第25話 錯乱した患者が刃物を振り回しています。
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白夜が辞職を決意した事件があったその日も、第三診察室は朝から荒れ模様だった。
「話にならねえ! ばかにしやがって! てめぇ、覚えとけよ!!」
吠えているのは背中から腕にかけ、とても綺麗なイラストの入った人だった。ちょっと手に負えないと、若槻から針間の診察に回されたのだ。針間は顔色一つ変えずに言う。
「どうぞおだいじに。そのままでは悪化していくだけでしょう」
「悪化したらどうしてくれるんだ!! ああ?」
「言うこと聞かない患者のことなんて俺が知るかよ」
「オイオイ嫌な患者のことは放っておくってかー? さっきの先生みたいによぉー?」
「患者に対して好き嫌いなんてありませんね。興味もない。顔も名前もどうでもいいです」
「……帰らせてもらう」
白夜は患者を案内するため、出入り口のカーテンを開ける。針間は手元のメモ用紙に並んだ正の字の横に、新たに棒を一本書き加えた。予約患者の多い今日は最高記録を打ち立てるとか言って、担当看護師を手際のいい白夜に強引に変更した。やっかいそうな患者が回されても、ものともせず捌いてしまうのには恐れ入る。
カーテンを閉めようとしたら、患者と入れ違いに南が診察室に入ってきた。「え、南?」
「あのっ、針間先生、おはなしが――」
「なんだ?」
針間に耳打ちする。
「次の患者さんなんですが、ここまで連れてくるのが、ちょっと……大変だったんです。でも、ご家族が説得して、ご本人も、一度だけなら――って」
「だからなんだ?」
立ちすくむような視線。
「あっ……う……なんでもないです」
「じゃ、余計な時間を使わせるな」
「す、すみません……」
しゅんとうなだれる南。そのやりとりを見て、白夜は、
(こういう時はもっと、「ありがとう」とか、優しい言葉をかけるべきじゃないのか)
針間の心無い返し方に義憤を抱きつつ、前の患者を送りだす。一緒に出ていくと思った南に何か一声をかけてやろうと思い、カーテンを開けたまま待とうとして――驚かされた。
心挫けて診察室から出いくと思いきや、南は中に留まり見守るようだった。
「おい、邪魔だ出ていけ」
当然のごとく針間は追い出そうとする。
「い、いさせてほしいです……」
「だめだ」
すると南は――命令を無視した。
(え、おいおい……)
「赤重さーん、赤重茂吉さーん」
さらに、担当看護師である白夜も無視して、勝手に呼び込むし。
「はいはいはい!」
中待合の方から大きな返事が聞こえて、患者はすぐに近づいてくる。針間も南の行動に意表を突かれたのか、諦めてデスクトップのまっさらな新患電子カルテ画面に向かった。
その患者の話は、なかなかすさまじかった。
猫に姿を変えられた元・人間たちが、町中で自分を監視している。あいつらは猫だから木にも登れる。今も屋根の上にいるかもしれない。動物として耳もいいから、この会話が聞こえてしまうかもしれない。だからひそひそ声で説明するが、彼ら元・人間の猫たちは、猫にされたのはおれのせいだと恨んで、付け回している。なぜそうとわかったかというと、真実に気づいたのは自分だけだからだ。小さい頃から猫が苦手で、今思えばこのことを直感的に悟っていたっていう論理的な裏付けまである、とのことだった。
「あの! おれの話、ちゃんと聞いてます!?」
患者はそこまで話して、普通の声量で確認する。カレンダーと壁時計を眺めていた針間は、視線を患者に戻した。
「さすがに声が小さかったですかぃ……?」
少し声を大きくして、もう一度繰り返そうとする患者に、針間は言った。
「聞こえていますし、もう聞くまでもありません」
「は?」
狐につままれたように、ぽかんと聞き返す患者。
「典型的な境界失調症です。即入院してください」
「あ……? は、ちょっと待ってくださいよ。まだ証拠の動画を見せていない――」
「必要ありませんね」
「ふ、ふざけんなっ。ちゃんと見ろ!」
「いえ、十分です。これ以上は時間の無駄です」
「おいっ、ま、まともに診もしないで、なに言ってやがる!!」
「医者として診た上で言っているんです。まともに診てないなんてのは、素人考えです」
冷静に、淡々と。電子カルテに概要を入力し、入院の要請をする。
「は、ははん……さてはお前も手先なんだな!? 気付きかけている俺を、薬でぼかしてごまかそうとしているんだ。おまえは付け回しているあいつら集団の一員なんだ。猫の味方なんだ!」
「違う。あなたは今、病気によって正常な判断ができなくなっている。投薬治療をします」
「やめろ! やめろお!! お前も俺を狙ってるくせに!」
がたん、と患者が椅子から立ち上がる。針間は何も動じず、さらに言い放つ。
「はっ。テメーみてぇな取るにたらねー人物に、医師と患者の枠を超えてまでの興味などまったくないね」
「な、な、なにを~~!? 俺の情報を収集しといて……なにしらばっくれてやがる! その電子カルテにいろいろ書いてただろうが!」
「俺は医師で、あなたが患者なので」
「いや、俺の知ってる猫組織の事情とかだって! 書いただろ! 消せッ! 俺の個人情報! もう治療は金輪際いらねえ! だから、頼むからそのデータだけは消してくれよおお! 猫が来ちまうだろ!!」
目の前に敵の親玉がいて、そいつにすべてを話してしまったことに恐れおののいたように、真っ青だ。マウスを操作している針間に向かって、飛んでいくのは――いつかのために患者が懐に忍ばせ、用意しておいたのだろう、抜身の包丁だった。
その場の空気が固まった。
あぶない!
