第33話 それぞれの存在理由

「んじゃ、邪魔するぜ~」

「こっ、こんにちわぁ!」

 針間と南が、正面玄関を踏み越えて闊歩する。落ち着いた針間に対して南はきょろきょろと。この二人が一条邸に足を踏み入れることになる日がまさか来るとは……玄関扉を開けて迎え入れた白夜は改めて目の前の光景を不思議な気持ちで眺めた。

 針間は足を止めた。南も止まる。

 二階の吹き抜けの柵越しに、瑠璃仁がこちらを見下ろしていた。針間はしばらくじっと向き合う。静かな間があった。これから、人一人のアイデンティティに関わることまで奥深く触れる診察を行うのだ。針間の細い身体に、短い時間内に、背負っているものはいつも重い。瑠璃仁に「どうぞ?」と声を掛けられて、再び歩き出す。医務室より、本人の部屋の方がいいと、階段を上がり瑠璃仁の部屋へ。瑠璃仁の部屋のリビングに通し、瑠璃仁も針間もソファに腰かける。その傍らに白夜と南が立つ。針間に質問されて促され、瑠璃仁はいくつか話を始めた。幻聴や幻視などといった自覚症状、怖くて眠れないこと、朝起きにくいこと、現在の日常生活、周囲から問題にされていること、自分の考え、そして、

「僕は四次元方向へ進むことを可能にする薬を作っているんです」

 共に暮らす家族や使用人にも事あるごとに話して聞かせるように、

「僕の考える、四次元の方向への扉はですね――」

 だが。

「――はい、もう結構」

 こちらもまた――いつものタイミングで、針間が遮る。

「はっきり言おう。全部、妄想だ。相当悪化してる」

「……そうですか。ではリスールとジプロファイを処方なさるのですね」

 話の腰を折られても、瑠璃仁は涼しい顔をしてそう切り返す。

「ああ。その様子では、これまでずっと飲まなかったんだな。何度も出されてきたのに?」

「答えはハイとイイエ。飲まなかったのはその通りです。違うのは、何度も出されてきたということ」

「処方されなかったのか?」

「ええ。僕が、必要ないのでは? と申し上げましたので。その通りになりました。医者という名の、なんでしたっけ? 仕事人間? 僕の傀儡、じゃだめですか?」

「!」

「だって、人間界でいうまともな医者なら最低でもそれ処方しますもんねぇ。それをしないのは、一条を恐れる弱い人間か、僕を信奉する信者か、僕と同じだけ真実が見えている――まあ、言ってしまえば神だけです」

「神だけ、ねえ。よくある誇大妄想だな」

「あなただって、医者であるためなら人間をやめるというのでしょう? 僕と変わらないじゃないですか」

「意識の問題だ」

「では、僕もそういうことで」

「そうはいくか。定められた手続きと許可もなく人間を実験材料にするのは問題あるだろ」

「ご心配なく。本人の意思は確認済みです」

「そういう問題じゃない。何の開発か知らんが、治験するならちゃんと申請して、審査を通してからにしろ。そもそもアンタ、今は休学しているんだろうが。療養のために」

「学会はダメです。裏組織の息がかかっているのです。僕が実際に境界失調症なのを良いことに、すべてそのせいにして却下するんですよ」

 白夜は少し驚いて瑠璃仁の顔を見た。瑠璃仁の口から四次元の話はよく聞いていたが、そんな組織の話は初めて聞いた。

(妄想が大きくなっている……?)

「なんだその裏の組織ってのは。ここに連れてこい」

「それができたら苦労しませんよ。一条の力をもってしても、足を出さないんです」

「じゃあ、ンな組織、いないってことじゃないのか」

「います」

 瑠璃仁はきっぱりと断言。

「自分の妄想でないとする根拠はなんだ?」

「僕の力を恐れる組織です。常識を疑うような天才を山ほど見てきましたからね僕は。自分の常識を疑っているんです。それが根拠でしょうか」

「そら世界にはいろんな天才がいるんだろう。でも、だからといって何でもアリにしちまうと、どんな妄想でも成り立つぞ」

「逆に、変わった発想を妄想の一言で片づけられてしまうならば、「境界失調症」と診断された僕には今後何一つ革新的なことを許されなくなります。当時の常識であった天動説を否定したことで教会の怒りを買い幽閉されたガリレイも、檻の中でこんな気持ちになったんでしょうか。偉大な発見には、常に激しい批判が付き物なのだと」

「理研でも政府でもいいから、とにかくちゃんとしたところからちゃんとした認可さえ降りれば、俺も文句は言わねえっつの」

「ちゃんとした判定がしてもらえないから困っているんです」

「だあーから、それはお前の研究が間違っているからだろう」

「いいえ、敵対組織の陰謀です」

「あーそりゃテメーの妄想だ」

「一応僕も、一条の人間なので」

「自分には狙われるだけの理由がある、ってか」

「はい」

「アンタに対して犯罪行為を取る裏組織とやらが捕まらないなら、警察やら政府やらを訴えるべきだ。それが手順ってもんだ」

「そんなこと、散々やってきましたよ? 僕の境界失調症患者としての重症度を上げるばかりの結果になりましたけどね。若槻先生に出会ってなかったら、今頃は増幅された薬に真実も自分自身も何もかも、溶かされていたでしょうね」

