第12話 一日が終わりました。
夜の帳が降りて、ようやく終業時間となった。
「うーっ。つかれた……」
白夜は地下にある使用人部屋についてすぐ、取るものも取らずベッドに倒れ込んだ。
一条家飼い犬の白と黒のラブラドール達二匹の散歩の後、一条家のご夕飯の仕度を手伝いつつ、伊桜の点滴剤パックを交換したり、給仕に追われたりし――そこでまた、「思ったより早く終わりそう」という椋谷の言葉を聞いて……油断するんじゃなかったと後悔した。最後の最後に厨房の片付け――大量の皿洗いが待っていた。しかも高価な皿らしく、扱いも慎重を期さねばならなかった。自動の食洗機もあるが、細かな傷がついたり汚れが残る恐れもあるのでメインは手作業。グラスなどのガラス類は磨き上げるところまでやる。気が遠くなるような量――。お抱えシェフも帰ってしまって、椋谷はどうやって一人で終わらせるつもりだったのだろう。もうこんな時間だ。
(ま、少しでも役に立てたなら、よかったけど――)
でも、案外早く終わるという評価は嘘ではないと思う。
白夜はどこにいても手際の良さをいつも褒められてきた。手際の良さ、能率の良さ。奨学金で入れた短大では成績は常に上位だったし、就職してからも、慣れぬうちはミスして叱られることもあったが、それでも同期に比べれば覚えはずっと早かった。最短コースで看護師になっているので、他の人より年下にもかかわらず、だ。
そんな白夜の選んだ道は精神科ナースだった。今は男性看護師は全科に増えてきたが、昔は男性看護師と言えば、暴れる患者を安全に押さえるための男手として、精神科に配属されることが多かった。だが、白夜は別にそれが理由ではなかった。そもそも物覚えが早く手際もいい白夜は、外科に行った方がいい、オペ室勤務を目指す方が君は向いていると言われてもいた。精神科看護といえばその薦めの対極に位置するものである。体は元気な患者の多い精神科では、看護する側も医療行為の技術面でブランクができる。だからスキルアップを望む看護師は避けることがあるのだ。でもそれをわかった上で、白夜は志願した。
(俺は……)
そして、医大を辞めるときもまたいろんな人に止められた。
――「今より大きくなりたくはないのか?」
――「長年勤めあげれば給料だって増えるし、主任や師長など、責任ある地位に就くこともできる」
――「辞めてしまって個人の家に就職するなんて、もったいない」
同僚からも、師長からも、医師からも引き留められた。
しかし白夜は「構いません」と即答した。出世欲は特にない。給料も貧乏学生時代に比べれば十分だ。ただ、理想の人間になりたい。父親のような人間にはなりたくないという強い意志だけが、白夜を衝き動かすのだ。それにまあ、医大を辞めたって看護師の免許がなくなるわけではない。このご時世だ。個人病院からも引く手あまたな上に、愛長医大にだって戻りたくなったらいつだって戻ってこられる。でも、個人の家に専属で、住み込みで看護ができるなんてこんなチャンスは二度とないだろう。と。
(あの時、愛長医大を辞めることになったからこそ、だ)
愛長医大を辞めることになったおかげで、こんな機会に巡り合えた。
ベッドに横たわりながら、部屋を見渡す。
手狭だが、寮だと思えば十分な広さの部屋だ。春馬と相部屋ということだったが、春馬は、自分はここにいないことの方が多いと言う。その言葉通り、やはり帰ってこない。いや、遅番って言っていたっけ。
(泊まり込みか……)
愛長医大で針間先生が「うがーっ、二夜連続当直!! ンだよっ、このシフト……チィッ。組んだ野郎、ド低能かよ!!」とぼやいていたのを思い出す。彼の言う当直とは、本来の業務が終わった後に病院に残り、診療時間外の急患に備えて医師が待機すること。患者が来なければ仮眠を取ったりできる。現行の労働基準法では当直は労働時間に含まれないため、手当は付いても翌日の労働時間が減ることはないらしい。
白夜は看護師なので「当直」は経験がない。「夜勤」なら病棟看護師時代に何度かあった。労働時間外で待機して一晩過ごす「当直」と、昼の代わりに夜の間に決められた時間働くという意味の「夜勤」では、疲労の種類もだいぶ違うだろう。病棟看護では、体力のある男手ということで夜勤の割り当てが比較的多かったように思う。男手と言えば、あいつは……南は、元気にしているだろうか。俺がいなくても、……ちゃんとやれているだろうか? また針間ドクターにいじめられていないだろうか。……たぶん、いじめられてるか。
あんなに泣きつく連絡も、もう来ない。
強くなったのかな、あいつ。
目を閉じると、あの日常がふっと蘇った。愛長医大の精神科外来を任されていたころ――。
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