旧校舎の配膳室



 



 

 配膳室の前に行くまで、なにごとも起こらなかった。


 だが、そこに来たとき、


 ふと、みんなとは違う話し声が聞こえた。


 かすかにもれ聞こえる話し声。


 これが馬の耳に念仏の正体か――。


 そう気づいた大輔は静かにするよう、みんなに言う。


 すると、わずかにだが、言い争うような声が聞こえてきた。


 全員が思わず耳をドアに近づけたとき、バンッ! とそれは開いた。


「いてっ」


 一番前にいた一志が鼻を押さえて転がる。


 だが、すぐに廊下を指さし、あっ、あれっ、と叫んだ。


 そこに、坊主頭の少年がいた。


 白いタンクトップのようなシャツに半ズボン。


 どちらもかなり着古きふるしている。


 立ち止まりこちらを見ているその顔は、まぎれもない教頭先生の若いころの姿だった。


「返してっ!」


 そんな声ととともに、誰かがコンクリートの階段を上がってくる音がする。


 少年はドアのところまで戻ってくると、それを閉め、近くにあった机と椅子でドアをふさいだ。


 大輔たちの姿は見えていないようだった。


「返してっ!」


 中から女の子が叫び、ドアを叩いている。


 少年は笑いながらも適当てきとうなののしりの言葉を上げ、走り出そうとした。


 だが、小脇こわきにはさんでいたノートをもう一度見て、迷うような顔をする。


 そのとき、女の子がもう一度ドアを叩いた。


「もうっ。

 おねえちゃんに言うからねっ!」


 その言葉に、むっとしたように少年はその場に背を向けた。


「あのノート……」

「図書室の怖い話の一集いっしゅうめみたいだな」


 女の子がドアを開けようとするドンドンという音がひびく。


 見ると、少年は再び、職員室の辺りで足を止めてこちらを見ていた。


 そのとき、机と椅子が倒れた。


 それを確認した彼は走り去る。


「よくあるいじめよね。

 ノートとか取り上げたり、閉じ込めたり」

と一美がつぶやく。


「でも、ああいうときって、大抵たいていその子のこと好きなんだよ」


 ちょっと笑って言った一志を一美がにらんだ。


 あんたにもそういう経験があるのかと言うように。


 だが、一志はどちらかと言えば、やられる方だろう。


「うーん、でも、教頭が好きだったのは、もしかして、聡美さんじゃないのかな」


 美弥がつぶやく。


 たしかに、さっきもおねえちゃんという言葉に反応していたようだ。


 教頭は実也が聡美の妹だから、かまっていただけだろう。


 すぐにドアは開くかと思われたが、急に咳き込む声が聞こえてきた。


 誰かがうずくまるような、床になにかがこすれる音がする。


 実也は喘息ぜんそく発作ほっさを起こしたようだった。


「あ、開けないと!」


 すぐ側にいた一美がドアを開けようとするが、開かない。


 無駄むだだ、これはただの過去の再現さいげんなのだから。


 はげしい咳と呼吸困難こきゅうこんなんのせいか嘔吐おうとしているようにも聞こえる声。


 そして、ときおり混ざる木のドアを引っかく音。


 みんな息を飲み、ただそのドアを見つめていた。


 今まさに、人が死にゆくさまを見ながら、どうすることもできないのだから。


 切れ切れに聞こえていた呼吸音が、音のなくなった廊下にやけに響いていた。


 だが、やがて、それも聞こえなくなる――。


 みんな黙り込んだ。


 そんな中、最初に動いたのはやはり美弥だった。


 その場にしゃがみ込み、ドアのすき間をのぞき込む。


 そのまま唇をみしめた。


 見ると、そこに小さな子どもの指先がのぞいていた。


 ほんの指の先っぽだけが、外に出て、望む外の光を受けていた。


「……事故、だよね」

 涙ぐんだまま倫子が言った。


「事故だよね、これ。

 だって、こんなの、教頭もこの子も可哀想かわいそうだ!」


「そうだな。

 でも、予想できなかったことでもないだろうけど」


 淡々たんたんと大輔は言う。


 教頭先生は机と椅子が倒れるのを見て、もう実也は外へ出れるものだと思い込んでここを去った。


 喘息ぜんそくの発作が起きたのは、運の悪い偶然ぐうぜんと言えなくともない。


 だが、親しかったのなら、実也が喘息持ちであることをわかっていただろう。


 子どものことだから、そこまで考えがおよばなかったのかもしれないが。


 こんなとき自分なら、と考えるのは傲慢ごうまんだ。


 もっとも、自分なら、こんな風に誰かを閉じ込めたりもしないのだが。


「久世、冷たいよ!」


 教頭先生と実也の両方に同情して、倫子は軽いパニックを起こしていた。


 なじる倫子の肩を美弥がたたく。


「ほんとに不幸な事故だけど、これが佐田先生に罪をおかさせた事件の始まりには違いないから」


 その言葉に、ようやく大輔が何をうれえているのか、倫子にもわかったようで、彼女もまただまり込む。


「行こう。

 扉、開きそうだよ」


 ドアを開けると、そこに実也の死体はなかった。


 大輔たちの心中をおもんばかってのことかもしれない。


 叶一を先頭に奥へと進む。


 最初にあった場所に、やはりドアはあった。


「開けるよ」


 軽い調子で叶一は言い、くっとノブをひねった。





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