第3話 優しくなりたい看護師くんはしかし鈍感のようです。
伊桜の部屋を後にして、廊下を歩き進んでいく。ホテルのように長い廊下だった。白夜は押し黙って後に続いていた。
お嬢様に拒絶されてしまった。
居心地が悪くて、ずらっと飾られている絵画を眺めて歩く。壷の前を通ると花の香りに一瞬包まれた。嗅いだことのない紫の花の濃密な匂い。白夜は密かにふうっと息を吐く。
(俺、何が悪かったんだ……ろ)
暁からは最初に注意されていた。「伊桜様はとても気難しい人だ」と。確かに、本当、そうなのかもなと白夜は思った。専属看護師をつけるほどだ。みんな困っていたのだろう、と。でも、だとするとこの空気の重さはいったい何なのだろう。じっと息をひそめて注意を払われていて、こちらが注意を向けようとしても誰もいない。黙りこくった森の中を歩くみたいに。そこにはただ気配だけがあった。なんだろう、この重い空気は。拒まれているのは、どうやら伊桜からだけじゃないようだった。
「白夜くん、その、すまないね。みんな、今まで伊桜のためにあれこれ考えて、走って、必死だったから……」
横を歩く勝己がそう言って白夜に視線をくれた。
「そうですよね。それなら原因もわかって、もう大丈夫ですね。よかったですね」
白夜はなんだかほっとして、にっこり笑って言った。伊桜が泣いて、そして、追い出されてしまって。だからこんな空気になってしまったのだろう。
「みなさんのお役に立てて嬉しいです。いや、あはは、伊桜様は、本当に気難しいお方ですね! 僕ももっと頑張りますね!」
白夜は違和感を気にしないつもりで、自然体を意識して足音を立てて歩いた。すると――先を歩く暁が、振り返って言った。
「何がっ、気難しい、ですか!」
その声にははっきりと敵意をむき出しにした怒りがこもっていた。
「えっ?」白夜は全身が硬直するのが分かった。
「えっ、じゃないです!」
ついに牙を向いて襲い掛かってくる。気のせいのはずがなかった。気難しいと言われた伊桜だけじゃない。ここにいる人たちが、白夜に対して、何か敵意を向けている、と。白夜は鼓動が早くなった。自然体でいようなどという意識はとっくに消え去っていた。
「ご、ごめんなさい! 僕、なにか……?」
「なにか? ですって?」
威嚇しながら白夜の周囲をゆっくりと回るように、暁は息を吐く。
「え、えっと……」
「そもそも謝り方がなってませんね。大変申し訳ありません、と、言い直してください?」
「た、大変申し訳ありません……!」
勝己は、あちゃーと苦笑いを浮かべていた。
(一体――……何だ……俺、なにか、してしまった? 待て待て待て……)
白夜は血中にアドレナリンががんがん流れていくのを感じた。心拍数、血圧、上昇中。
とりあえず、やはり自分が何かミスをして怒らせてしまったらしいことだけはもうはっきりした。でも……なんだ……? 俺、何かした……? 看護師として間違ったことは言っていないはずだ。結果だけを見れば大切なお嬢様を泣かせてしまったことにはなるけれど、でもそれだってやっぱり、気持ちが楽になってほっとして出た涙だと思う。それは間違いないのに。いや、出てって、って言われたけど。でも……でも、なんでだ? あ、もしかしたら暁さんは、俺が伊桜様を悲しませて、泣かせてしまったと思っているのか? とにかく、今この空気をなんとかしなくては――白夜は口を開いた。
「あの、あのですね、伊桜様は、悲しくて泣いたんじゃないんですっ。追い詰められていたんだと思います! ただでさえ毎日熱が出て弱っているのに、望まないものを無理やり食べさせられたら、精神的に参ってしまいますから――」
その時、正面から、
「黙れ!」
遮るように、暁の感情を載せた重い咆哮が飛んできた。白夜ははっと思わず口をつぐむ。
何がここまでこの人をこんなに逆立たせるのか。
ただ、黙れと言われた通り――自分がこれ以上口を開けば、事態がさらに悪くなるような予感だけはあった。ここまで鋭い敵意を向けられたことに、恐怖が襲ってくる。でも。
「その……大変、申し訳ありません……。……間違っているところは、今後直していきますので――どうか教えてもらえないでしょうかっ!」
