第31話 もっと立体的に物事を見る必要がありそうです。
どうしたら、瑠璃仁様や使用人のみんなを助けることができるのだろう。勝己はどんな方法を使ってもいいと言った。警察の手を借りることさえも。けれども、それよりもっといいやり方はないのか? もっとちゃんと治療に結び付けられるような――。何か方法はあるはずだ! 考えるんだ。
(若槻先生に話をして――いや、だめだ! 勝己様が言っていたじゃないか、若槻先生はそんなこと昔から知っているって。たぶん、俺が直接言うだけじゃ今の状況は変えられない。ほかの先生に相談した方がいいのだろうか。でも、こんなこと一体誰に……誰に……)
日も落ち、外来診療時間はとっくに終わっている。だが、白夜は愛長医大病院に出向いた。病棟に回ろうとして――勤務表を見ようと精神科外来の方へ足を向けた。
暗い直線廊下の向こうから、よたよた、よたよたと、おぼつかない足取りで小さな人影がこちらに向かっていた。両手に大量の紙カルテを抱えている。
「南……?」
「ふえ……?」
ひょこっと顔をのぞかせる。高い声に明るい髪――やっぱり南だ。すると手に積み上げたカルテの塔はバランスを崩し、ズサーッと滑り倒れるように見事に雪崩れた。
「えーんっ」
南の泣き顔に張りつめていた気持ちが少し抜け、
「大丈夫か? 持ってやるよ」
白夜は小走りに駆け寄ると、一緒にしゃがんで一冊ずつカルテを拾い集める。
「あうっ、あ、すみません」
「いいよ。まだいたのか? とっくに時間外だろ?」
「カルテ出しが終わらなくて……」
「おいおい。こんな遅くまで? 若槻先生か? 半分貸せ。第五診察室まで運ぶんだよな?」
「いえ、第三診察室です」
「え? 針間先生?」
「はい。予約患者の分じゃありませんが」
針間先生が頼むとは意外だった。電子カルテに移行になった際、早々に必要箇所のみスキャニングさせられ、そのおかげでそれ以後のカルテ出しを頼まれたことはほとんどない。
「論文資料だそうです」
「へえー。なあ、お前だって、断ることできるんだぞ」
「はい……でも、僕に出来ることって、これくらいしかないですし……」
「けどなあ」
「あ、あとコンビニでパン買ってこいって言われてます」
「それは断れよ!」
暗い廊下、緑鮮やかな観葉植物が置かれている。患者の心を落ち着かせるとともに、外待合を人の目から隠す役割も持つ。精神科外来独特の雰囲気の中を南と並んで歩いていると、ここで仕事をしている日々に戻ったように錯覚しそうになる。掲示してある各医師の診療日表も、何も変わっていない。
「あれー?」
中待合に入ると、南が不思議そうに声を上げる。狭い通りは明るい電気が点いていた。
「まだ誰かいるのかな?」
首をかしげながら、南は診察室へと進む。
「あ!」
第三診察室には、机に突っ伏して眠りこけている針間医師がいた。白夜は慌てて、咄嗟にカーテンの裏に引っ込んだ。
「ここ、置いておきますよ~~~」
「ん……」
針間は南の声に眉間にしわを寄せ、身じろぎする。針間の周囲には難しそうな資料と紙カルテが山積みだ。南はそれらを崩さぬよう、慎重にカルテの束を置こうとして――
「んはっ! 今何時だ!?」
「あーっ!」
突如飛び起きた針間に驚いてまたカルテの雪崩れを起こした。針間は寝ぼけまなこのまま、それをぼーっと見つめた後、我に返る様に腕時計を確認する。凝視したまま動かない彼に、
「よ、夜の七時です……」
控え目に、気遣わしげに南が小さくつぶやくと。
「はあああ!?」
針間の大声に、白夜もカルテを落っことしそうになった。
「夜は学会っつたろうが!」
「で、ですから、ぼくも、あれー? って」
「もう救急車使って行く!」
「無茶ですよー」
「じゃあドクターヘリ出せ」
「もっと無理です!!」
がっくりとうなだれる針間。どうやら、今日は学会の日だったらしい。それを寝過ごしたようだ。
「だあああもうっ、すっぽかしちまったじゃねえかっ! くっそ何のために徹夜したと思ってんだよーっ……ああ……俺の論文……」
ワイヤレスマウスを壁に投げつけて蹴って壊して憂さ晴らししている針間に、南はもじもじと近づいて、提案した。
「あっあの、それじゃもし、お時間あれば、僕、これから赤重さんの様子を見に行きたいのですが……針間先生も、どうですか」
カーテンの後ろから二人の会話を立ち聞きしていた白夜は、その意外な名前に驚いた。
