第32話 ようやく両輪が動き出します。

 翌日、白夜は愛長医科大学病院の精神科外来外待合で、出来たてほやほやの、傷一つない診察券を何度も眺めていた。白夜は、今まで医大にかかるなんてこともなく、診察券も持っていなかった。

 だからわざわざ――作った。とある医師の貴重な時間を頂戴するために。

 待てども全然呼ばれない。最後の患者が帰っていく。白夜が何度考えても、やっぱりたどり着く答えはこれしかなかった。瑠璃仁を、一条家を、助け出すには。

 診察券を作って、、予約を入れるくらいしか……。

 ばん! とけたたましい音を立てて診察室のドアが全開に開いて、荒っぽい勢いで闊歩するのは――その場の空気が絶対零度に凍りつく。勢いよく翻る白衣、長めの髪を逆立て、触れるだけで自在に皮膚を切り開く切れ味のいいメスのような視線は、真っ直ぐ白夜に向けられていた。針間先生直々のお出ましだった。

「ほー……。何しにきやがった?」針間は、白夜の手にある真新しい診察券をこれみよがしに見る。「俺の診察予約なんかして?」

 全開のドアの方を親指で指さし、「とっとと入れよ」くるっと踵を返して、針間は先に診察室へ。

(……行くぞ)

 白夜が立ち上がると、針間の背丈に隠れるようにしていたらしい南が「あ、あ、か、加藤……さ……加藤白夜さん、どうぞ~……」蚊の鳴くような声で呼んでくれた。

 診察室に入り、白夜は空いた患者椅子を前に、所在なく立つ。針間はどっかりと椅子に腰かけ、真っさらな新患電子カルテの眩しいディスプレイ光を横顔に反射させ、肘を付いたまま、目だけはこちらを見上げていた。

「……っ」

 どう、切り出せばいいのか、白夜が悩んでいると、針間はおもむろに、加藤白夜のカルテ画面を閉じた。患者ID入力の位置にカーソルを動かし、そこで手を止める。

「針間先生、あの……っ」

「お~?」

 聞き返す針間の指は、もう一ケタ目の数字を入力している。でも、それ以上は入力してくれない。「なんだ?」

 白夜が言うのをじっと待っている針間に、白夜はふてくされた気持ちになりながらも――。言うしかないと覚悟を決めていた、頼みを口にする。

「……先生の……力が……必要なんです。どうしても――」

 瑠璃仁や、一条家のみんなの顔が浮かんでは消える。白夜は、しぼりだすように言った。「針間先生は、血も涙もない人ですけど……医者として間違ったことは……言わない。いつも正しかっ……た、です……」

 針間は静かに、聞いている。

「ぜ、全部……針間先生の対応全部が、正しいとはっ、思いませんけど……っ」

 眉がピクリと動いたが、針間は口を挟まずに聞き続ける。

「でも、でも……やっぱり今は、針間先生のその正しさが、ほしいです……っ!」

 白夜は頭を下げた。

「今までのことは、…………全部じゃないけど…………謝ります。申し訳ありませんでした! あのっ、瑠璃仁様を、針間先生が、診てもらえませんか……!」

 沈黙が痛い。でも、白夜は待つしかない。下げた頭の向こうで、ギイ……っと椅子の回る音が聞こえる。

「……ったく、全部じゃないとか……ところどころ引っかかるが……」

「そ……それは仕方ないでしょ!」白夜は顔を上げかける。

「あっ、このやろ! んなこと言ってると、診てやんねーからな!」

「むむむ……」渋々頭を下げ直す。

「……ま、俺様の手腕にようやく気付いたってことは、褒めてやらぁ」

 そうして、キーボードで入力する音が聞こえた。ID番号の残りの七ケタ分。白夜が顔を上げると、一条瑠璃仁の電子カルテ画面を、針間が開いて読んでいる。

「――行くぞ。早くしろ」

 即座に立ち上がる針間にきょとんとする。

「一条瑠璃仁のところだろうが!! クソ無能のろま媚売り若槻の担当なっ! ったく」

「はい……!」

「あ、電子カルテの印刷、終わりましたよ、針間先生」

 南まで、自分のカバンを用意して背負っていた。そういえば、自分の後にはもう患者もいない。

(往診……してくれるのか?)

 白夜が連れていかれた先は、救命救急センター非常出入り口。白と赤に塗られた救急車が、いつでも出発できるような状態で待機していた。

「救急車!?」

「構うかよ。非常事態だ」

 白夜は針間に続き、飛び乗った。

「おまえのとこ、相当ヤバいことになってんだからな。こじらせ野郎を暴走させすぎだ。患者は今どこにいる?」

「えっと……瑠璃仁様は、今はお邸の方にいらっしゃいます」

 電話で勝己に来訪予告をすると、それはそれは驚いていた。でも、瑠璃仁は研究所へ実験に出かける間際らしい。とにかく止めなくては。

「住所は?」

「僕が案内します」

 そう言って白夜は腰を浮かせる。運転席に身を乗り出すと、

「あ……白夜さん、どこかにぶつけました? かさぶたかな? 血が出てる」

 南に言われて白夜が見ると、肘の辺りから出血していた。なんだか気持ちもいっぱいいっぱいだったし、こんなかすり傷なんて自分では全然気が付かなかった。

「いてっ」

「あ、ごめんなさいっ。痛かったですか?」

「ちょっとだけ」

 救急車内で南が手当てしてくれるようだ。絆創膏をポケットから出して、ぺたぺた。

(自分でやった方が痛くないな……。あと、救急車に積んであるもの使えばいいのに)

