第36話 誓いを立てた道を歩いていきます。結局は。
「こんなこと……信じられるか、よ」
後方で呻く針間。椋谷の姿を確認し、「一卵性双生児か……? さっきのはよくできたホログラムか……? それとも……俺が……」
そう立ち尽くす針間の目の前に、今度は
「わっ?」
患者服の暁が、いきなり現れた。
「あーっ! 外に出られました! こっちから回り道すれば……そうかあ……っ。はあ。落ちるかと思いました……。あっ、瑠璃仁様、こっちはすごいです! ちょっと行ってみますね!!」
そう言って、暁はまた忽然と姿を消す。合成写真のように、何事もなかったように。
「また、消えた……」
繰り返される超常現象に、白夜と針間は絶句する。
そのまま二人とも立ち尽くしていると、間を抜けて、電話機を片手に若い研究員が走ってきた。
「お屋敷から電話が転送されてきました! サンパウロ日本国総領事館からです。パジャマのような服の矢取暁さんが、所持金もパスポートもなく、途方に暮れて泣いているとのことで……」
サンパウロ……?
ブラジルだ。暁さんが、ブラジルに?
「――ああ、はは。地球の裏側まで行っちゃいましたか。送金するから帰国させてくれるかな。明日の便ね、オーケー。羽田空港に迎えを用意しておきますよ」
瑠璃仁は電話を返すと、頷きながら面白げに言う。
「この世界は、ずいぶんくねくねした空間になっているんですね。二次元の紙で言えばくしゃくしゃに丸めたような感じだな。接した点から飛び移っちゃったか」
「下手な……芝居は……よせよ」
言い返す針間にも、もう力がこもっていない。
「明日、羽田まで一緒に迎えに行きます? 暁が帰国するのをその目で見たら少しは信じてもらえるでしょう」
「だから、双子かなんかなんだろ」
「帰国させる事務手続きに戸籍謄本が必要なので、その処理ついでに家系図でもお見せしますよ」
「一条家ともなれば、人ひとりの戸籍なんて隠せるに決まってら……」
「同一人物であることを証明しなければなりませんか……? ふう。ここまで客観的に見て、苦しいのは間違いなく針間先生だと思いますよ」
苦しいという自覚は針間にもあるようだ。
「なんなんだよ……これは!」
眩暈を起こしたように、その場を立ち去る針間。玄関の方へ向かう針間を、白夜は追いかける。
「針間先生っ」
すぐに追いついた。針間は足を止め――その場に立ち尽くす。しゃがみ込む。「どうしたらいい……俺は一体……」
「先生、どこに行こうというんです、こんなときに!」
「くそっ、俺の頭がおかしくなったみたいだ……。それともやっぱ騙されてんのか」
顔面蒼白になりながら頭を回す針間に、白夜は横から言った。
「いいえ、俺だって同じもの目撃してますって! 瑠璃仁様の言っていたことが、正しかったんですよ! 先生戻りましょう!」
「……一人で行け!」
怒鳴るように言われた。なぜ?
「何言ってるんです? 瑠璃仁様が針間先生を探していますよ!」
「……っ。俺の診断が……間違っていた……なんて、そんなの信じられるか」
「間違っていたんです! だから早く、戻りましょう!」
こんなところでしゃがみ込んで、何をしているのだろう。白夜は針間を連れ戻すために慌てて言った。
「ほらいつもあなたが患者に言ってきたことでしょう、現実逃避するなって――ねえっ! どんなに酷い状態でも、目を逸らさず患者を治す、それがあなたの信念なのでしょう!?」
その瞬間、ものすごい勢いで胸ぐらをつかまれた。
「ああ――わかってるよ! わかってる! そんなこと!」
針間の顔が間近に迫る。白夜は息をのんだ。針間に怒鳴られたことはあったし、他の人に怒鳴る姿も何度も見てきた。だが、
「そうだな、ああ……」
そうして、針間は力なく手を放した。すぐに解放された白夜はしかし服を整えるのも忘れてただその場に立ち尽くし、針間を見ていた。あんな顔で大声を上げる針間は一度も見たことがなかった。顔は赤く染まり、口から論理が出てこない――目をそらしてしまいたくなるほどに弱々しく、痛々しい、そんな姿など。
だが針間はもう、その視線を振り払うように白夜に言う。
「――でもお前にだけは、言われたくねえな」
「……っえ?」
「加藤、お前だって、ずっと瑠璃仁についていたんだろうが!」
白夜は何を言い出すのかと思って、針間を見上げた。
「あいつの元に、じゃあおまえはどんな顔で戻るんだ? おまえはあいつに、何かできたのかよ!?」
その指摘に、グサッと、胸の奥底にナイフを突き立てられたような痛みが走る。しぼんでいく。心臓がどくどくと脈打つ。
瑠璃仁は幻覚、妄想に苦しみながら、それでも唯一残った、自分の正しい部分の証明を勝ち取るため、孤独になることを覚悟して、大切にしていた春馬に協力を求めた。瑠璃仁はずっと、孤独の中で闘い続けていた。
(今も――?)
