第2話 不機嫌お嬢様が全然食べてくれないので使用人達は困っています。

 白夜が裏手の使用人廊下を暁と歩いて移動しているころ、壁を隔てた向こう側では――半円形の壁に囲まれた寝室の中央、大人が三人は眠れるだろうという大きさの天蓋付きベッドの真ん中に、小さな少女がしかめ面でうずもれていた。

伊桜いお~……おい、わがまま言ってないで食わねーと、よくならねーぞ」

 その脇には猫足のように脚の丸められた小机があり、食器の載ったお盆が置かれている。黒のスーツを着た栗色の髪の青年が膝をついて、少女に呼び掛けながらフォークを差し出す。

「この前菜、プチヴェールのミモザサラダだって。栄養価高いらしいぞ。みてみ? ほーらタンポポみたいに黄身がぽしゃぽしゃ、わぁかわいい。春っぽいし、いいなー、いいなー、……なー?」

 あやすように、料理の説明を添えている青年の名前は椋谷りょうやといった。彼に伊桜と呼ばれる少女は、差し出された銀のフォークの先にわさっと大きく盛られたプチヴェールの葉を目の敵のようにしてじっとにらむと、

「やーっ!」

 と、叫ぶ。薄桃色のひらひらした寝間着ネグリジェの袖から出た両の手をぎゅっと握って。大きく開けた口は、勝手な侵入を拒むよう、すぐに真一文字に引き結ばれた。

 椋谷がため息をつくと同時に、ぐー……と、彼のおなかの虫が鳴いた。

「……りょう兄ぃが食べればいいじゃん……」

 気まずくつぶやく伊桜に、椋谷は弱ったように笑う。

「……これは俺ンじゃなく、伊桜のなの」

 伊桜が食べ終わるまで、この屋敷の使用人である自分の昼食はいつもおあずけなのだ。もちろん、まかない料理はこんなに豪華なものではないが。

 伊桜に食べさせるのには、本当に苦労していた。でも、病気でただでさえ栄養を必要としているのに、残してばかりではいけない。

「ん、じゃあスープぐらいなら飲めるだろ」

 椋谷はそう言って食器を持ち替え、丸いカップを両手で包み込むようにして温度を確かめる。

「まだあったかいぞ。伊桜はエビ好きだろ? 一口だけでも飲んでみろ。そしたら勢いでいけるかも」

「ん…………………」

 長い沈黙。にらみ合い。

「ひ、と、く、ち、だ、け」

「んんん………………」

 耐え兼ねたかのようにその沈黙を破ったのは椋谷の腹の虫だった。ぐー……とまた鳴く。その音にさすがに諦めたようにして、「………………わかった」と、伊桜は頷いた。両手を差し出し、スープカップを受け取る。

「いい子だ」

 小ぶりのさくらんぼのような赤い唇を縁につけ、こぷ、と一口。

「う……う、うえ……ごほっ」

「どうした?」

 片手を口元に当ててうずくまるように俯く伊桜。椋谷はあわてて背中をさする。

「大丈夫か?」

 波打ってこぼれかけたスープカップに手を添える。白手袋が器の縁を伝う汁を吸った。伊桜を見れば、金糸のように細く長い髪の毛が数本、濡れてきらめきながら唇に張り付いていた。真っ新なハンカチを手に取って、優しく拭いてやる。

