第22話 深淵にのぞかれた看護師くんは。

 春馬に瑠璃仁の病気について伝えようと思うものの、本人のいる前ではさすがに憚られた。瑠璃仁はもう白夜のことなど目に入っていないようだったが。

「では、また電話します」

 白夜はそう言って研究所を出ることにした。少し時間を置くため、帰り道の地下鉄を降りたタイミングで、春馬に電話をかけようと。門のそばには先ほど自分をここまで運んでくれた車が待っていたが、あれはもともと瑠璃仁の移動手段であり、使用人を運ぶためのものではない。瑠璃仁が春馬を呼びつけたので、春馬と白夜が使わせてもらっただけだ。主人がいつ帰るともわからないし、空いているからと送ってもらうわけにはいかない。

 最寄り駅に到着した白夜は改札機を通って地上に出た。並木道を歩きながら、スマートフォンの履歴一覧を開く。先ほどの春馬への発信履歴が並んでいる。全部不在に終わっているものだ。発信ボタンを押す。呼び出し音が続き、しばらくすると時間切れで切れてしまう。瑠璃仁が傍にいたら春馬は電話に出ないのかもしれない。それも考慮して、屋敷につくまでに何回かかけ直すつもりだった。二回ほどトライしたが、繋がらない。今は邪魔になるのかもしれない。時を改めようと思ったとき、折り返し着信があった。春馬だ。

「もしもし、白夜です」

「もしもし? ごめんね出られなくて」

「いえ、お疲れ様です」

「お疲れ様、白夜くん。どうしたの? 道、迷った?」

「大丈夫です。あの、ちょっと今いいですか?」

 今いいか、というのは、傍に瑠璃仁がいないかということだ。

「うん。今は僕一人だよ。瑠璃仁さんも、もう落ち着いていて、研究室の方にいるからね、大丈夫。まだ僕は帰れないけど」

 白夜を安心させるような声音で、春馬は優しくそう言う。

「どうしたの?」

 白夜を心配して、場所を移動して電話をくれたのだろうか。

「……その、説明が難しいのですが、聞いてください」

 春馬は「うん」と促す。

 言わなくては。病気のことを、春馬にもわかってもらわないといけない。

 その一心で、白夜ははっきりと伝えた。

「瑠璃仁様の実験に協力するのはやめた方がいいです」

 春馬は黙ってしまった。白夜は続ける。

「瑠璃仁様は……病気なんです。どんな病気かって言うと、妄想を持ちやすい病気です。彼には被害妄想や、誇大妄想などといった典型的な症状がまさしく現れ始めています。だから、事故につながる可能性が高いんです」

 白夜はそこまで言って、春馬の様子を見る。「そうなんだね」春馬は、一つ息を吸い、吐く。「でも僕には、こうすることしかできないんだよ」

「大丈夫ですよ! 僕が何とかしますから」

 春馬は瑠璃仁に協力すると言ってしまった以上、白夜よりさらに断りづらい状況かもしれない。でも、本人が危険を理解して断りたいと思うなら、なんとかなる。多少不自然になるのは仕方がないとしても――。

 しかしそんな白夜の心の準備をよそに、

「いいんだよ」

 春馬の声音は、怖がっているとか絶望しているとか言ったものではなく、諦観……というより受け入れたような、先ほどと変わらない優しいもので、

「えっと、春馬さん……?」

 白夜はなんだか、話が通じていないような手ごたえのなさを感じて戸惑った。すると、春馬は言うのだ。

「……僕は……瑠璃仁さんが精神的な病気だとか、四次元が見えるようになるとか、そういう難しいことは、正直今もよくわかっていないのかもしれないんだけど……でも瑠璃仁さんがもし本当に必要だと言うなら、――それが、たとえどんな理由であっても――その……たとえ白夜くんの言う妄想であっても、僕でよければ、なんにでも使ってもらおうと思ってるのは、僕の意志だから」

 そもそも、考慮の内だとでもう言うように。

「……春馬さんは、瑠璃仁様の病気をわかって、やると言っているんですか?」

「そうだね。僕はもうお邸には戻れないと思うよ」

 そんな静けさ。

 何かの聞き間違いか、思い違いかと思う白夜に、春馬は続けて言う。

「覚えておいて? もしこれから先、僕に何かあっても、絶対に、瑠璃仁さんを傷つけたりしないでね。――僕が見つけた、生きる理由――。それはこの家のために、生きることなんだ。何も怖くない。ここは、僕の世界そのものだから」