俺は――それなりにやれていた愛長医大病院を自ら退職して――一条家に雇ってもらって――専属看護師になって――それで――瑠璃仁様に、俺、何ができたんだっけ。春馬は、苦しむ瑠璃仁にその身を差し出した。椋谷も、伊桜のために治験を引き受けたと聞いた。
(俺は……?)
自分は担当看護師として、あの人の何を見てきたんだろう。専属看護師が聞いて呆れる。あの人の――瑠璃仁様の何を見てきたんだ。俺は。最初に気付いたんじゃなかったのか。患者は人間だ。患者だからと言って人間性が固定されるわけじゃない。いろんな人がいるのだということを。いろんな人間――? じゃあ瑠璃仁様は、どんな人間だったのだ――? 俺は、瑠璃仁様のどんな悲しみや孤独を癒したっていうんだ――?
白夜の後から、針間を追いかけてきた南。
――もしも、俺じゃなくて南なら、そんな瑠璃仁を、最後まで見つめ続けたのだろうか。そして、深いところまで降り立って、同じ景色を見て、共感して、そうして心に響く言葉を見つけ、傍にい続け救ったのだろうか。
白夜は初めは、今ここに座り込む針間は、自分の治療が間違っていたこと、瑠璃仁との勝負に負けたことが悔しいのだと思っていた。そこに、悼むような顔をした南の姿が視界に入って、それでようやく白夜は気が付いた。針間が、あの泣く子も黙る鬼の針間先生が、弱々しく打ちひしがれ、怯えているのだということに。意外すぎて信じられなかった。
(そうか、先生、あなたでも怖くなることが――あるんですね)
南はさすがだ。そんなことには、もうとっくに気が付いている。だから今、この状況だって、相手があの針間先生であったって、きっと、心を救うような温かい言葉をかけるんだ。俺が、自分もいつか南みたいに――だなんてそんなこと、もう二度と、期待を抱けなくなるくらい完膚無き“優しい言葉”を――。白夜は呆然とその言葉を待った。
(……環境を、変えても――俺自身が、なんにも変わっていないんじゃ、意味がないよな)
南が――一歩踏み出す。
(俺、全然だめだった。俺じゃ無理なんだ。はっきりわかったよ南。俺は、おまえには、なれない)
断罪されるつもりで、白夜は目を閉じた。
「針間先生、あなたは医師です!」
(南……?)
白夜ははっとして南の方を向く。南は震える足で進み出て、針間に対峙する。
「あなたは、医師です」
自分の口から出た自分の言葉にさえ傷ついたような顔で――それでも南は繰り返して、念を押して言う。「そうでしょう……?」
「ああ……俺は……医師だ……」
針間は、感情を殺すように、抑揚のない声で、しかし肯く。南は続ける。
「僕は、看護師です。あなたを信じ、あなたに従います。先生、一条瑠璃仁さんが待ってます。今までの診断の間違いは何ですか? どうしたら取り返せます? 次は何をします? 僕にできることは?」
畳みかけるその問いに、針間はついに黙り込む。
「――医者は、人間ではないのでしょう?」
針間の前に、白夜を押しのけ、南が立つ。
「じゃあ針間先生には、自信を無くすことなど、許されていません。だって感情を持つのは、人間だということじゃないですか!」
「……ああ。そうだな」
言葉がなんとか、針間の口から返される。白夜から見ても、憔悴しきった針間に、容赦しない南。
(南……おまえ……)
白夜が、南を止めようと思ったとき、
「いいんだ。針間先生には――これでいいんだ……」
独りごとのように、自分自身に言い聞かせるように、南は呪文のように何か言葉を繰り返していることに白夜は気が付いた。「いいんだ、いいんだ……」南だって今なお、何かと、闘っているのだ――と、白夜にも感じられた。
南は小さな手を、針間に差し出す。
「結果的に針間先生の診断は間違っていました。ありえないようなことでも、現に起きています。でもそれだけのことです。さあ、先生、立って」
その事実を、自分の憧れたあなたは、自分の招いたその結果、現実の痛みに、恐れをなして逃げ出すような、そんな弱い人間ではないはずだ。あなたが由とする、あなた自身は。
