第14話 精神科医の針間先生は鬼畜で冷徹なことで有名でした。

 針間医師は時間に厳しい。というか、時間に対してケチだ。それは看護師に対してだけではない。たとえば診察時、

「家を出た後、ちゃんと玄関の鍵を閉めたか、何度も確認しに帰ってしまうんです。出勤することさえままならなくて――」

 などと患者が必死に病状を説明しようとしても、

「あーはいはい。じゃ、これ出しときますから、飲んでください」

「ええっ、そんな簡単に……。これ、精神薬ですよね。えっ、量もこんなに多いの……?」

「よくある病気なんでね。じゃ、お大事に」

「で、でも、これ飲むと、性格とか変わっちゃうんでしょうか……? 大ざっぱになるとか? ほら、僕の性格上の問題かもしれないし……。僕が僕じゃなくなっちゃうのかなあ……。僕の努力不足なのかもしれないし……」

「いーから、まず飲んでみて問題があるようならまた変えればいいから。そっからだ」

「は、はあ……そんなもんですかね」

「んじゃ、次の予約はちょっと近めに、来週同じ曜日に入れておきます」

 有無を言わせぬ針間。

「わかりました……」

 患者は腑に落ちないような表情で帰っていく。いつもこうだ。

 続いては、三十半ばの黒縁眼鏡が重たいサラリーマン。

「というわけで、お薬出しときますね」

 針間の診断にすかさず、

「いえ先生、その薬は違います」

 と口を挟んでくる。

「これでいいんだよ」

「でも、調べると違うって出てくるんです」

「そうですね。では、こちらを――」

 針間の訂正に、彼は自分の努力が報われたような笑顔と、ほんの少しの、医者を見下したような視線を向ける。だが針間は、それを見越したように、

「――出すとでも思いました? 出すわけがありません」

「えっ」

「あなたの場合、こっちでいいんです」

「……なぜですか?」

「聞きたいですか?」

「ええまあ、はい」

「じゃ、この医学書をご精読ください。 それから、これとこれ」

「は、は……!?」

 針間は机上に散乱させていた医学書を数冊ひっつかんで積み上げていく。

「タイトルをメモしたらどうです? 専門書なので一冊三万円しますがうちの大学図書館に、どれもありますよ。館内で閲覧することはどなたでも許可されていますので通ってみたらどうですか?」

「ちょっと、こんなには……読めませんよ。僕は医者じゃないですし……」

「では、納得いく説明なんてできるわけないでしょう。あなたは医者じゃないんですから」

「……。で、では! わかりやすく説明して下さると……」

「はー? 必要ありません。一人に割ける時間も限られていますんでね。はい、さようなら」

「なっ……! なんだと」

 そのサラリーマンはあまりのことにぶるぶる震えると、くるっと向きを変えて、行ってしまった。

「あっ、次回予約……」

 白夜はあわてて追いかける。

「まったく、なんて医者なんだ! あんなやつ信用できん」

 顔を真っ赤にしてぶつぶつと文句を独りごちている。

「あの、筑波さん、次回予約を……」

「ふん! そんなのいらんよ!」

 ピシャリと言われてしまった。ご立腹だ。こうなってしまっては、なすすべなどない。白夜は仕方なく、そのまま診察室へと戻る。

 今度は女性が、ハンカチで目元をぬぐいながら涙の訴えをしていた。

「――結婚を約束していたのに、私、突然の別れで、もう、どうしていいかわからなくて……。ご飯も喉を通らないし、一か月で五キロも痩せたんです。彼のことを殺してやりたいくらい憎く思うことだってあります。最近、自殺だって考えるほどで、まずい、どうしようって思って、私――」

「はいストップ」

 針間は表情一つ変えずに言い放つ。

「それは失恋です。病気ではありません」

「っ!! でもっ、き、聞いてくれたっていいじゃないの……っ。ここ、精神科なんでしょ!?」

「精神科は病気を治療する場所です。恋する乙女の恋愛相談室じゃない」

「なっ」

「喫茶店でオトモダチにでもしてろ。迷惑だ。はい、出てけ」

 針間のあまりの言い様に、彼女は声を失い涙までぴたっと止まった。針間はもちろんそんなことお構いなしに、カルテ入力画面をさっさと閉じる。

「ふ、ふんっ。こんなとこ、もう二度と来ないわよ!! 気分悪いわっ」

「そうしてください。次の方どうぞ」

 女性は憤慨し、どしどしと足音を立てて帰っていく。実際、もう二度と来ないだろう。よっぽど手ひどく振られたのだろうに、助けを求める場所を間違えて、さらに追い打ちをかけられて……