 春馬の一方的な宣言。あまりにも現実味のない内容に思えた。しかし春馬は、決して冗談を言っている調子ではなかった。

「庭のこと、椋谷くんにならちょっとは任せられるかな。引退した先代の庭師にもう一度来てもらわないといけなくなったら、悪いけど白夜くん、僕の代わりに謝っておいてくれるかな?」

「春馬さん……あの、春馬さんの言っていることの意味がよく、わかりません」

「そうだよね。なんて言ったら、わかってもらえるんだろう」

 さっきまで白夜が悩んでいたのと同じような調子で、春馬は説明するための言葉を真剣に探している。

「つまり、ほら、隕石が降ってきて地球が割れたって、人間はその隕石を責めたり罰したりなどしないだろう? 地盤に亀裂が入ったなら、その上に橋をかけて。一面海になったなら、船を浮かべて。足も焼けるような灼熱の焼野原なら、どこまでも走り続ける。――そうして僕は、瑠璃仁さんのために生きていけることに、ただただ感謝しているんだってこと、かな。いいかい? 瑠璃仁さんを責めないでね」

「春馬さん……っ?」

「あ、いけない。瑠璃仁さんが呼んでる。もう行かなくちゃ」

 それで電話は切れてしまった。


 白夜はなんだか胃がどんよりとするのを感じて吐き気を堪えた。

 自分には理解できない。

 まったく理解できなかった。

 優しくなりたい。その気持ちは今でもある。理想であり、ちゃんとした目標だ。

 でも。

 そのためにはここまで尽くさなければいけないのだろうか……? 喜んで一緒に怪我を負うような行為まで……? それが究極の優しさなのだろうか。もしもそうだというのなら……。白夜は瞳を閉じて自分の心に耳を傾けてみる。

 自分にはそんなこと、無理だ、とてもじゃないができない。あんなふうになることを、目指せない。こんなのは嫌だ。だってそんなのって意味不明だ。率直な気持ちを言えば、なんの魅力もない。絶望しか感じない。

 じゃあ、それって俺は “優しい看護師 ”にはなれないのだろうか? あそこまで尽くすことが無理でも、誰も、責める人はいないだろう。でも、俺は “優しい看護師 ”になりたくてここに来たのに?

 その問いから逃げるように、絶望に蓋をするように、白夜は春馬に言われた通り一人で邸へと帰り、途中やりのまま放置していた元の仕事に戻った。自分はまだこの屋敷に来て日が浅い。自分の知らないことだってきっと多いだろう。そう、きっと、そう。何か触れてはいけないものだったんだ、あれは。だから、触れないようにした。それだけだ。それだけ。そう言い訳を並べて、忘れようとした。後から思えば、ただ考えることが恐ろしかっただけなのだ。向き合いたくないものから目を逸らしただけだったのだ。自分は医大を辞めてまで今まで無謀な挑戦をしていたのではないかとか、これをも受け入れなくてはならないとしたらそこにはいったいどんな苦しみが待っているのだろうとか。

 それ以降白夜は、春馬を見かけることはなくなった。春馬がどこで何をしているのかは不明だったが、瑠璃仁の精神状態はその後かなり安定した。それがまた余計に、白夜にこれでいいのだという正当性をもたらしたし、また黒々とした深みのようなものを感じて、その深淵から遠ざかりたくなった。本当は瑠璃仁は安定したというより、妖しくも何かに一心に向かっているという感じだった。朝も目覚めよく起き、夜眠れないと呼び出すこともない。研究所に泊まり込むことも増えた。手がかからなくて助かると言えば助かる。だが、瑠璃仁という自分のたった二人しかいない担当患者が、本当にどんどん遠くなっていってしまっていることも、もちろん感じていた。一方で伊桜の体調は日に日に悪くなっており、点滴管理や解熱剤の投与など白夜の意識は実際的に伊桜に集中せざるを得なくなった。それをいいことに、白夜は瑠璃仁のことを春馬に押し付けてしまった。

 でももしも、あの時にきちんと瑠璃仁に、自分の理想に向き合っていれば――事態は大きく変わっていたかもしれない。

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