第37話 不思議の国のアリス

 白ウサギは朝寝坊しました。


 部屋一面の美女……ではなくにんじんの夢を見ていたのです。

 何とも可愛らしいおっさん白ウサギです。

 ある意味健全であり、また、ある意味では健全とは言えませんが平和主義者です。


「いけないいけない! 0.1秒でも遅れればハートの女王様に殺される……!」


 遅刻即クビ……ではなくクビちょんぱな残忍かつ超絶ブラック企業に彼は勤めています。


 言うまでもなく社長はハートの女王。


 ――首をちょん切っておしまい!


 が口癖の面倒なワンマン社長です。

 畜生であり社畜の白ウサギは老眼鏡を押さえながら、ひいこらぜえぜえと息を切らして走ります。

 定年も間近、最近メタボで……。

 毛が白いのも実は恐怖と心労のせいでした。


「遅れる遅れる大事な御前会議に遅れる~ッ」


「――服を着て喋る白ウサギ……?」


 茂みの奥に偶然その姿を見かけたのがアリスと言う少女でした。

 芝の上で姉の読書に付き合っていたアリスでしたが、正直退屈でどっか行こうかな~とか思っていた矢先でした。


 アリスは音もなく一人すっくと立ち上がり、無言で白ウサギを追いかけます。

 途中、ドレスや太ももに忍ばせておいた特注の猟銃を手早く組み立てると弾を込め、躊躇ちゅうちょなくぶっ放しました。


 パーン! パーン! パーン!


「ちっ外したんじゃ」

「ひいっなッななななんですかあなたは!?」


 アリスは長い銃身を舌でぺろりとなぞって、にたり。


「あはっ、だって白ウサギ……ウサギと言えば――狩りじゃけんのおおおう!!」


 何とも武道派でした。

 家族はどうにか彼女を淑女にしようと様々な習い事をさせましたが、どれも三日と続かず結果はこの通り。

 ですが唯一続いているのが狩猟だったのです。

 大人しく命中率の上がるレッスンを受けていたりします。


「あッはははは! 何かを狩るのは愉快愉快!」


 自らで調教した馬と犬を操り森や林で好んで鹿やウサギ、狐ときどき熊などを狩るというアリス。


 狩りが伝統でもある貴族的と言えば貴族的ではありますが……。


「わっわたしを撃ってもメチャ硬くて臭くて不味くて何だこのウサギ肉腐ってんのか的な肉しか味わえないでしょう! 恐怖と社畜人生で凝り固まった肉などお嬢様のお口に合いませんとも! どうかお考え直しをおおおーッ」