「ぼくは針間先生の強さを、信じていますから」
動けない針間の腕を勝手に取って担ぎあげる南の精悍なその表情に、あどけなさはもう感じられなかった。
そのとき足音がしたと思ったら、瑠璃仁が追いかけてきた。
「先生、まだ信じられないのですか? 理論は説明しましたよね。針間先生ならすぐにおわかりになるかと思いましたが」
そして、眉間にしわを寄せ、眼鏡を外す。
「――っ。失礼。ちょっと、頭痛が」
針間はもう一人で立ち上がると、静かに瑠璃仁の様子を見つめる。
「ああ……これは、僕のよくある症状です……。幻聴が、多すぎて……。僕が、病気でなければ、これで終わりでいいんですけどね……残念ながら、僕は僕で、医者がいてくれなくちゃ困るんですよ」
自分だけ、見られない、綺麗な夕日。影のような声たちに脅かされながら、惑わされながら、“確かなもの”だけを頼りに、歩いてきた。
「さあ、約束ですよ」
瑠璃仁は再び眼鏡をかけ直すと、追い縋る様に、針間を離さない。
「そういえば、そんなことも言ったな。……なんだ、言え。煮るなり、焼くなり、好きにしろ……」
「では遠慮なく――」
そして、心に決めていた願いを口にした。
「僕の主治医になってください」
「!」
針間の顔に、緊張が走る。瑠璃仁は、にっこりと微笑んだ。
――人間に戻ることはもう、あなたには許されていないんですよ……。
混沌の闇の中、針間の前に助けを求める患者がいる。それだけは、疑いようのない事実だった。針間はぐっと堪えるように、小さく息をして、そして深呼吸。もう一度見開いた目には、再び冷徹な光が灯る。瑠璃仁はその目に一つ頷くと「では、お願いしますね」と言い残して背を向け、一人、部屋に戻っていく。その背を見つめる針間俐久の横に南が並ぶ。痛かろうが辛かろうが、あるべき場所へと針間の背中を押すためでは、もうない。針間はもう、そこに立っている。降りるつもりなど更々ないと、自分は医師という鬼畜生になるのだと、言い聞かせて奮い立たせて独りずっと歩んできた、修羅の道の上に。「僕も、お供しますから」
「……南のくせして……生意気なんだよ」
「はい……すみません」
「おら、コレ持て。行くぞ、とっとと」
針間の持っていた医務鞄を肩代わりし、南が預かる。
「はい」
「…………おまえが泣くな、いちいち。泣いて何か変わるわけじゃねえだろうが」
「はい…………」
「……お前の鼻水、汚ねぇし」
濁流のように、重い泥が流れていく。
「はい……ぐずっ、ぐずっ」
「ああもう、鞄が濡れるだろぉ! 返せ!」
「やっ、やです! 持ちますっ! 持たせてほしいですっ! わかりました、じゃあ泣くのやめますからっ!」
「……ったく」
努めて強く――そして勝手に、優しい。泣きながらでも、それでも歩き続ける。そんな後輩の成長している姿に、白夜はぎゅっと拳を握る。
(無理、じゃ……ない! きっと無理じゃない、俺だって――っ)
俺だって、瑠璃仁様の眠れないとき、枕元に駆けつけた。本当は、俺が手を握ってあげたかった。できなかったけど、でも。瑠璃仁様が立ち直って、朝、元気に出かけていくのを見るとき、ああやっぱり、いいもんだな、って思ったから。俺だって、俺だって――っ。
「針間先生……っ」
「ああ? なんだ」
白夜は追いかけ、問いかける。
「先生は、精神科の診療を手術に喩えましたけど、でも、じゃあ俺一つだけ納得できないことが、あるんです」
「……言ってみろ」
白夜は続けた。
「外科手術の時は、麻酔をするじゃないですか。もし麻酔もなしに、手術しようとしたら誰だって逃げたくなりますよ。よっぽどの意志の強い人じゃない限り、死にたくなります。どうですか?」
針間は少し納得したように、ふうんと視線を逸らした。そして言った。
「じゃおまえがやれ」
「え……?」
針間の視線の遠い先には、瑠璃仁の後ろ姿。
「注射得意なんだろうが」
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