自分が間違っていたなら、謝りたい。そして間違っているところは正したい。その覚悟をもって、ここに来たから。だから白夜は頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。でも、でも……お願いしますっ!」
唐突な怒りに、唐突な謝罪。
その光景は屋敷では稀にみる荒れ模様なのであろう。いったい何事かとハウスメイドや警備員が遠巻きに心配そうに様子を窺っている。
白旗を掲げ全面的に教えを乞う白夜に、すでに暁は毒気を抜かれていた。それでも、あれだけぶつけた手前、言葉が出てこない。そんな様子を見かねて、とりなすように勝己が割って入る。
「いや、俺は、白夜くんは言うほど何も間違っていないと思うよ」
意外なほど朗らかな声。白夜は顔を上げる。栗色の髪の先一本一本まで育ちのよさが行き渡っているような勝己に、目を見つめられてゆっくりはっきり優しくそう肯定されると、なんだかこんなにちっぽけな自分は何を焦ってこんな大きな声を出していたんだっけ? と世界が切り替わるような心持ちになってしまう。そもそも、お仕えすべき勝己様の前で、使用人同士がこんな衝突をしていることが何よりも問題だろう。でも勝己はそんな、俗世から離れた面を外すように、少々いたずらっぽく笑って続けた。
「というかさー、間違っていたのは俺達だよね」
暁は、弾かれたように背を向けた。その背に向かって「な、暁」と、勝己が呼びかける。
「……」
沈黙が返ってくる。
「あー。暁が無視したー」
「かっ、勝己様!」
その瞬間叱られた仔犬のように反応した暁は、勝己の元へ。
「違いますっ、違いますっ!! 勝己様を無視するなんて、ご、ご、ごめんなさいっ」
(あれ、大変申し訳ありませんでしたじゃないの?)
白夜は思ったが……さすがに口には出さない。
「じゃあ、ちゃんと返事して。ほら、白夜さんにも謝って」
「――はい」
暁は泣きそうな赤い顔で、取るものも取らない勢いで白夜の前に正面から向かい合うと、
「……すみません」
踵を合わせ、迷うことなく殊勝に頭を垂れた。染みついた美しい所作で。
「あっ、いえ、そんな、僕に謝る必要なんて――まったく、これっぽっちも!」
そもそも白夜のために謝るというよりも、主人である勝己の意思に従うために謝っているようであったが。先ほどはなぜ怒ったのかが知りたかった。そして、可能ならば、伊桜が自分を追い出した理由も併せて教えてもらいたかった。そうしないと、また同じことを自分が繰り返してしまう。しかし、暁はもう、恥じたようにくるりと背を向けてしまった。
「では、
切り替えるように、そう告げられる。回答は得られなかった。白夜は、やはりそろそろ引き下がるべきなのかもしれないと自信を無くし、「はい」と頷いた。いくら新人とはいえ、教えてもらう場所やタイミングはわきまえるべきであり、一条家の方の目の前では控えなくてはならないだろう。今の状況を覚えておいて、何が悪かったのかは後で個人的に聞きにいこう――。でも状況って、どこまで覚えておけばいいんだ? そう考えるとなかなか大変だ。触れたらまた怒らせてしまうかもしれないし、教えてもらえるかもわからない。これから、どこに地雷があるのかわからないまま仕事をしなくてはならないのかと思うと、行動するのが怖くもある。
だがそのとき小さく、
「……さっき勝己様がおっしゃった通りですので」
背中越しに、そう声が聞こえた。白夜は顔を上げた。暁が答えをくれたのだった。
(さっき……?)
いや、勝己がヒントをくれていたという。
「こちらが瑠璃仁様のお部屋です。ご挨拶しますよ」
しかし暁は白夜に考える時間は与えず、素早く二回ノックする。「瑠璃仁様、失礼いたします」その声はもう柔らかく、さっきまでの怒気など完全に引っ込められていた。初対面のお邸の住人の御前に出るとあっては、白夜も無理やり意識を切り替えた。ドアの向こうから返事はない。勝己が「入るねー」と大声で呼びかけ、押し開ける。途中から暁が引き継ぐようにして、木製の厚みのあるドアをぐっと押して開ける。
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