(あらら、お気の毒に……)

 白夜が苦々しく思っていると、

「おい加藤、今何人目だ?」

「あ、えっと――」

 白夜は急に振られてあわてて、予約患者リストを参照する。診察が一人終わるたびに名前を線で消しているリストだ。「次で二十人目です」

「ほおー。まあまあだな」

 針間は腕時計を見ながら、満足げにふんふんと頷いてどっかりと背もたれにもたれる。

「くだらねー恋愛相談に時間食ったなー。あーあと、強迫性障害のヤツのしつこい確認もなー。あ、エセ医学野郎もか。でもまあ、あとは上々か? あーあ、回転率もっとあがんねーかなー」

「ちょっ……先生」

 耳を澄ましてみる。中待合、誰もいないよな……? 患者に聞こえていないだろうか。

「のろま医の若槻の予約分もどんどん回していいぜー? そうすりゃ今日は四十人達成できるだろ。あ、俺が代行してやんのは定時までなー。時間になったらソッコーで帰るから」

「は、はあ……」

 隣の診察室との仕切りも薄い。あーもう、若槻先生に聞こえてないか……? 隣室の若槻ドクターは針間先生と年も同じくらいで、犬猿の仲だ。

 ようやく診療時間のピークを乗り切り、夕暮れ時。

(いやあ……針間先生の担当は、一触即発でほんと、神経が衰弱する……毎回ヒヤヒヤだ)

 予約時間の遅い患者を待つ間、医師は病棟に戻り、白夜は休憩室で遅い昼食をとっているときだった。

「やだなあ。明日針間先生の担当だアタシ……」

 シフト表を眺めながら、憂鬱そうに先輩看護師が呟いていた。針間医師は女、子供も関係なく容赦しない。白夜は彼女に近づいて提案してみた。

「僕、代わりましょうか?」

「ええっ?! いいの?」

「はい」

 白夜は、今までも何度も替わってあげていた。

「ありがとう~~っ。今度、なんかおごってあげるからねっ」

「いいですよ、そんなの」

 涙ながらに感謝されるが、別に恩を売るためではない。

(あの暴言精神科医、針間先生から患者を守らないと。だって俺は、人の心に常に寄り添う看護師でありたくて――)

 そこまで考えてから、思考を停止した。背伸びして歩こうとするような違和感があった。

(……いや、本当はそんな理由じゃないよな)

 おそらく、どこか付き合いやすさを感じているからだろう。白夜は冷静に理解していた。針間医師は仕事の方針がわかりやすいのだ。正確に、効率的に。言葉は心触れあうコミュニケーションツールではなく、ただただ情報を伝達するのための手段に過ぎない。感情論は外。正論が全て。バッタバッタとなぎ倒すような捌き様。看護師はとにかく、役に立っていればそれで文句は言われない。先生様お医者様とおだてる必要はなく、正しい指摘は遠慮なく言うことを歓迎される。効率優先――そういうところは白夜にとって、時に気楽な相手だった。

「白夜さんっ」

 先輩が出ていったのと入れ違いに、南が入ってくる。手には鉛筆が握られていて、昼食を取りに来たわけではなさそうだ。

「南、どうした?」

「そのっ……予診票の上手なまとめかた、教えてもらえませんか……っ」

 っと。こっちにも、自分がついていなくちゃいけないんだったか。まあ仕方がない。

「ああ、いいよ」

 泣き腫らした瞼に苦笑しつつも、めげないところには素直に感心する。昼食は中断し、予診室に移動してパソコンを起動。要点整理なんかは白夜の得意分野なので、すぐ終わるだろう。起動を待っている間、朝、針間にガツンとやられたことを思い出したのか、南は途中で泣き出してしまい、

