第13話 医大病院での日常をふと思い出してしまいます。
✿
記憶の中の第三診察室では、清潔なカーテンが朝日を受けて光っていた。
早朝独特の静寂の中、裏手側から足音が響いて、ぴりっと空気が張り詰める。やや高身長の痩躯な体型に、長い白衣がすとんとかかるシルエット。ストレートな黒髪は、うざったそうに後ろへかき上げられている。その姿に白夜は気合を入れ直して姿勢を正した。
「おはようございます」
「おー」
(さて、と)
マウスのクリック音がカチ、カチと繰り返されるのを受けて、白夜も動き始める。まずは診察開始時間より三十分以上も前から待機している予約患者を呼び入れようとして――
「待て」
――ストップをかけられた。
「はい」
「……この予診欄、入力したやつ誰だ。研修医か?」
針間ドクターが促す。
「いえ、今日はたしか――」
その不穏な空気に、白夜は身を乗り出して何事かと画面を確認する。
げっ。げげげー……
そこには膨大な文字文字文字……一面真っ黒、かつスクロールバーが下に下に続いている。
記入者名の欄にははっきりと、
「南です……」
南颯太の名前が。
「今すぐ呼んで来い!」
「は、はいっ!」
白夜は慌てて予診室へと走る。通路を横切り、処置室の裏手。楽しそうに談笑している声が聞こえてきていた。
「ああ~。それは災難です~っ」
聞き間違えようのないクリアなアルト声。
「そーなのよぉ。それでねー、あたしったら、二割引きのシールが貼られるの待ってたんだけどー……」
なにやってんだ、南っ!
白夜は手早くノックをして、返事も待たずドアを開ける。
「南っ!」
「あっ、白夜さん。はいっ! なんですか?」
純粋無垢なつぶらな瞳が、白夜の姿を認めて一段と大きくなり、そして嬉しそうに優しく細められる。南颯太。白夜の後輩の男性看護師だ。天然の金の巻き毛がフワフワとしていて、小柄な体つきと、着ている純白の看護師白衣と相まって、西洋の絵画の中に出てくる幼い天使のよう。さらに一度聴いたら忘れられない透明感のある声は、二十三歳にしてまだ二次性徴が来てないんじゃないかと看護師たちが小児科の受診を勧めているほど神秘的だ。そんな南の前にいる患者は、とてもリラックスしたように微笑んだまま「こんにちは~」と、突然現れた白夜にも陽気に挨拶をしてくれた。
だが。
「針間先生が呼んでるから、今すぐ来い!」
鬼気迫る白夜の口から出たその名に、さすがに南の幼顔も引きつる。
「う、は、はい……でもここ……」
「俺がやっとく!」
「ありがとうございます~」
「急いで行けっ!」
ぱたぱたと出ていく姿に無事を祈りながら、
「あーすみません、南が先生に呼ばれてしまったので、僕、加藤が引き継がせていただきますね」
白夜は目の前の患者に意識を切り替え、予診に集中する。手元にある患者受付ファイルにはクリップで番号札が留められていて、見れば「2」という数字が。
(は!? もしかしてまだ二人目かよ!?)
ということは他の診察室、一診も二診も五診も……患者の流れが止まってるじゃないか……っ!
どおりで静かな朝だなと思った。人の入りが無さすぎて違和感を覚えるほど。針間先生は比較的早く出勤してくる方だが、そろそろ教授の診察だって始まるぞ!
背筋に冷たいものを感じながら、書きかけの予診欄にサッと目を通す。
(ま、また長文書いてるし……。ん? うわああ、さっきの日常会話まで記録してあるっ。“それでねーあたしったら二割引きの”、とか、そのまま書くなーっ!!)
たしかに、こんなに細かく質問して聞いては書いて、なんてやっていたらどう考えても時間が足りない。こうなったら、ここからはとにかく効率重視で捌き切るしかない――!
「では、改めまして。本日はどのような――」
にこにこ朗らかなまま質問されるのを待っている目の前の患者に、白夜が仕切り直した時だった。
「どおおおう考えても読めるわけねーだろ!!」
反射的にびくっと身がすくむ。小学生を叱る怖い指導教諭のような怒声が、通路を隔てた向こうから響いてきた。針間先生の声だ。
「こんな長文書きやがって、外来ナメてんのか! 長編小説か! ああぁ?」
その声に、白夜の目の前の患者も、口を開けたまま固まっている。
「えうっ、……す、すみませんっ。できるだけ、たくさんの情報をと――」
弱々しく弁明する南の声も……。
「時間の無駄だ!」
「あうう……」
「ンだぁ、昨日より今日はややポカポカしてると感じた? なんんんんだコレっ」
(あああ……ま……まあ針間先生が怒るのも、これは無理もない……けど)
主訴や服薬情報などが漏れなく網羅されているのはいいが、患者の話をそのまま書き写すだけでなく、さらには自分の受けた印象や独自の解釈まで事細かに記載されている。熱心なのは認めるが、外から診察を受けにくる患者を、医師は限られた時間内で対応しなくてはならない。それをサポートするのが、外来看護師の仕事だ。
しーんとして、南のすすり泣く声が白夜の元まで聞こえてきたところで、
「あ、あはは、まあ、あたしはいつもの定期検診よ。薬がなくなったからもらいにきたのー。変わったことも特にないわ」
「そうですか……では、順番にお呼びしますので中待合でお待ちください」
精神を病んで診察を受けに来ているはずの患者さんの方から、気遣って席を立ってくれる有様。
(南~~~っ)
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