「もう、やっ。食べたくない……。こっそり……椋兄ぃ、食べちゃってよ」

「それじゃ、だめなんだよ」

 伊桜に負けないくらい、椋谷も弱り声だ。

「ほらっ。春から、中学生になるんだろ。そしたら、登校も再開して……」

「いいよ、どうせ、行けないもん」

 椋谷は伊桜の手の上から、今度は両手でカップを包む。

「食べなきゃ、行けないかもな」

「うー……」

 むせたからか、そうでないのか、涙目でうなる。

「でも伊桜は……食べないよ……無理だよ」

「じゃ、病気が治らなくて死んじゃうぞ」

「伊桜、死ぬの?」

「そうだ」

 断定し、椋谷は続ける。

「そして、伊桜がちっとも食べないと、俺もちっとも食べられないだろ? だから、俺も餓死する」

「一緒に死ぬの?」

「そうなるな」

 蝶が花にとまるように、椋谷は、優しく頷く。

「……じゃあ、食べなーい……」

「ばか」

 なぜか視線をそらす伊桜の頭をこつん、と、小突く。

「死んでどーするー、食え~」

「やー!」

 くすぐられたように笑いながら、体をくねらせいやがる伊桜。

 ノックの音がした。

 二人がその方を向くと同時に開くホワイトチョコレートのようなドアには、一条いちじょう勝己かつみの姿があった。クラスの中心人物のような華のある雰囲気に、上品な優等生を掛け合わせたような、いかにも申し分のない一条家の長男だ。

「あー……勝己……ちょうどいいところに」

「どうした?」

 その大人っぽさの中に愛嬌を感じさせる茶色の瞳をくりりと向けてくる。

「って……あれ? 暁は? 一緒じゃないなんて珍しい」

 椋谷の呼びかけに、勝己は自分でドアを閉めこちらに歩み寄る。一人部屋にしては広すぎて、声が届かない。

「暁達はもうすぐ来るよ。新しい使用人さんと一緒にね」

 明治時代から続く一条グループの跡取りである勝己は、五代目である祖父・義己や、六代目の父・正己に付いて回らされていて、歴代の後継者の宿命通り、多忙を極めていた。

「暁は先輩として、今日入ったその子に教えることなんかがいろいろあるみたいだから、おれは邪魔にならないように先に来た」

 椋谷は、そういえば自分も使用人になったときは年下の暁に厳しくさんざん躾けられたなと思い返した。それで伊桜や勝己に対してきっちり敬語を使ったこともあったが、椋谷の場合は、気持ち悪るがられて結局なあなあだ。

「伊桜ー、調子はどうだ?」

「ん」

 伊桜は澄ました顔で、減っていないスープカップを勝己に見せる。

「またごはんいらないってさ」

 椋谷はそれとなく場所を譲って、後ろに下げていた椅子を出して勝己に座らせた。自分はその脇に立つ。

「んー……、そうかぁ、世界の高木シェフでもダメなのか……。手厳しいな伊桜は」

「おいしく……ないもん!」

 べーと赤い舌を見せる伊桜に、椋谷は横から「こらっ」と手刀を振り下ろしてやる。伊桜は大げさに勝己の影に隠れる。

「また違うシェフ呼ぶのか?」

「そうするしかないだろう。伊桜の口に合うかどうかが大事なんだし」

「でもよ、同じなんじゃないのか? 高木シェフも、前のピエールなんとかシェフも、世界に認められた一流シェフなんだろ?」

「好みの問題もある」

「偏食と同じで、甘やかすばかりじゃ、食べられるものもどんどん減ってく一方なんじゃないのか。栄養バランスは完璧なんだし、だったらあとは頑張って食べるしかねーよ」

「とりあえず、あと一人だけ試してみよう」

「ふーん。一条家のエンゲル係数が、かつてこんなに高かったことがあっただろうか。いや、ない」

 椋谷の言い回しに、伊桜がクスリと笑う。

「伊桜は笑ってる場合じゃなーい。って、意味わかってないだろー?」

 勝己に柔く頬をつねられて、伊桜は身をよじって逃げた。ひっくり返しそうになったスープカップを「おっと」と椋谷が受け止め、なんとか伊桜の布団は汚れずに済んだが――

「さ。椋谷はもう食事をとってきていいから」

「……別に、俺は構わない」

 椋谷は、受け止めたスープでべたべたのひたひたになった手袋を外す。

「そう言ってくれるのはありがたいけど、でも、とにかくもう行きな」

「……」

 主である勝己に指示するように言われては、使用人である立場上椋谷は逆らえない。だが、時間がかかってもいいから、伊桜に自分の手で食べさせてやりたかった。

 その時ノックの音がした。勝己が振り返らずに「おー」と返事をする。

「失礼します」

 声の主は、暁だ。黒の髪と同じ色のスーツ、若々しい外見とは裏腹に、ゆっくりと一礼する様は、まるで熟年の執事のよう。今年で二十二になる彼は、一条家に仕える家系である矢取家の一員で、そのしきたりに従い生まれてこの方ずっと一条家に仕え続けてきた。