「はー? 赤重ぇ~? 誰だっけ」
「猫が怖いっていう境界失調症の患者さんで……その、僕……、刺されました」
「ああ~。いたなあ、そんなやつ」あくびをしながら、針間は頷く。「行きたきゃ勝手に行け。俺は行かん」
「そうですか……すみません、出過ぎたことを」
「さっさと帰って寝る」
そう言って針間が席を立った時、
「相変わらずだな、南」
白夜はカーテンの裏側から進み出て、手に持っていたカルテの束をどんと机に置いた。
「あぁ?」
針間の切れ長の目が、僅かに見開かれる。
「針間先生にそんなこと頼んだって、無駄だぞ」
久々の対面だ。
「おーおー、加藤じゃねーか。おまえはここのナースじゃなくなったんだろうが。何してんだ」
「俺は」続けるべき言葉に、白夜はふと悩む。「……まあ、担当患者の資料を探しに……?」
歯切れ悪くごまかすと、針間はにやっと笑った。
「ほー。んで、何か探せたのか?」
「いえ……それは」
「じゃ、お前も帰って寝たらどうなんだ」
針間は切り捨てるように嗤う。
「だ、誰かさんみたいに、寝られたらいいんですけどね! あいにく、俺はいま大変なんです」
憎まれ口に、どうせまた言い返してくるだろうと思っていたら、一呼吸間があった。
「……ははーん、おまえ、若槻の患者診てんだってな」
内心どきっとした。
「……そうですが」
針間が、ふと酔いから覚めたように声を漏らす。「あーご愁傷様。ロクでもない診断されてんだろ」誇張も敵意もなくただ静かに言う、その様子を、白夜は黙って見ていた。そして、針間は白夜の存在を思い出したように付け加える。「はっ。馬鹿な奴ら、当然の報いだな。くたばれくたばれ」
「ちょ、ちょっと……」白夜は、反射的に言う。「よくそんなこと、言えますね」
「違うのかよ?」
「……いえ、その」
言葉が、続かなかった。
若槻先生は――針間先生が毛嫌いしていた若槻先生は――……。心の中に、気付きたくなかったという気持ちが充満する。
「ロクでもない診断、じゃない……ことも、ないです……が……」
尊敬していた若槻先生の人臭さ、針間先生の言っていた悪口の意味を、わかってしまいそうな自分が、嫌だった。
「んで担当看護師はこんなところほっつき歩いてるし」
「……」白夜は目を背けるも、針間が自分を見ているのが分かった。
「まーな! そーだよなー! わかるわかる。若槻はなーぁ! あいつは頭がパァーなところがあるからな! 昔っからそうなんだよな。技術が足りないのを小手先でごまかしやがって。患者は患者でどいつもこいつもほんっと馬鹿だから、若槻のそーゆーところがわかんねーんだよなあ~~~!!」
「い、言い過ぎ! そこまでは言い過ぎです!」
「言い過ぎか? 効率悪すぎだし馬鹿すぎなんだよ」
言い過ぎだろう!! 若槻先生は、たしかに全面的に正しいわけじゃないのかもしれない。でも、確かに自分が憧れたところもあったのに。初めて精神科という場所に来た患者が不安そうにしているとすぐに気づいて、優しい笑顔で和ませていたり、患者の話をよく聞いて、それは辛いですね、って理解ある言葉をかけてあげていたり――。
白夜が何も言わないうちから、針間が重ねて言う。
「あんなの媚び売ってるだけじゃねーか!! なーにが、お辛い中よく症状を詳しく話して聞かせてくださいました、だ! 時間取りすぎなんだよいっつもいっつも! だから俺がケツ拭いてやってんだよ!」
針間の性格のうち、わかりあえないと思っていた部分。
「針間先生、あなたは効率よく捌くのは上手でも、人の心がないんですね! 人の心の痛みを理解できない医者ですよ!」
「けっ。心なんてどうでもいいね。理解できるかそんなもん」
「精神科医でしょう!!」
「精神科医は読心術師じゃねえ。それと同時に言っておくが、サービス精神旺盛なコンシェルジュのごとく患者を気分よくさせてもてなすのが精神科医の仕事なわけでもねえからな」
「それも、若槻先生のことですか?」
ほとんど反射的に聞いた。
「さーな? そーやって医者を信頼できない奴は勝手な行動して勝手に死にやがれ。言うがまま欲しいままに薬くれる医者という名の仕事人間に緩やかに殺してもらいな」
「……っ」
今の一条家の状況が分かっているかのような針間の言葉に、白夜は一瞬ひるむ。
