達の骸。ざっと見ただけでも三〇はある。予想がついていた事とはいえ、それは無情にも行方不明になった殲滅チームの人数と一致していた。

 綾也は、顔を引き締めつつ躊躇なくその骸の中に足を踏み入れていく。

 この兵士達は、人狼の犠牲者としては幸運と呼べる方なのかもしれない。通常なら人狼に殺されるのは、喰われるのと同義だ。遺体は判別すら叶わないことが多い。鵜流辺の指示の為か、兵士達の遺体は殺された瞬間のまま、横たえられている。兵士達の遺体の損傷具合は様々であり、首を掻き切られている者、全身に銃瘡を穿たれ絶命した者、果ては眉間を一撃で撃ち抜かれている者もいる。綾也が対面して来た人狼の犠牲者の遺体とは、一線を画していた。

「……くそ」

 やりきれない胸の中を怒りを、綾也は毒づいて吐き出すしかない。訓練された殲滅チームは、人狼兵の力を試す良い獲物になったのだろう。鵜流辺を初手で仕留められれば、まだ少ない犠牲で済んだかと思うと、重い慙愧の念が綾也を打ち据える。

 だからせめて、生き残りがいるならば救いたい。

 鵜流辺の言葉を信じるのは癪だったが、綾也は微かな息遣いを感じ、足下の兵士を検めた。

「…………」

 激痛からか表情は苦悶に満ち、顔面中に脂汗を浮かべている。意識を失っているが、呼吸に支障は無さそうだ。体に視線を落とすと、両の二の腕と、太腿がざっくりと切り裂かれている。出血が酷く、このまま放置するのは危険だ。

「綾也、一〇人は息がある」

 同じく手近な兵の様子を見ていたガウルが呟いた。

「全員、足と手の健を切られて身動きを封じられているが、まだ命に別状はないようだ」

「そうか……」

 鵜流辺が多く人質を取ろうとした事が、逆に功を奏したようだ。奇襲の結果、鵜流辺が人質を運ぶのを諦めたのならば、綾也たちは最良の選択をした事になる。

 だが、ただ喜んでもいられない。一〇人ともなればここから搬送するだけでも、容易ではない。四人だけでは重傷者の搬送は手に余る作業だ。

 外の部隊と協力して、まず搬路の確保を──。

「綾也殿」

 綾也の思考を遮って、メティスが冷たさを感じさせる声で、言った。

「酷なことを言うようだが……。人狼に怪我を負わされた者を連れて帰るのは危険なのでは?」

「……それは分かってる」

 メティスの指摘は、狼禍症の最も厄介な点を正確に突いていた。人狼による負傷で、狼禍症が発症する以上、怪我人だからと言って本陣に移送するのは、危険な行為だった。

 殲滅チームは、「緋森」ほど狼禍症への抵抗力を持つ人間で構成されておらず、隊員の身でありながら狼禍症に感染してしまう犠牲者も少なからずいる。

 その為に、殲滅チームは対策として、負傷した者は三ヶ月隔離施設で監視され、無傷であったとしても一ヶ月は保護期間として戦線を離れる規定を設けている。

 この怪我人たちが、狼禍症を発症させない保証は全く無い。だからと言ってこのまま放置すれば確実に助からない。

 逡巡に綾也が言葉を詰まらせていると、メティスはライアの手を引いて負傷者の前に座らせた。

「ここは我が主にまかせていただきたい」

「……え?」

「我が主の試毒をもってすれば、狼はたちどころに正体を晒すでしょう」

 メティスが何を言っているのか、綾也も、ガウルもすぐ理解に転じることが出来なかった。

 だが、メティスがどこからか小刀を取り出し、それを小さくライアの指に這わせた瞬間に彼女の恐ろしい意図、電撃に撃たれたかの如く気がついた。

「やめろ──!」

 怒号するも遅い。

 小さなたおやかな指先に、黒く、血の球が生まれた。

 メティスに導かれるまま、いつしか瞳の焦点を失っていたライアは、無表情に指を負傷者の口元に寄せ──。


 ──崩壊が。腐敗が、始まった。

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