「暁、今日はさすがに作りなおしてもらおう。ここのところ、食べてもひと口ふた口とかで、本当によくない」

「そうですか……」

 暁は勝己から視線を伊桜に移し、

「伊桜お嬢様、お口に合いませんでしたか?」

 ベッドの近くまで寄り、その脇で膝をついた。

「ん……。食べたくないの」

「どんなものなら召し上がれますか?」

「……ゼリー」

「それじゃダメだって伊桜」椋谷が口を挟む。「なー頑張ってもう少し栄養価のあるものにしとくれ。甘い物はダメー」

「む……だって、食べたくないし」

「病気治すために頑張ろう、な。無理とかいやとか言わない」

「じゃーあっ、どんぐり味のイベリコ豚のソテー! はちみつ味の熊の右手煮! 今すぐここに持ってきて」

 意地悪く挑発的に言い放つ伊桜。暁は動じず、

「どんぐり味は叶えられないかもしれませんが、イベリコ豚は国内の専門店を当たればなんとかなるでしょうか……。でも熊の右手は、すぐには難しいですね。北京まで仕入れに飛んでも、ご夕飯までに間に合うかどうか」

「おまえなあ……真剣に言ってんのか」

 飛ぶって、飛行機で隣国まで買いに走るということか。椋谷は呆れて――伊桜にも暁にも呆れて、また割って入る。だが迎え撃つ様に、伊桜は笑った。

「無理なの? じゃあ、伊桜も無理だもーん」

「……ふざけやがって」

 椋谷の中で、何かがはじけた。

「伊桜! わがままもいいかげんにしろ! 本当に死にたいのかよ!」

 はっきりと怒気を含める椋谷に伊桜が一瞬泣きそうな顔になり、「だってっ、なにも食べたくないんだもん! 無理なんだもん! なんで、伊桜が無理っていうと、わがままっていうの!?」そして、布団をかぶって顔を隠してしまった。

 勝己がふうとため息をつき、それにつられて暁が責めるように椋谷を叱る。

「……椋谷さん、お嬢様にそのような口の利き方は改めてください」

「きちんとした場所ではそうするって」

 慣れたように聞き流す椋谷。暁も、言葉遣いが原因ではないことぐらいわかっていた。

「椋谷も、おれたちも、伊桜のことを心配してるんだよ。わかるだろ、伊桜?」

「……」

 勝己の呼びかけにも応じない。

「おーい、伊桜~?」

「……」

 とうとう、黙り込んでしまった。その場の全員が途方に暮れる。なぜ、こうなってしまうのか。伊桜は病気で、体力もなく抵抗力も弱い。どうにか食べさせなくてはいけないのに。