「ぐずっ……ずずっ」

「……少し休むか?」

「いえっ、だいじょうぶ、ですっ、ぐすんっ……」

 ハンカチをポケットから出して涙をぬぐっている。

「白夜さんも疲れてるのに、ボクのために教え、て……くれるっ、……のに……っ」

 え~~んと大声で泣き出してしまったので、白夜は頭を撫ぜてやる。

「いいよ、落ち着いてからで」

「ごめんなさいっ。ごめんなさいっ」

「失敗は誰にでもあるって」

 長くかかりそうだ。弁当、休憩室から持ってこればよかったなあ。

「俺だってここに来たばかりの頃は、さんざんな言われようだったよ。そこに立つな邪魔だとか、パン買ってこいとか」

「ぐずっ、ぐずっ。そうなんですか?」

「そうだよ。それで会話に割り込むタイミングから立ち位置に至るまで、直してきたのさ」

「パンは?」

「さすがにそれは看護師の仕事じゃないって抗議した」

「すごい!」

「あはは……」

 たわいもないことを話していたら、南も持ち直してくれた。話している間に、手元で書いていた要点整理のためのポイントメモを手渡す。

「白夜さん……っ、いつの間に!?」

「いや、あはは……俺マルチタスク人間だから……」

「すみません、ぼく、無駄話しかしてなくて」

 またもや、しぼみ始める南に白夜はあわてて言う。

「気にするなって! とにかく、重要なことはそこに書いた通りだ。わからないところあったら言えよ、そこだけ説明するから」

「あうう、要点整理のためのメモまで、要点が整理されててわかりやすいですー……」


 外来診療時間が終わる間際のことだ。急患が運ばれてきた。この日は第三診察室の外来医師が担当だった。

「ったく、なんで俺が外来のときに限って、急患ばっかり来るんだよー」

「たまたまですよ、しょうがないじゃないですか」

 大量の予約患者をなんとか捌いたと思ったのに、おまけつき。白夜の呼び出しに駆け付けた針間は、診察と応急処置自体はなんとか無事に終わり、白夜の方も入院手続きも一段落。今はひたすら針間の文句や愚痴を聞かされていた。

「だってよぉ、受付三分過ぎてなかった? 救急外来扱いじゃねーのかよ。俺の時間を奪う奴は全員殺す。そして俺は定時に帰る」

「診察券の受付時間は、外来診療時間内だったみたいですよ」

「かー」

 針間は子供みたいに椅子をぐるぐる回している。

「運が悪すぎる。よし。流れを変えるために南を一回殺そう。いや二回だな」

「いじめはよくないですよ」

「いじめじゃない。殺人だ」

「もっとダメです!」

「南なら何回殺しても大丈夫」

「あー。そーゆーこというと、もう動脈採血、代わりにやってあげませんよ」

「……」

 押し黙る針間。

「……さっきは手が離せなかっただけだ」

「素直じゃないですね」

 動脈血採血は通常の採血とは違い、静脈に比べて深いところを流れている動脈から血を採るので、血管を見つけにくくまた神経を損傷するリスクも高く難しい。止血まで医師がやることもよくある。

「基本的にはこれ全部、医師がやらないとダメなんですよ!」

「は。ンなの俺が命令すればいいだけの話だ」

「それが褒められたことじゃないことくらい、わかっているでしょう?」

 動脈採血を看護師にやらせるのは限りなく黒に近いグレーゾーン。緊急時は仕方がないが……さっきのはどうみても単なる丸投げだと思う。

「バレたら叱られますよ」

「おう咎められるだろうな。バレたらな」

「俺が密告します」

「じゃあ咎められるな」

「ええ。きっと自分でやれって言われますよ」

「言われるだろうな」

 一転して涼しげな声で肯定する針間を訝しく思うと目が合った。そこには、にいっと加虐的な笑み……嫌な予感がした。

「そしたらテメーに、俺の注射の練習台になれって命令するだろーなあ!」

 なっ……そう来たか……!

「や、やめてくださいよ……」

 そんなことになったら最悪すぎる。

「いーや天下の白夜サマに教えてもらいながら、たっぷり練習させてもらうとするぜー」

「いいですいいですっ。わかりました僕がやります今後とも!! 僕、得意なんで! 黙ってりゃバレませんしね!」

 だって――あれ普通の採血よりずっと痛いんだぞ!?

「いや、医者たるもの、いくら精神科医とはいえ手技的なスキルも磨いておかないとな」

「だ、大丈夫ですってば! 僕がいます! 僕がついてます!!! 決して誰にも密告チクりません!」

「チクチク、チクチク♪」

「いいですいいですホントっ、僕、得意なんで! 僕にやらせてくださいぜひっ!」

 業務上の必要性を盾に憂さ晴らしされたらたまったもんじゃない。

(まったく! もう!)

 第三診察室を出ると、南とばったり出くわした。

「なにやってんだこんなところで」

 息を潜めて、カーテンの隙間からじっと見つめていたらしい。

「白夜さん、針間せんせーと仲いいですー」

 尖らせた口から羨ましげな声が上がる。

(いや……南……。これのどこが仲よさそうに見える?)

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