第30話 家族がバラバラになってしまう前に、長男くんは言いました。

 邸に戻り勝己の部屋で、白夜は改めて事の顛末を聞かせてもらった。

 瑠璃仁が研究室にこもりがちになってきたのは、伊桜が入院して間もなくしたころからで、何か、人類の可能性を見つけたと騒いでいたらしい。それと同時に春馬は連れて行かれていて、そして最近は椋谷や暁にも協力を求めていたそうだ。勝己の説明から、三人にはすでに明らかな幻覚が見え始めていることがわかってきた。何もないところを指差して錯乱状態に陥る、恐れおののく、不安になる、感情が無くなるなどの精神異常、奇声を発する、壁を歩こうとする、壁に頭をぶつけるなどの異常行動、嘔吐や下痢はずっと続いていると言うし、体の中も外もボロボロだ。彼らにはまず身体的な手当てが必要だ。

 闇の深さに眩暈がしそうだ。

 瑠璃仁本人は研究室や最寄りのホテルに泊まり込むことが多かったが、時々は帰宅していた。でも、帰ってきても自分の部屋に直行して白夜の言うことに耳を貸しはしない。白夜が看護に出向いても全て門前払いで断られた。瑠璃仁の権限で、もう関係者以外を中へ入れることは禁じられてしまっている。勝己が同伴しても断られた。どうしてこんなことになるまで気付かなかったんだろうか。患者と精いっぱい真摯に向き合いたいと望んで一条家に来たくせに。専属看護師としてここで頑張るぞと思っていたはずなのに。

(何を、やっていたんだろうな、俺は。本当に)

 自分に対する情けなさに落ち込む気持ちはあるが、目下の課題を解決させねばならない。刻一刻を争う。

「瑠璃仁様にはどんな手を使ってももう入院してもらうべきです。警察を介入させてでも」

 白夜はそう提案した。違法行為を告発すれば、研究施設は強制的に業務停止にできるはずである。瑠璃仁も、逮捕後おそらく精神鑑定に回される。責任能力なしと判断されれば、罰せられることはない。

「警察、か。いや、あまり、言いたくないことだけど……往診じゃないとまずいんだ」

「え?」

 白夜が見ると勝己は、ばつが悪い様に視線を逸らす。

「一条グループって、本当に大きな会社なんだよ」

「それは……」

「うつ病が精神の病として世間的に広く認知されて、精神科もだいぶ一般的に浸透してはきたけど、――でも、風当たりはまだまだ厳しい。特に、俺の父親世代のような人達なんてね。……通院していない病人の方がよっぽど危険なのにさ。瑠璃仁が精神科に通っていることは、トップシークレットだ。ましてや……」

 逮捕で精神鑑定だなんて、言わずもがな。

 若槻医師の言っていたことを思い出す。母親は自分の息子に精神疾患があることを認めたがらないと言っていた。

 たしかにセンセーショナルな事件になることは間違いない。瑠璃仁は若いがただの大学生ではない。一条の人間としてすでに会社を与えられ、名ばかりではなく実際に自分が毎日赴いて運営しているのだ。その彼が、精神的な病を抱えたまま、人体実験まがいのことをやっていると知れたら。一条家グループ全体のイメージダウンは避けられない。株価は暴落。マスコミの取り上げ方によっては、瑠璃仁が今後治ったとしても、世間からの偏見は残るかもしれない。でも、白夜は思う。何か起きてしまってからでは、そっちの方が取り返しつかない。死亡事故とか、大事件化して明るみになってからの方が、一条家にも瑠璃仁にもダメージは大きいだろう。それから医療従事者の立場から言わせてもらえるなら、勝己の言う、「精神科に対する世間の風当たり」は、そういう“最悪の結果”から強くなってしまう。

 零れ落ちていくような日常を前に、勝己は、小さな声で言う。

「……俺は……甘い人間なんだ。本当、グループを背負うなんて、器じゃない」

 今、邸には勝己と白夜しかいない。騒ぎを大きくしないために、矢取家からの使用人達には暇を出した。

「俺は、一条家長男っていうだけの、ただの人間なんだよ。俺、幸せ者でさ。ここまで育ててくれた家族や、手伝ってくれる人たちがいて、そんな中で、楽しく過ごしていられることに、感謝しているから、だから、俺の役割なら、って、跡取りになろうと思って頑張っているだけでさ。別に、ここまでの立場を引き受けなくていいなら、絶対わざわざやったりなんてしないと思う」

 もともと広い邸。そんな中にいるのが勝己と、白夜の二人だけでは、あまりに大きすぎて、なんだかもう、「家」じゃないみたいだと、思う。

「友達とワイワイやって、恋とかも、して、いつか家庭と、庭付き一戸建てと犬を持つぞーなんて夢見てさ、満員電車に文句言いながら乗って、よくいるサラリーマン。会社の愚痴もこぼすけど、誇りもちゃんと持ってて――そんな暮らしで、結構満足して生きて、死んでいくような、たぶん、本当は、そんな人間なんだよ。そりゃさ、世間のイメージがどうとか、株価が暴落するとか、たしかにそれもマイナスなことってのは、わかる。勉強してきたし、億や兆の単位で、マイナスなことだ。億や兆なんて言ったら、さっきのサラリーマンが、一生かかっても稼げるかどうかの額じゃんね。わかってるけど。でもさ、俺、自慢じゃないけど、そんな額には小さい頃から触れてきたし、俺にとっては、少なくとも、百パーセント取り返しのつかないものではないな、って思うんだ。あ、世間知らずって思って怒らないでね……。春馬も椋谷も暁も、危険なことになってて。瑠璃仁が治っても、もし――たとえば三人に後遺症が残ったり、もっと言えば死んでしまったら、もう二度と戻ってこないのに。俺、そっちのが怖い。人生の中で一番怖いよ」

 そう言う勝己は、トップに立つにはおよそ似つ合わしくない人懐っこい笑顔をしていた。

「だから、君の思いつく限りの、瑠璃仁やみんなが助かる方法を優先して。あとのことは、俺がなんとかするから。一生かけても。それが家族ってこと、俺の人生ってことだから」

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