「あの……」

 そこに、突如として投げ込まれた聞き慣れない声――その声に一斉にドアを振り返る。開けっ放しになったままのそこには、不思議な青年がおっかなびっくり立っていた。

「ベッドにいらっしゃるのは一条伊桜さん、ですよね」

 彼の恰好はちょっと変わった――「白色の」スーツに、対して襟やネクタイ、ボタンなどの装飾は黒く、そして髪も深い黒色で、黒と白との対比が目に鮮やかで――

「カルテによると伊桜さんは、毎日熱が出るということで強めの解熱剤を常用されてみえますから、肝臓がやられて、食欲がないのだと思います」

 彼は話し始めるともう慣れたペースでベッドまで近づいて、手に抱いていた紙カルテの中の看護記録と書かれたページにペンを走らせる。

「それは、仕方のないことで、無理もありません」

 彼の存在に皆が戸惑う中、ベッドの中で静かに、しかし確かに息を呑む気配があった。

「……わがまま、じゃ、ないもん……」

 震える声で、そう細く漏らす。

「はい。わがままなんかじゃありませんよ」白いスーツの青年は肯く。「よく耐えて頑張ってますね。まずは担当の先生に伝えて、別の方法も考えてもらいましょう」

 もぐりこんだ伊桜が、布団を揺らしてこくりと頷く。

「それでも、毎日ほんの少しずつでも食べているようで、なかなか感心ですね。伊桜さんがこれだけ頑張っているのですから、きっと病気もよくなりますよ。それにこれからは、僕がついていますから、もう大丈夫」

 その白黒の青年は、そう言ってにっこりとほほ笑んだ。布団の隙間からそれを見ていた伊桜は――

「……っく、ひっく、うわあーん」

 涙がぽろぽろ、ぽろぽろ……。止めようと思っても、堰を切ったようにあとからあとからあふれ出てきてしまう。伊桜のその反応に、白スーツの彼は一瞬驚いたものの、すぐに慈愛に満ちたまなざしで、その様子を見守る。食べないの一点張りで、ずっと頑なだった伊桜が、こんなにも弱々しく涙を流して、縋っていることに、椋谷も暁も、呆然と立ち尽くしていた。

「あの、君が?」

 勝己の問いかけに、白夜は伊桜の背中を撫でながら答える。

「申し遅れました。本日よりこちらでお世話になります、加藤白夜と申します。一条家の方のお手伝い兼、看護師として呼ばれました」

 伊桜の泣き声が響き渡る室内。

「お手伝い兼、看護師か……」

 椋谷は、力が抜けたようにつぶやく。「なるほどな」

 白夜が彼の声色の意味を考えるより先に、暁がつかつかと進み出てきた。

「か、看護師である前に、あなたは一条家に仕える身です。伊桜さんではなく、伊桜様、または伊桜お嬢様とお呼びするように」

「えっ! あっ、はいっ」

 すごい形相で睨まれた。顔の赤い彼に、白夜は慌てて頭を下げる。

「申し訳ありません。失礼しました」

「私に対してではなく、伊桜様に謝罪してください」

「――はい。も、申し訳ありませんでした、伊桜様。あの……?」

 白夜が訊ねても啜り声を止められず返事ができない伊桜に、勝己が、困ったようにほほ笑んで言った。

「いいよ。ごめんね、おれからお礼を言うよ。ありがとう」

 白夜は会釈を返したが、勝己はちらと視線を外した。白夜は無意識にその先を追い――椋谷と静かに目が合った。でもすぐに視線を落とされた。――沈黙。

「あの、すみません?」

 白夜は椋谷の顔を覗き込む。伊桜の前に、立ち尽くしている彼。

(あれ……? 説明不足だったかな)

 白夜は「では、食事のこと、僕からざっと伊桜様にお話ししましょうか?」そう言いかけると、勝己が首を横に振った。

「ううん。予定通りでいい。さ、移動しよう」

「えっと……そうですか。でも、食べられるもの、ご夕飯にも間に合うかもしれないですよ?」

 言いよどむ白夜だが、

「いいから、ね?」

 勝己の優しい口調には、しかし反論を許さぬものを感じた。白夜は、もどかしくなって伊桜の方を見た。俺はもっと役に立ってあげられるのに、このままだと引き離されてしまう。苦しみから解放された伊桜が白夜に一言「ここにいてほしい」と言えば、みんな分かってくれるだろう、と期待を込めて。

 だが伊桜は、いつの間にか乾いたまつげを翳らせ、目を逸らして言ったのだった。

「出てって」

 そうして彼女が、白手袋の外れた椋谷の手を握るのが、視界の隅に映った。白夜が何か言葉を言うより早く、勝己が手招きする。「さー、こっちだよ」

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