第23話 懐かしの愛長医科大学病院についに出戻ってしまいました。

 あの日から白夜はほとんど屋敷での仕事に専念していた。

 検温するために白夜が部屋を訪れると、伊桜は目を開けるのも辛そうにぐったりとしている。かなり具合が悪く、朝はまだマシだが、午後になると熱が高く上がってしまう。毎日では、心も体も疲れ切ってしまう。三十八度の慢性的な不明熱で留まっていたものが、生死に関わるレベルの高熱症状になってきてしまった。悪化しているのは間違いない……。すでに体中調べ尽くしているとはいえ、悪化して初めて検出できるようになるものもあるだろう。

(これは、もしかしたら、ひょっとすると――)

 白夜の予感は的中した。

 伊桜を乗せた車椅子で、長く白い廊下を人ごみの中をかき分けながら行く。

(ああ……こんなに早くに、戻ってきてしまった……出戻りだな)

 まもなくして、伊桜は入院した。――白夜なつかしの、愛長医科大学に。

 白夜はできるだけ顔を伏せつつ、慣れ親しんだ廊下を最短経路で進む。

 医大の様子はまったくと言っていいほど変化はなかった。総合受付にも、各科窓口にも、病棟にも、売店にも、どこもかしこも病人と、医療従事者で溢れている。

「白夜じゃん! なにやってんの?!」

「う……!」

 顔見知りの元同僚が驚きと共に声を掛けてきた。

「あれ? 小児科に異動になったの?」

「いや……ちがうけど……」

 精神科にも小さい子はいないことはないが、最近白夜を精神科で見かけないのでそう思ったのだろう。

「あれ、よく見たら、看護服じゃないじゃん。どうしたの?」

 看護服がないなら自分のを貸そうか? くらいのノリで問いかけてくる。

「はくやー!」伊桜が見上げて急かす。

「はいはい、伊桜様! じ……じゃ、先を急ぐから」

「お……? おうー」

 逃げるようにして進めば、先の方からまた顔見知りの看護師、向田さんが。

「あらぁ、加藤くんじゃない」

 向こうもお爺さんを乗せた車椅子を押していた。

「まあ可愛い子ね~! あら? 加藤くんの妹さん?」

「いや違いますそんな……」恐れ多いです。

「じゃあいとこ?」

 そういうわけでもない。すると、自分の手元から、

「はくやはいおのかんごしさん」

 伊桜が憮然とした声でそう言い放つ。

「ええ?」「伊桜様っ」焦る白夜に、きょとんとする看護師。

「ちょっと、行かなくちゃいけないので、また説明させてくださいっ」

「あらあら、ごめんなさいね! じゃあね~」

 すれ違いざま、車椅子のお爺さんが「ホホ。じゃあ向田さんはワシの看護婦さんじゃ」などと笑っていた。伊桜がむんっと振り返って身を乗り出し、手を振るお爺さんの後ろ姿をじーっと眺めているのを、危険だからとやめさせる。

(なんか気恥ずかしいなあ……。今の姿を元同僚に見せるのって……)

 伊桜が入院しているのは病棟最上階の特室。当然のことのようにこの医大で一番高価な部屋だ。広々として静かな個室で、ベッドも大きくふかふか、部屋にはトイレとバスルームだけでなく、なんと小さなキッチンとリビングまでついている。ここに三泊もしたら部屋代だけで白夜の一か月の給料を軽く超える。そんな病室があることを、看護師だったころに噂には聞いていたが、実際にどんな人が泊まるのだろうと他人事のように考えていた。

(こういう人が泊まるんだな)

 大きなベッドにちょんとうずもれる小さな伊桜の姿は、もうそんなに見慣れないものではない。病人なのにキッチンやリビングなんて必要あるんだろうか、などと考えていたことも改めさせられた。大物政治家や、芸能人の隠れ家にはぴったりだ、ぐらいの発想しか白夜にはなかったが、たとえば一条家ともなると、使用人が始終キッチンに立ち、リビングはお見舞いの挨拶に来た関係者で埋め尽くされる。らしい。伊桜が入院したことは秘匿されているらしく、そういった見舞い客が来ることはなかったが。ノックの音がして、担当看護師が入室する。白夜は脇に退いて、伊桜の血圧測定と検温を見守る。

「一条伊桜さん三十九度七分、血圧百二十五の八十で、脈拍八十です」

 結果に、白夜は軽く頷く。

(子供にしては血圧がちょっと高めだけど――六年生でも高いよなあ)

 担当看護師と目が合う。

「やだあ。看護師さんに見られながらなんて。緊張しちゃうー」

「あ、ごめんなさい」

「いえいえ、冗談ですよ」

 おそらく冗談ではないだろう、と白夜は苦笑いが漏れた。医師やその家族が入院してきたときも緊張するが、看護師の前で看護する方がやりにくいこともある。

「じゃあ、また夕方に――」

 看護師が点滴剤の交換処置を終えるのを見て、白夜は声を掛けた。

「足立さん、伊桜様の点滴がちょっと早かったんで、さっき速度下げました。十三時十五分に」

「あっ加藤くん、そういう時は、ちゃんとナースコールで――」

 ばたばたばたと、急いで廊下を走る看護師の足音が聞こえてきた。ノックの音がして、ドアが開いたと思ったら「足立さん、すぐ来てくださいっ」と、若いナースが息を切らして呼び出しに来た。