「でも幻聴がきこえてるんだろ」

「聴こえますが?」

「それは境界失調症の典型的な症状だ。他には妄想って症状があってだな。非合理的かつ訂正不能な思いこみのことだ、まさに今のお前だ」

「幻聴がきこえた瞬間から、自分は病気だからと疑うことや考えることを放棄させられ無防備にならなければいけないんですか?」

「そうじゃねえよ。だが病的なものは治療しないとおまえも周りも取り返しのつかないことになるだろ。四次元の薬? この世界を監視? じゃあ訊くが、もしおまえの間違いだったらどうするんだ? 健康な人間に、自己流に創作した薬を飲ませたりなんかして、取り返しのつかないことになることがわからないか?」

「そうするしか、僕の正しさを証明する方法がないんです」

「ずいぶん危険な賭けだなあ、オイ。これだからお坊ちゃまは。自分のワガママのためなら、使用人に危険が及んでも平気ですってか? 危険どころか無責任だ。実際、事件が起きてもテメーは責任能力なしと診断されるだろう。そうなる前に、こっちは医師の責任として止めてんだ」

「……」

 針間先生が、患者とこんなに長く会話しているのを見るのは久々だ。

「一条瑠璃仁、あなたは頭の回転が速いし、口も達者だ。でも、自分が病気だという自覚がまだないようだ」

「そんなことはありません。僕は病気です。ちゃんとわかってます」

「じゃーこれ、はい、持ってきてやったぞー」

 どん、とテーブルの上に叩きつけたのは薬だ。針間が持参してきたらしい。白夜が以前、副作用を心配した眠剤に対する替えの薬まである。

 だが瑠璃仁はそれを見ながら、揺るがぬ声色で言う。

「論拠が揃うまで、治療を拒否します」

「はあ? だめに決まってんだろ! 病気の自覚があるクセに!」

「あなたの治療を、です。僕の主治医は若槻先生ですよ? ふふっ」

「あいつは、だめだ!!」

「なぜです? あなたの仰る、ちゃんとした医学界のちゃんとした医師免許を取得した、ちゃんとした精神科医ですよ?」

「よく言う。……診察なんか一切させていなかったくせに」

「もしもそうだとしたら、まともに診察しないで患者に言われるがままの薬を出すような人間に医師免許を与えた医学会側の問題でしょう。そちらを訴えたらどうですか?」

「……それは、まあ、そうなんだがな」

 瑠璃仁の意趣返しに、針間が黙る。

「あなた方医師も、日本の警察も、腕利きの探偵も――秘密結社にさえ勝てないレベルの無能の集まりなら、その低レベルな現実に合わせた方法で、僕が動くしかないでしょう?」

「おまえは、病気の自分に対する、不安や疑念は、ないのか?」

「そんなもの、とうにわかった上で、僕はやってるんです。邪魔をしないでいただきたい」

「お前のやっていることは、すべて自己欺瞞だ」

「それはあなたもでしょう」

 そう言って睨み合う。互いに、一歩も引く気配はない。瑠璃仁は言う。

「一条を恐れず、僕の傀儡にもならない、医者であろうとしている人間に会ったのは初めてです。あなたが自分のことを、人間であることを捨て鬼になった医者だというのなら、最後まで付き合ってもらいます。神になろうとしている僕の治療に。あなたこそ、イデア界の医師としてふさわしい」

「ぐちゃぐちゃうっせー。だったらそれ飲めよ」

「それはできません。本物にせっかく出会えたのに。そんなことをしたら、僕がこの手で、あなたを医者として死なせることになる」

「はあ?」

「僕の言っていることは、妄想じゃなく、真実ですから……」

「はっ。またそれか。そうだな、お前の中ではな」

(ああ……挑発してどうするんだっ。それともこれが針間先生の共感のつもりなのか?)

 白夜は二人のやりとりをハラハラして見守る中、なんだか平行線を辿っていることに気が付く。この流れでは、針間先生がもういいやめたと言って帰ってしまう。ここで決裂したら元の木阿弥。白夜はにらみ合ったまま動かなくなってしまった二人の間に進み出た。

「では、瑠璃仁様が証明に失敗したら、針間先生に言われた薬を飲むのはいかがでしょう?」

 咄嗟の提案に、

「そうだな……そこまでいうなら、妄想じゃないってことを証明してみせろ」

 針間が踏み込むようにして、そう頷く。

「もとよりそのつもり。ご協力願えますか?」

 瑠璃仁も乗ってくれた。

「ああ。その人体実験中の連中の様子も見せろ」

「いやだな、治験ですよ……では、ご案内します」

 おお……! なんと、研究施設への入場許可まで付いてきた。これで薬を飲まされている使用人の様子も、針間先生の目に触れられる。

「証明できなかったら、大人しく飲むんだぞ。あと実験もストップだ。若槻からも離れろ。んで入院だ。俺の担当に入れる。言っておくが、俺は勝手は許さねえからな」

「飲みましょう。いいですよ、一週間もあれば、おそらくできます。……じゃあ僕が証明できたら」

「なんでも言うこと聞いてやるぜ」

「楽しみにして、考えておきます」

 ――不穏な駆け引きまで最後くっついてしまったが、ひとまず一歩前進だ。

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