 陛下~とか地面に額を擦り付ける勢いで白ウサギはアリスに懇願します。

 自らを卑下し過ぎな気もしますが、まあそれは置いときましょう。

 銃口を向けられ一方的に追い詰められている白ウサギですが、実は生き残る道を見出していました。

 すぐ出る土下座や平身低頭は伊達じゃありません。

 ベテラン社畜の白ウサギからすれば歳若い少女一人のご機嫌取り、もしくは懐柔など朝飯前。

 話し合いに持っていければしめたもの。


 アリスは冷めた目で告げます。


「是非に及ばず」


「あああああ待って下され! 何が望みなのですか!? 命以外でしたら何でも差し出せます! たとえそれが我が社の最重要機密でも!」


 ああ保身はどこまでも。


「……興が冷めた。なら、つわものをわたくしの前に連れて来て下さらない? そうして頂ければあなたのことは見逃して差しあげますわ」


 無慈悲な猛者ではなく貴婦人がそこにはいました。

 じゃけんのうとか男気溢れる声で言っていたのが嘘のようです。

 ちゃんとレディ出来るみたいですね。


「わわわわかりましちゃッ」

「……」


 白ウサギは震え過ぎて噛みました。

 アリスはくすりともしません。

 まるで氷河期にいるようです。


 かくして白どころか青くなった白ウサギに案内されてウサギ穴に飛び込んだアリス。


 その先は、額に汗した者たちが行き交う、修羅場。


 一つのミスで首ちょんぱされるという地獄カンパニーでした。

 トランプの兵隊は勿論、可愛げのないチェシャ猫にマッドハッターに三月ウサギやイモムシなどなど、個性溢れる修羅たちが集っています。

 アリスはたぎるものを感じました。

 引っ切り無しに電話が鳴り声が飛び交い打鍵音は絶えず、オフィス内を皆が皆忙しなく走り回っています。

 ここはまさに戦場と言っても過言ではありません。


「あはは、あっははははははッこの中の猛者共を打ち破って天下一をもぎ取るけん! かかってこいやああああ!!」


 アリスは携帯していた銃をしまうと公平性を期すために徒手空拳の構え。

 目を血走らせた修羅社畜たちの武器と言えば剣よりもペン、端末でしたので。

 猫カフェ開発事業部長のチェシャ猫、女王の衣装で帽子担当のマッドハッター、お茶開発室室長の三月ウサギ他、社員の目の色が変わりました。


 妨害され業務が遅延すれば責任は自分たちに。


 そう、つまりは首ちょんぱです。


 降りかかる火の粉を払うのは当たり前。

 皆一斉に仕事の邪魔をされては死ぬと文字通り死に物狂いでアリスに襲いかかりました。




 どれくらい経ったでしょう。


 呻き声の中、アリスだけがオフィスに佇んでいました。


「弱い。銃を使うまでもなかったなんて。どこかに強者はいないの?」


 ぐるりと見回した時、


「ちょーっとおおおっこれは一体どういう事なのかええええ!? 全員の首をちょん切っておしまい!!」


 ピンヒールの踵を高らかに鳴らしてヒステリックに叫びながら現れたのは、仕事が滞っているのを知って激怒したハートの女王です。

 関係ないですが履物の通り最早ピンの悪役ヒールです。


「!? これは奇妙なこと。働ける者がいないではないの! お前は何者かえ?」


 倒れる部下たちの中で涼しい顔をしたアリスを見て、ボールペンで書いた線のような細い眉をひそめます。


「わたくしはアリス。ふふふあなたはお強いんですわよね。皆恐れているようでしたし、ひと勝負しませんこと?」


 ハートの女王はアリスの瞳の奥に自分以上の狂気を見ました。

 冷や汗を浮かべてにっこりと微笑みます。


「ほほっ妾はお飾りの社長、何の力も持ってはおらぬ」

「本当に?」

「ほ、本当だとも」

「嘘じゃなく?」

「嘘じゃないとも!」

「で、実際のところどうなの? ――白ウサギ?」


 ハートの女王は凍りつきました。


 他に喋れる者がいるとは思わなかったのです。

 ギギギ……と錆び付いたブリキ人形のように首を回す女王。


 その先に居たのは、普段足蹴にさえしていた白ウサギです。


「それはですね」


 白ウサギは掛けている老眼鏡のレンズの向こうに視線を隠し、いつものように気弱な、けれど人の好い笑みを口元に浮かべます。


「時折り、お強いですね。なのでたまにいらしてみて下さい」


 策士の笑みでした。逆襲の笑みでした。


「へえ、やはりそうなんですのね!」


 この日を境にハートの女王は何かに怯えるようになり、城の塔に閉じこもってしまったとか。

 そのうち社長を降り、社畜たちは自由の身になったんだとか。





「……うにゃむにゃ、ハッ! 私寝てた!?」


 居眠りから目を覚ましたアリスの姉は妹の方を見ました。


「ああとても気持ち良さそうにのお」

「うう、ごめんなさいねアリス」

「全然」


 姉は何事もなかった様子で隣に座っている妹を見て首をかしげます。


「アリスったら今の隙にイチゴジャムでも食べたの? ほっぺたに付いてるわよ?」

「ああ? かかかっ拭き取るの忘れてたけん。ありがとうお姉さま」


 まだまだ色気より食い気なのねと呆れた顔をする姉。


「家に戻りましょアリス」

「ああ、お姉さま」


 本を閉じ芝生から立ち上がってスカートの埃を叩き落とします。

 この先もしばらくは姉の読書に付き合わされるアリスでしょう。

 でも家族が大好きです。

 自分で獲った肉で食卓をにぎやかにするのが生きがいの一つでもあります。

 だからアリスにとって気性にも合う狩りは魅力的なのです。


「……猛者はいずこ」


 そう小さく独りち姉の後に続きます。

 今日も強者を求めるアリスは退屈を甘受するのでしょう。


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