第15話 いつか辿り着きたい丘の上の話です。

 針間医師の外来診療日の、とある日のことだった。

「なぜ放っておいたんです?」

「ご、ごめんなさい……」

 診察椅子にちょこんと座った小学生の女の子は、目に涙を溜めて針間を見上げる。首にはコルセットがはまっている。針間はその後ろに立つ母親に向かって、

「通院を止めた理由を聞いているんだ!」

 怒鳴る針間に、親子はびくっと身を竦める。

「そ、それは……子供が……嫌がって……」

「それで?」

「それで……。その、本を読んでみたら、子供が成長すれば自然に治ることもあるって書いてあって……」

「……私はそんなこと言ってませんよね?」

 冷ややかな視線に黙り込む母親。すっかり委縮してしまっていた。

「……っ……ごめんなさい……ごめんね、美羽みう……」

 彼女は、睡眠時遊行症――通称、夢遊病だ。眠っている状態で起き出し、眠ったままふらふらと行動してしまう。その時のことは、本人はまったく覚えていない。患者・山内美羽は、それで家を出て道を歩いていたところで事故に遭ってしまった。幸い、命に別状はなかったが――。

「でも、ちゃんと見てたんです私……。夜も、昼も……寝ずにちゃんと見ていたんです……」

 目の下には深いクマがあった。お母さんも限界だ。

「じゃあどうして、彼女は怪我をしているんです?」

「それは、私の頑張りが足りなくて……」

「違う! あなたが現実逃避したからだ! まだわからないのかっ」

 うっ、うっと、泣き出す母親。すると、子供が立ち上がり、言った。

「お、お、お母さんをいじめるな!」両の拳を握って、「おまえがお母さんをいじめるから、こんなところ来たくないんだ!」――相当な勇気を振り絞ったのだろう。

 だが、針間は容赦なく続ける。

「じゃあ、子供は母をいじめる精神科医から母を守りました、母はそんな愛しい我が子を寝る間も惜しんで見張りました。ある夜、とうとう限界が来て母親がちょっと居眠りをした時に、ふらふらと眠ったまま家を出た子供は、車に轢かれて死んでしまいました。ああなんて美しい親子愛」

 皮肉たっぷりの言葉だった。母親は目を真っ赤にして、子供の手を握って、何も言い返さず診察室を出ていく。針間は追撃するように、

「次回予約は二週間後にとっておく。別に来なくてもいいぞー。そのうち、こんな悲しい美談を、俺に聞かせに来るんだからな。どうせ!」

 たまらず、白夜は言った。

「針間先生、さすがに言いすぎじゃないですか!? 放り出しちゃまずいですよ、あの親子……」

 そんな制止も、針間はまったく意に介さない。

「早く次」

「待ってください、ちょっと追いかけて見てきます――っ!」

「後がつかえてんだよ」

 ギロリ、と視線に射抜かれる。それを跳ね返せるほどの自信は、白夜にもない。

「……わかりました。では次を入れた後で、ちょっと、説明してきます」

「次の患者のことは放っておくのか?」

「……」

 その時廊下から特徴的な声が聞こえた。「どうしました? あ、泣いてる……」南だ。話を聞いてくれているようだ。助かった。ここは……あいつに任せよう。

「次の患者を入れます」

「そうしろ」

 針間がトイレに席を立った隙に、白夜は急ぎ足で待合室に向かった。まだ、いるだろうか。睡眠時遊行症で、夜な夜なふらつき歩いて交通事故に遭ってしまったあの親子――。

 落ち込むようにして、待合通路の壁際に立つ女性がいた。

「山内さん!」

「あ……」

 母親はさっきのことを恥じる様に、弱々しく笑みをみせる。

 あれ、娘さんはどこだろう?

「さっきは、針間先生が……すみません」

「いえ……」

 白夜は思わず謝ったものの、診察時に針間の言っていたことは、紛れもない事実だった。誤診しているわけではない。誤診どころか、命を守る為の正しい導きだ。

「あの、針間先生は、ああみえて……あなた方の為を思って、言っています。娘さんのことを思うなら、今すぐ、診察室に戻るべきです。じゃないと、これ以上深刻な事になってしまいます。一番よくないのは、現実逃避することですよ」

 白夜が懸命にそう訴えると、母親は

「――っ!」

 充血させた目を、潤ませ――背を向けた。

「あ……っ、と」

 拒絶。

「美羽さんは、本当にいつ轢かれてもおかしくないんです!」

 それでも、心の扉をこじ開けなくてはいけない。自分の目の前には二度と来なくなったって。せめて、治療の危機感を持って帰ってほしい。どこかでまた、精神科を受診してほしい。

「わかってるわよ。あなたに言われなくたって……っ」

「それなら……! 針間先生が怖いなら、別に、針間先生じゃなくたって構いません!」

「でも……」

 その勧めに気まずそうな迷いをみせる母親。人によって合う合わないは、現実的にあるだろう。

「針間先生はそういうの、気にしませんから、どうぞそうなさってくださいね。その方が治療を続けられるなら、そうしたほうがいい」

 針間先生の他には優しい先生だっている。若槻先生とか。幸い針間先生は、誰の患者が誰の患者になったとか、そういうことにはこだわらない。愛長医大じゃなくたっていい。町医者だって。