「でも、医者のことを信じられるかどうかは、医者の言動から判断するしかないじゃないですか! 先生が耳を貸さない妄想も、本人にとっては切迫した現実なんです。それを無視されて、どうして先生に付いていこうと思うんです? 現に、針間先生の診察を受けに来る患者は減っているんでしょう!? せっかく精神科まで来させても、先生の心無い態度や言葉に傷ついて去っていっています。針間先生のやり方が正しいとは思えません」
「そんなやつは勝手に死ねよって思うね」
なんてことを言うんだ。
「じゃあ、患者なんていなくなって、先生だって仕事なくなって、死にますよ?」
「俺か? そうだな肉体的にはな。世間がそれを望むんならそうなるわな。だがそれでも、ここを曲げない限り俺は医者として死ぬわけじゃない。だったらそれでいいね。心中してやるよ。おお、なんか精神科医の美学っぽいじゃねーか」
「針間先生、あなたは――」
「人として間違っていたって構わねえよ」
そう言い放つ針間には、後ろめたさといった物の欠片も感じない。
「……医者としても間違っていますよ」
「いやそれは違うな」
針間は言い切る。
「俺は医者だ」
口ぶりには迷いがない。むしろ、揺るがぬ信念を感じた。
「患者は患者だ。納得したとか、してないとか、くだらねえんだよ。医学だぞ。医学部受かって医学学んで、卒業して医者として覚悟決めたやつが毎日毎日一生学び続けている経験と知識の中から導き出したのが「診断」だ。それを家に帰ってインターネットで調べたからってトーシロがドヤ顔で否定できることの方が驚きじゃねえか。それからな、たとえば外科医が、血がいっぱい出たら痛そうだから、手術しませんとか言わねーだろ。ひどい有様なのは病気だからなんだよ。人として、こわーい、いたそーなんて、言ってるヒマなんかねーんだ。俺の仕事は、心を無にしてでも、それを、切った張ったして、治してやることだ。やさしく撫ぜまわし、長引かせて悪化させることじゃね―――んだよ。人として最低? 人なんてあまっちょろいままじゃ、人体掻っ捌いで臓器抜き出すなんてことできねえよ!! そーだよ鬼の所業だ! 無限に湧き出てくる病人共を治すには、こっちは人でいちゃ足りねーんだよ!」
針間は一気にそうまくしたてた。
「先生……」
沈黙。
治すには、人でいたら足りない。
世間がそれを望むなら、医者として心中する――……
普段は言葉足らずな彼の叫びは、残響する様に響いて聞こえた。反論は出てこなかった。薄々どこか感じていた、この人を嫌っても嫌いきれない感情。それがなぜなのかは、今までずっとわからなかったけれど。
突き破るように、どーんという地響き。
「え?」
目の前の針間が、倒れていた。
「せ、先生! 針間先生!?」
いや、これは……すぅすうと、安らかな寝息。
「……寝てるだけだ」
南と二人がかりで担いで、空いているベッドに針間を寝かせた。本人の代わりに、後片付けを始める。
「本当に眠気が限界だったんですね……。よく考えたら、昨日は徹夜で論文を書きあげたと言ってましたけど、先生はおとといも当直だったのに、今日の外来診療は休まずにやってその後に学会にも出席しようなんて、むちゃくちゃです」
南は、押し黙ったままの白夜に気付かないような口調で、独りごとのように続けた。
「針間先生が、定時に帰ろうとするのは、その後に……必須ではない学会にも出たり、論文読んだり書いたり、勉強したいからなんだと思います。そして、重症でない患者さんや典型的で診断しやすい患者さんを時間かけずに診るのは、限られた時間内に一人でも多くの患者さんを救いたいから……そして診断が難しい患者さんに時間を回したいから、だと思います。勤務医である針間先生は、時間内に患者をどれだけたくさん診ても自分の報酬が増えることはありません。でもそんなことは気にしていませんし」
そして南は、コンビニ袋に入ったままのパンとコーヒーを、針間の枕元に置く。
「ドクターヘリを申請することはできませんが、パン買ってくるとか、ぼくにもできるような先生のワガママや無茶ぶりは、できる限り聞いてあげたくなっちゃって」
僅かな安寧のベッドの上、
「ぼくとは比べ物にならないくらい、針間先生は無茶しすぎです」
南の言葉を聞きながら、白夜は横たわる針間医師の顔を見つめた。その寝顔は、仕事中には絶対に見せないような穏やかな表情だった。
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