第11話 大豪邸は毎日が大掃除ですよ。

 穏やかに陽を取り込む中庭をガラス越しに背にした廊下で、白夜はもぞもぞとエプロンを着用した。頭には三角巾をかける。同じ格好の椋谷が説明を始める。

「よし、まずはこの階の個人部屋を回って、シーツ交換とか、ベッドメイキング。それから、掃除機がけでもう一周」

 この階とは、二階のことだ。中庭をコの字型に囲う形で作られているので、どこからでもすべてを見渡せる。椋谷は身を乗り出して、下を指を差して続ける。

「掃除機がけの時は、一階のリビングとかダイニング、ロビー、ホール、廊下、それから脱衣所に至るまで全部やる。あと医務室もな。点滴台置いてあったところのことだけど、わかるよな。あと、あのへんのホールの、大理石の床はモップがけ。そのあと、個人部屋にはそれぞれトイレとバスルームがあるから、そこを洗って磨いて回る。一階の大浴場もなー。ボイラー室の湯の管理とかもそのうち覚えてもらうことになるけど、今はいいや」

 白夜は集中してメモを取った。誰かが使用中の場合は後に回したり、個別に掃除を頼まれたらそちらを優先したりと状況によって変わるものの、掃除コースはだいたいこんな感じらしい。これが大豪邸に雇われている使用人の日常風景ということか。

(すごいな。いるところには、本当にいるもんなんだなー)

 家出状態の貧乏学生を経て今の職に就いている白夜には無縁だと思っていた世界だった。

「 “上から下 ”、“奥から表”が基本な」

「上から……奥から?」

 ピンと来ない白夜に、椋谷は説明を加えてくれる。

「高いところの埃なんかを先に掃除して、その作業で落ちたものを後から一緒に掃いたり、拭いたりするってこと」

 白夜は了承して頷いた。それなら感覚的にわかる。学生の頃、教室の掃除当番の時に先生に言われたような気がする。

「奥からってのは、綿ぼこりが特に出やすい寝室関連から、ってこと。先にリネン交換をして、寝室を掃除し、廊下、居間、水回り……って進めていくことな。水回りはドアなんかで閉鎖されることが多いから。ベッドやソファみたいな布製品も少ないし」

「勉強になります」

 そこまではあまり気にしたことがなかった。

「とにかく、水で濡れると除去しにくい埃をよけるのが最優先って考えればいい。掃除機やワイパーを使う場合も、溝や隙間なんかは、ブラシとかダスターで事前に掻き出しておく。拭き掃除を必要とする箇所は、必ず埃を除いた後。わかった?」

「はいっ」

 家事というのもなかなか奥深そうだ。

 山盛りになった洗濯籠を両手に、ぐるぐるぐるぐる走る。掃除機を持って、ぐるぐるぐるぐる走る。モップを持って、ぐるぐるぐる走る。

(ふーっ。広いなあ……)

 中庭の周りを往ったり来たり何度も何度も走って回っているうちに、この邸の地理や構造までほぼ把握できてきた。なぜ二階の瑠璃仁の部屋から芝生の庭に出られたのだろうと思っていたが、どうやらこの邸は、高い丘に、コの字の邸の角が少しめり込むようにして建てられているらしい。だから瑠璃仁の部屋の下には窓のない、地下といってもいいような場所があり、そこは夜になると、眠れぬ住人の集うバーになるということだった。

「よーし。思ったより早く終わりそうだな」

 デッキブラシをバケツに突っ込みながら、椋谷が満足そうにつぶやく。

「そうなんですか?」

「ああ。手際いいなおまえ」

「お力になれて嬉しいです」

 白夜も額の汗をぬぐう。ようやく大浴場の掃除まで来た。中は、それはそれは立派な岩風呂で、美術的工芸品のような佇まい。そのまま温泉旅館として開放しても儲かるだろうななどと余計なことを考えてしまうほど贅沢だった。だが、その分掃除も大変なのだとすぐにわかった。岩の表面はでこぼこしていて、一筋縄ではいかない。

「でも、いいのか? 看護師さんがこんなことしてて」

 デッキブラシで床を磨きながら素直に疑問をぶつけてくる椋谷に、白夜は、

「看護師としてやっておきたいことは尽きないですが――」

 岩の表面に付いた水垢を、歯ブラシのような細い専用ブラシで地道にこそぎ落としながら答える。

「――ですが担当の患者が完全に二人だけというのは、医大の病院にいたころとは比べ物にならないくらい余裕があります。個人宅で働くのは初めてなので、しばらくは模索しながら、といった感じになりますね……」

 担当医に提出する看護計画も草案はできていたけど、仕上げはきちんと対面してからにしようと思っていた。

「それに、お二人のご病気の特質上、こういった家事も看護師の仕事のうちだと思っています」

 瑠璃仁の病気は境界失調症という病名はあるものの、世界中で精神医学の研究が始まって百年が経つのに未だ不明な点ばかりの病気だし、伊桜の病名に至っては「不明熱」ときた。どんな検査を行ってもすべて正常。それなのに高い熱が毎日出る。隠れた病気の症状か、新種のウイルスか、特殊なアレルギー? はたまた精神的なものか――原因が特定できない。毎日高い熱が出るということ以外の症状――たとえば、頭痛や吐き気、腹痛、発疹などは一切ないそうだ。

 海外では、全科通した総合的な視野でアプローチする「プライマリ・ケア」いわゆる総合診療科の歴史が長く、「総合診療医」もたくさんいる。日本の総合診療はまだまだ発展途上ではあるものの、最近では進んできたらしく、カルテによると伊桜も初めはまさしく「プライマリ・ケア」の診察を受け、可能性の高いものから順にあらゆる診察・検査を行ったとある。しかしどんなに診察や検査を行っても原因が特定できなかったらしく、症状も三十八度と高熱ではあるものの一定なので、自宅療養を勧められたそうだ。

 ここまで来ると、意外なところに原因は潜んでいたりするものだ。そういう時、海外の総合診療のレベルならば家まで訪問して原因を追究する専門家もいるのだが――

 岩風呂掃除の後、掃除道具の片付け場所を教えてもらうため、椋谷について廊下を歩きながら、説明を続ける。

「ですので、家具一つとっても、伊桜様のご病気に繋がっていることがあるかもしれませんので、気になることや変わったことがあったらなんでも教えてくださいね」

 まあ、現在と環境の異なる入院中も熱は下がらなかったということだし、食事やハウスダストのアレルギーなどといった環境に端を発する問題があるわけじゃなさそうだけど。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る