川原 ―美弥―
美弥はそっとうかがうようにして、校舎の前、グラウンド側へと回る。
朝もやの中、並ぶテントはまだ静まり返ったままだった。
もう佐田先生は捕まってしまったのか。
それとも生徒たちに
「近衛」
呼びかけられて、どきりとする。
あの付属の教師がグラウンドの途切れた草原に立っていた。
自分たちが一晩中いなかったことがばれているのだろうか。
「佐田先生なら、川の方に行かれたぞ」
と佐田先生が向かったらしい
えっ? と美弥はついきき返しそうになった。
御法川先生はそのまま、自分はただ、見張りでここに立っているんだと言わんばかりの顔をする。
おそらく、もう教師たちは大方の事情を
御法川先生は消えた自分たちにそのことを教えるためにここに立っていてくれたのか。
美弥は、なにも言わずに、御法川先生に向かい、深々と頭を下げた。
ふいに泣きそうになる。
佐田先生の言っていたことは正しかった。
自分が御法川先生の
きつく決まりを守らせようとするばかりで、一見、生徒に対して愛情などなさそうな御法川先生だが、ひとり、ここに立ち、自分たちを待っていてくれた。
ましてや、自分の生徒でもない美弥の名字まで覚えていてくれたではないか。
あのとき、自分の周りにいた仲間たちは、自分のことを名前でしか呼ばなかったはずなのに。
顔を上げると、御法川先生は相変わらず
こちらを見ようともしない。
美弥は少し笑って、
佐田先生だ。
手には
のらりくらりと歩く姿は、いつもの佐田先生と変わりないように見えた。
美弥は足を止め、大きく息を吸う。
「せーんせ」
大きくそう呼びかけると、おう、と佐田先生がふり返った。
「なんだお前ら、
釣り、教えてやるって言ったろ?」
「……うん」
と美弥は
「なにこれ、せんせー。
きらきらしてる」
小さな小物入れのようなものの中に、
「ルアーだよ。
お前、ほんとになんにも知らねえな。
久世は釣りしないんだな」
「あー、あんまりやんないですね。
ふだん、なにやってんでしょう、あいつ。
中学入ったら
しゃがんだ
「そうか。
お前らももう中学生か――」
そのつぶやきに、中学の制服を着た自分たちを佐田先生が見ることはないのだと
美弥はやり切れなさに、意味もなく、ルアーのひとつをいじっていた。
「あれか?
久世に害がないか、先にひとりがようすを見に来たのか」
えっ? と美弥が顔を上げると、佐田先生は笑ったまま、釣竿を
ぽちゃん、と目の前に針が落ちる。
水に輪が出来た。
「お前は久世のママみたいだからな」
「ママなんて」
と美弥は赤くなる。
「そうだな、ママはないか。
お前も大変だよな。
久世と叶一両方のめんどう見てるもんな」
「叶一さんはわたしより大人ですよ」
「……でも、お前が世話焼いてるよ。
女ってのは、子どものころから、女で大人なんだよなあ」
と今更ながらに
「特にお前が俺と同い年くらいでなくてよかったよ」
「は?」
いや、恐ろしいわ……と苦笑いする。
「こんなに先へ先へと読まれちゃ、久世も悪さも出来まい」
「せんせー、叶一さんと同じこと言ってますよ」
と言ってやると、佐田先生は複雑そうな顔をしていた。
さわさわと
川の側の朝もやはまだ晴れない。
しっとりと肌が
冷たいいい夏の朝だった。
「先生」
「なんだ」
「目はもういいんですか?」
「……あれからすぐ治ったよ」
なにを知っているのかとも問わずに、佐田先生は小さくそう言った。
「先生って、霊感あったんですか?」
「なんでだ?」
「だって、見えたんでしょう?
実也さんが見せた映像」
「霊感なんてないよ―
肉親だから、見えたのかな」
と
「
そうつぶやき、佐田先生はうす青い空を見上げた。
美弥もつられて上を見る。
夏の空にうすい雲が張っていた。
たしかに。
もう十何年も昔のことだ。
教頭先生もじゅうぶん苦しんでいた。
素通りして、今まで通りに生活していくことも、出来なくはなかったろうが。
「でも、それも先生らしくないような」
「おいおい、問題発言だぞ」
と佐田先生は苦笑いしたが、そこで
「まあ、もっと
「お前、ほんとに
美弥は佐田のぶら下げている釣竿の先を見る。
まだぴくりともせず、糸は、のどかに風に揺れていた。
感傷的になった美弥は、らしくもなく、きいてもどうしようもない、ただ、佐田先生を傷つけるだけのことを言ってしまう。
「先生、もう教師は出来ないの?」
「出来たら、びっくりだろ」
「これからどうするの?」
「とりあえずは、行く場所もやることも決まってるし。
寝るとこも、飯の心配もいらないから」
「……先生、笑えません」
と美弥は言ったが、ははは、と佐田先生は自分で笑ってみせる。
「そうだな。
出てきたら――」
と言いかけたあとで、
「まあ、そんなことを考えるのも教頭先生に申し訳ないんだが」
と付け足したあとで、
「出てきたらどうするかな」
と佐田先生はつぶやいた。
美弥を振り向き、
「
と笑う先生に、
「いいですよ。
お父さんに言っときます」
と言って、美弥は
「でも、そのころにはもうお前も近衛美弥じゃないんだろうなあ」
まるで、美弥の父親か、兄でもあるかのように、しみじみとそんなことを言い出す佐田先生に、美弥は、
「……だといいんですけどね」
とちょっと
佐田先生は、自分の相手として、おそらく、大輔を思い描いているのだろうが。
あの
そもそも、大輔が自分のことを好きかもわからないし。
そんなことを考えていたとき、佐田先生がうしろをふり返った。
揺れる背の高い茅の向こうを見つめている。
「来ねえな、誰も」
とつぶやく佐田先生に、
「呼んできましょうか」
と美弥は言った。
「そのうち来るだろ。
いや―― 来ないかな」
と佐田先生は
「来ますよ、きっと……」
と美弥は膝を抱えたまま笑って見せた。
そのために御法川先生も立っていることだし。
川を吹き渡る風が頬をなでてくる。
その冷たさに、まだ、夏は、はじまったばかりだったとようやく思い出す。
夏休みがはじまれば、いつもなにか楽しいことが起こるような気がしていた。
そして、それは今まで間違いではなかった。
美弥はみんなで
きっと、あのノートにわたしたちが書けることは、なにもない。
「近衛……?」
美弥はうつむき、自分の抱えた膝だけを見つめた。
「わたしね、先生が担任になったとき、すごくうれしかった。
うちほら、生徒増えすぎて、
新しい教室、新しい先生。
ぜったい、これから何か……楽しいことが起こるって。
わたし、わくわくしてた――」
「近衛」
ぽんぽんと佐田先生が美弥の背を叩く。
美弥はそっと佐田先生の肩に頭を寄せた。
先生、さようなら。
でも――
先生がわたしたちの担任で、わたし、本当によかったよ。
そのことだけはきっと、
ぜったい、嘘じゃないから――。
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