「美羽ちゃん」

 聞き慣れた、透き通った声が外の待合室から聞こえてきた。白夜が目を向けると、南が、コルセットを首に巻いた少女の前にしゃがんで、にっこり微笑んで声を掛けていた。

(南、まだいてくれたんだな)

 針間先生に泣かされ、退室した親子にすぐに気付いてくれただけでなく、まだついていてくれたのか。白夜は二人の様子を見守ろうと、自分は口を閉じた。

 南は、黙り込む美羽という少女の頭を、ぽんぽんと撫ぜる。

「よく……がんばったね」

「……」

「針間先生、こわかったでしょ」

 美羽は小さく頷く。

「美羽ちゃんはお母さんのこと、守ってあげたんだね」

「……」

 じっと、下を向いて黙っている美羽に、南は構わず微笑んで続ける。

「勇気があるな、って僕、思った。やさしいな、って思ったんだよ」

 美羽はうつむき続けたせいか、けほ、とむせる。首のコルセットが、苦しそうだ。

「でも、お母さんはきっとね、美羽ちゃんがケガをしないでくれるのが、本当は一番嬉しいんだよ。お母さん、泣いてるけど本当は、すっごく強いんだ。だって、美羽ちゃんを事故から守るために、ね、頑張ってここまで連れてきてくれたんだから」

 白夜の傍にいた母親は、その言葉に、首を横に振った。独り言のように、

「強くなんてないわよ……!」

 弱々しい声だったが、南はそれを聞いて立ち上がると、美羽の小さな手を握って、白夜と母親の方へ歩き出す。

「私、怖かったの……本当は、怖かった! なにもかも――」

 母親は、怯えたように後ずさって言う。

「あの人も怖いけど、それ以上に病気のことが――怖かった……し、それに、私、どこまで頑張れるのか、怖かった……いつか、美羽が、危ない目に遭うんじゃないかって……針間先生に言われて、ショックで、でもその通りだってこと、本当はわかってた……。だけど……ううん、だから、自分が安心するために都合のいいことばかり信じて、しまったの。私……本当に針間先生の言うとおり。母親失格なのよ……っ!」

「失格だなんて、そんなことはないですよ」

 南はそう言うと、美羽と繋いでいる反対の手で母親の手を取った。背伸びして、母親に顔を寄せる。

「ぼくも、さっき思いっきり叱られちゃったんです。ほら、その……目が腫れてませんか、ぼく……。てへへ」

「あら……」

 母はその距離に戸惑いながら、潤んだ瞳でまじまじと見つめ返す。

「あの人に叱られないようにするなんて、誰にもできっこないんですよ! だから、お母さんも、涙を拭いて。自信持って」

 そうして手を離すと、いつも持ち歩いている、ハンカチを差し出す。

「……本当は、頑張りたいんでしょう? お母さん」

 受け取った母親は、涙をぬぐう。氷が融けていくようなその様子を、南は優しい日差しの微笑みで、じっと待っている。

「そう……です。そう……こんな自分、嫌なんです。美羽のことを守れる母でいたいんです」

「うん、うん……その気持ち、僕も分かるなあ」

 遥か彼方の空を、隣で共に見上げるように。

「僕は、人を救える看護師になりたい。今の僕は、まだまだ……」

 いつの間にか上を向かせて、陽に頬を乾かして。心地よい風に、一歩、足を前に運ばせて。

「あっ! ごめんなさい、それ、ハンカチ……湿ってませんでした? ああぁ不衛生だって針間先生に叱られるーっ……」

「あはは、大丈夫よ……」

「うう……」

 しょんぼりと泣きそうな南に、母はもう、微笑んでいた。

「だから……ぼくと一緒に、もう一度」

「……ありがとう……」

 元気を取り戻していく母親の笑顔を前に、白夜は、声を発することができなかった。

(南……)

 凍りついた重い扉を、力づくで開けようとしていた自分。壊して、傷をつけてでも、その扉が開けばいいと思った。というか、「優しさ」といえば、自分にはそれしか思いつかなかった。

 そんな風に、陽射しで融かして、春風にふわりと開けさせるなんて。

「どうしたら……どうしたら、いいのかしら、私……。でも、本に書いてあることも、本当だったのよ……」

「それは……ぼくには、ええと……」

 二人の視線が、白夜に向けられる。

「あ……本に書いてあることも、間違っていないと思いますよ」

 乾いた声で、白夜はなんとかそう言う。

 母親は、白夜の目を見てじっと耳を傾けている。今なら、受け入れてもらえるだろう。悔しさはぐっと呑み込んで無視した。仕方がない。今はそんなことを考えている場合ではない。俺にできることをしなければ。

「ただ、美羽さんの場合は、施錠したドアを開けて外に出るなど、かなり複雑な行動までできてしまっています。だから特別に治療が必要なんです。針間先生の言っていることは、そういうことです」

「そう……だったの……」

 納得したような彼女の表情に、たしかに心に届いた感触があった。

(届くん、だな)

 南は親子と笑顔を交わし、思いを分かち合っている。これが心に寄り添うということだ、これが優しいということだ。まぶしかった。すごいと思った。尊敬した。

 胸がズキンと痛んだ。悔しい。あの悪い状況から、彼女たちを救ったのは俺じゃない。南だ。俺はできなかった。できなかった自分が、とても悔しい。

(南、おまえの弱さは、おまえの強さだ――)

 そんなところに憧れているのは、俺の方なのだ。

 ――いつか、たどり着いてみせる。待ってろよ。

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