一瞬の間の出来事。
白夜がどうしようか考えを巡らせているうちに、
止まらぬ包丁の切っ先に南が飛び出してきて、無防備に針間のことを庇っていた。
流れていく鮮血。
「あ……あ……」
膝をついて蹲る南。
「南っ……!!」
白夜は無我夢中で南に駆け寄った。血が広がっていく。刺されたのは腕だ。放心状態の患者が、また、じりっと動くのを見て、白夜は飛びかかって押さえ込んだ。手放した包丁を遠くに蹴る。騒動を聞きつけ、たちまち上がる看護師たちの悲鳴。
「患者は僕が押さえています! 北島さん止血やって!!」
とんでもないことになってしまった。
自分の腕の中で患者を押さえこみながら思った。でも幸いなのは、ここが病院で、すぐそばに医者がいるということだ。医者に任せればなんとかなる――。白夜は針間の方を見た。
針間は――無感情な目で視線を外す。
そして、手放しもしなかったマウスを操作し、次の患者のカルテを開いた。
「はい……では、強制入院で。次の人どうぞ」
いつものようにスクロールし、前回までの受診記録をチェックしている。
「え……」
針間先生……あんた、
「なにやってんですか……っ」
見向きもしないで……。
こんな状況で、次の人どうぞだと。
入ってこない次の患者に針間は、焦れたように席を立つ。そして、足元に向かって言う。
「おい南、そんなところに転がっていたら俺の診察の邪魔だ。出ていけ」
「あ……う、腕が……ち、血が……っ」
鮮血に怯える南。それを止血し、包帯を巻く看護師に、
「動脈までは行ってねーよ」
と一言だけ。そして、白夜と目が合った。白夜は患者を抱えたまま、叫んだ。
「南が、あなたを庇って刺されたんですよっ。あなただって、殺されていたかもしれないですよ!」
「それがなんだ?」
「なんだ、って……」
「お前も、抱き合ってないでとっととその患者の入院処理済ませてこい。次が詰まってんだよ」
二の句が継げない。
針間はそのまま診察室を出て、自分で患者を呼び込む。
「三井さんー。どうぞー」
南は看護師に連れられて、処置室に移動した。白夜も、赤重を連行する。騒ぎを聞きつけた若槻先生が心配そうな顔で処置室に駆け込んでいくのが見えた。
白夜はすれちがいざま、針間に言った。
「あなたは人として最低ですね」
「人として最低でかまわねーよ」
「こんなの医者じゃありません」
「医者だっつうの」
✿
広々として無音の地下カルテ室で、嫌な記憶がよみがえった。むかむかする気分を散らすように、南の代わりに若槻医師の患者の紙カルテを一冊一冊探し続ける。
白夜はあることに気が付きふと手を止めた。
(これも……これもだ)
過去に利用した病室欄に「特室」の記号が入っている患者が多い。特室、つまり「特別個室」――程度の差はあれ、入院時に別途費用を払ってでも高い待遇を希望する患者だ。面倒な要求をされることも多いが、病院にとって割がいいので、あまり逃したくない患者でもある。
(丁寧な若槻先生に任せておけば安心、って感じなのかな。ま、偶然かもしれないけど)
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