「……ありがとっ。内緒ね!」

「はい。わかっています」にっこりと白夜は頷く。勝手なことをして邪魔になってはいけないが、得になっている限りは黙認もしてもらえるだろう。……じーっと傍に付いているだけではあまりにヒマすぎた。

「今すぐ行くから、ナナちゃん、あとお願い!」「はい!」担当は、ナナちゃんと呼ばれた看護師と交替。きびきびと後片付けをしている同じ年くらいの彼女を、白夜はぼーっと見つめる。彼女の息はまだ上がっている。特室って、ナースステーションからだいぶ離れていて遠いんだよなあ。

「はあーっ。もう~人手不足なのですっ! 白夜さんを一時的に借してほしいですっ」

「あー……でも今僕は……」

「そちらのお嬢さんの看護を担当してるんですよね!」

 もう噂になっているらしい。当然か。

「うー、でも個人宅の専属看護師のままじゃ、ここで看護に手出しできないじゃないですかあっ。だったら、その子が入院している間だけでも、バイトみたいにここで仕事すればいいんじゃないですか?」

「え、ええーっ、いや、……でも、ここ小児科だし、そんなすぐお役に立てるかどうか」

「白夜さんなら大丈夫に決まってるじゃないですかあっ」

 ……どんな風に噂になっているのだろう。

「お嬢様と一条家の意向もあるので……」

 正直なところ、久々にここの看護師としてぐわーっと働けることを思うと、ウズウズしてくる気持ちがないこともない。病院に預けてしまえば、つきっきりで看護していなくともいいと思い、瑠璃仁の看護を再開しようと若槻ドクターに連絡してみたが、「僕が特別に診ているから大丈夫、いいよいいよ」と断られてしまっていた。たしかにここのところ瑠璃仁の病態は安定している。でも邸の手伝いもなく伊桜に付いているだけでは持て余している感覚がある。注射だけでも、やらせてもらえないかなー……。が、逆に言えば、ここ愛長医大に所属してしまったら伊桜だけを特別扱いはできなくなる。

 ちらりと伊桜を見る。

「はくやはいおのなのっ」

 横取りされてなるものかと、若い女のナースをジト目で睨んでいる。

「あらら~、ひとり占めですかあ?」

 ナースはからかうようにそう詰め寄るが、

「だっていおのだもん」

 大人にも物怖じしないところは、さすが一条家のお嬢様だからなのだろうか。

「うー残念だな~。白夜さん、ほしかったのに……」

「なんか、文句、ある?」

 伊桜の仏頂面には、どことなく優越感的な空気もにじみ出ている。なんだかんだ、ほしがられて嬉しそうだ。

(うん。この様子じゃ、駆り出されることは無いだろうな)

 と、思っていたのだが。点滴針の交換の時が来た日のことだった。

「はくやじゃないと、やっ!」

「伊桜ちゃん、ごめんねー。白夜さんは、もうここの看護師じゃないから、注射はやっちゃだめなのよ……」

「やだったらやだ! 痛いもんんん!」

「困ったわねー」

 伊桜は泣いてぐずって、腕を隠して、白夜を引っ張って離さない。

 まだ午前中とはいえ、わがままを言えるほど回復してくれたのはありがたいが、こりゃナースステーションは大渋滞だろう。

「伊桜! わがまま言ってると、治んねーぞ!」

 そう言ってくれるのは椋谷だ。叱られて、伊桜はびえーんと泣きはじめる。伊桜お嬢様に押し負けないのは、この人だけだ。だが、「けど、まあ……俺にはわからんからな。伊桜が、どれくらい嫌なのか、とか……」と、ちょっと反省する様に言い淀んでいる。

(椋谷さんも頑張ってるんだな……。俺も何か、伊桜様の力になれないかな……?)

 ぱっと頭に浮かんだのは、注射を代わって打ってあげることだった。でもここでそれなりの医療行為をするには、形だけでも医大に所属しないと問題だろう。伊桜の泣き声が響き渡り、そろそろ強制的に打っちまうか、いや保護者の方に来てもらった方がいいのではないか、いやこんなことで呼び出しては逆にご迷惑か、じゃあ強制的に打っちまうか、といったやりとりが、看護師間で小声で繰り返されている。

「え、と……じゃあ、ですね」

 意を決して、白夜は名乗り出る。

「本当に一時的に愛長医大の看護師に、僕が戻るというのはどうでしょう? 短期間の、パートということで……。あ、もちろん、愛長医大と伊桜様がよろしければ、の話ですが……」

 すると伊桜はぴたっと泣きやみ、

「いいよっ! ばいばい!」

 明るく可愛らしい笑顔でそう別れを告げられた。

(あれ……なんかさみしー)

 伊桜の意向はそれでいいとしても、看護師のいるここでは言いにくいが、もし一条の二人になにかあればすぐにまた辞めることになる。そんな自分勝手が許されるのだろうか?

「あー白夜、こっちこっち」

 椋谷が壁際に手招きし、小声で耳打ちしてきた。

「んじゃ、あとは金の力で何とかするから、おまえは好きにやってきてくれな」

 ……汚い話だった。

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