 そう思いつつ、人肌に生温かい絆創膏に、南の存在の温かさ懐かしさを感じる。

(……俺のいない間、ずっと針間先生に付かされていたらしいけど)

 手つきの不器用さは相変わらずだが。

(それなのに、憧れは憧れのままで……というか、こいつは、もうずっと前から、針間先生のこと、ちゃんとわかっていたんだな)

 見慣れた道に入ってきた。砂利道を走り抜けると、視界一面に華やかな別世界が広がる。

「わー! すっごーい!」

「ほー。でけーな」

 二人の驚く声がなんだか新鮮だ。南はもうここへ来た目的すら忘れているのではないかという勢いで感動している。

「すっごい大きいです! 僕こんなお邸、初めて見ました! わあっ、お庭もお花がいっぱい。かわいい~……」

 でも、救急車で邸に乗り込んだところで、なんと言って瑠璃仁を診察すればいいのだろう? 追い返されるに決まっているのではないか……?

 乗り込んだ先、どうするか答えの出ないまま、邸の駐車場に到着してしまった。

「じゃ、じゃあ、話をしてきますね……?」

「うまくやんなかったらブッ殺すぞ」

「がんばってくださーいっ」

 人のことを言えた義理ではないが、無茶振りにもほどがある。

 二人を庭に残し、白夜は単身、邸の中へ。西玄関の扉を開けると、勝己が立って待っていた。

「勝己様!」

「ああ、ありがとう。それで……その、例の先生、が?」

「はい……瑠璃仁様の診察をさせていただきたいそうです」

「恩に着るよ。さっそく、瑠璃仁に話をしよう」

「うまくいきますかね……?」

「うーん……瑠璃仁の考えることなんて、誰にもわからないよ。やってみるしかない」

 勝己の後ろに続いて、大階段を駆けあがる。瑠璃仁の部屋は上がってすぐだ。

「瑠璃仁、入るよ!」

 問答無用で勝己が開けてくれる。白夜も中に入った。

 服を着替えていたのか、瑠璃仁はボタンから手を離し、襟元を正す。

「ああ、兄さん。それに……」

 白夜は瑠璃仁と目が合った。瞳の奥、脳の無限の広がりを感じさせるような、吸い込まれるような深い色。瑠璃仁はその目を細めると、窓の外を指差して言う。

「どうやら……緑の救急車が来たみたいです。僕かな?」

 白夜は進み出て言った。

「僕が呼びました」

 もちろん緑色などしていない。

「医師が来ています。診察を、受けていただけないでしょうか……! 若槻先生以外の……。お願いします。一度だけでも」

 瑠璃仁はうーんと唸って、上着を羽織る。

「これから出かけようと思っていたんだけどな。早く行かなくちゃ。今も何か、新しい変化が起きているかも。見逃しちゃうよ」

「お願いします!」

「若槻先生じゃだめなのかい?」

 その疑問は当然だ。

「若槻先生は、その……ご、誤診の可能性が……あります」

「ふーん」

 すると瑠璃仁は、楽しそうににこにこ笑う。「すごいね。他人の診察に口出し、しかも呼んでもいないのに救急車で乗り込んで……」

「お、おっしゃる通り、ですが……」

 今さらながら、自分のやっていることが怖くなる。でも、でも……。

「針間俐久という医師が、若槻先生は誤った診断をしていると言っています」

「へええ」瑠璃仁は笑っている。どこか、試すように。「本当だとしたら、大問題だね?」

「そ、そ、そうなんです! だから参りました! お願いします! 針間先生の診察を受けてください! 約束します! 針間先生は……瑠璃仁様の病気を、きっと一番良いやり方で治してくれます! あの人は、そのためなら、鬼にだってなるんです。本当です。医者であるためなら――」

 そう、すごく……最低な人。患者の気持ちを考えない。

「あの人は……医者であるためなら人間をやめるような、そんな人なんです!」

 でも鬼にならないと、誰かの命なんて救えない。

 頭を下げた。

「お願いします。針間先生を信じてください。お願いします……っ」

 自分の……父親を思い出した。あの人も、同じようなことを言っていた。俺は父親である前に、医者だ、って。大嫌いで、最低の父親だった。どこか、針間先生にその父親を重ねていたのかもしれない。

「ふーん……」

 彼の声に、静かな笑みが混じっているのを白夜は感じた。

「とてもいいお医者様じゃないか」

「……!」

 顔を上げる。

「ぜひ僕を診てよ」

 柔和な笑顔が、そう言った。

「え、いいんですか?!」

「うん。だってそこまで責任持てる人、なかなかいないんじゃない? 僕もね、そろそろ限界だったんだ」

 そうして、片耳を押さえる。

「薬はね、毒にもなる。正常な思考をマヒさせたくなくて、幻覚に耐えながらも薬に頼らずになんとかやってきたわけだけど……病気は病気だからね。ちゃんとした医者になら、そろそろかかりたいと思っていた……。向こうから来てくれるなんて、僕はついてるなあ」

 今も幻聴は続いているのだろうか。その瞳には、何が映っているのだろう。

「若槻先生は、うん……神である僕の言うとおりに動いてくれて、愚者であるままに僕のやることを邪魔しないでくれるのは良いんだけど、僕も病人だからね。医者に治療してほしいところもあるのさ……」

 そう言って困ったように苦笑いしている瑠璃仁が、若槻を医者としてまったく見ていなかったことはもう明らかだった。

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