第28話 優しいってどういうことなのかなんだかわからなくなってきました。

 愛長医大に伊桜が入院してから、もう半月が経過する。具合が悪くなっていく伊桜に、白夜も今では暇を持て余すほどではない。

(こんなことを、望んだわけじゃないけれど……)

 そういえば最近、ここで椋谷を見かけない。交替で邸に帰って仕事したりしていたが、看護は自分が、邸の仕事は椋谷の方が専門だ。とはいえ、今の伊桜の状態をわかっていて放置するなんて、何かあったのだろうか。

 薬が効いたか、伊桜は今はよく眠っていた。今のうちにできることをやっておこうと白夜は思案する。ポカリは冷蔵庫にまだあるから買い出しの必要はない。服も、さっき熱がぐっと上がって発汗がひどかった時に着替えさせたばかりだ。洗濯は、病院のコインランドリーで自分がやるより、一条邸の専門者に渡してやってもらう方が効率いい。伊桜の熱は少し落ち着いてきたが、それでも三十九度はある。氷枕を確かめると、中の氷はもうほとんど融けているようだった。取り替えるか。頭を優しく持ち上げて、枕を引き抜く。幸い、それくらいでは起きなかった。よし、ナースステーションまで軽く歩こう。

「あ、加藤くん!」

 伊桜の病室を後にして廊下を歩いていると、エレベーターの前で呼び止められた。見れば、白衣の男性が笑顔で手を上げる。

「若槻先生」

 白夜は足を止めた。若槻ドクターだ。

「お久しぶり。いや、ちょくちょく見かけてたんだけどね」

「そうだったんですか」

「うん。僕の患者、特室の人多いし」

 カルテ出しを代行したときにそのことには気付いていた。やっぱりなと思う。

「それは……遠くて、大変ですね」

 最上階の特室だけは、金額に応じて各科さまざまな患者が集められている。

「まあねー。いや、運動になるからいいけど」

 若槻は苦笑いにも華がある。掻きあげた髪の無造作にみえるうねりは、パーマだろう。忙しい中でも身だしなみに気を遣っているのがわかる。とりわけ女性からの人気が高いのも頷ける。

「VIPってちょっと、緊張しちゃうのがシンドイよね」

「緊張?」白夜は聞き返す。

「だって、ワガママな患者が多いだろう? その要求に応えないと、医者一族でもない根無し草の俺みたいな医者なんて、ちょっとしたコネとか圧力ですぐどっかに飛ばされる」

「そうなんですか……?」

 そういう世界もあるのか。でもそれならどうしてそんなにたくさん抱えているのだろう。良い面もやっぱあるのかな。そういえば、若槻先生が助教授に推薦されたって南が言っていたっけ。

「あの、聞きたいことがあるのですが」

「どうぞ?」

「一条瑠璃仁様は、重度の境界失調症、ですよね?」

「んー……」すると若槻先生は、渋い顔になって歯切れ悪く言う。「まあ、ねえ……」

「見たところ連合弛緩もあるし、幻聴も妄想もけっこう酷いものでした」

「正直、重度といえば重度だね」

「症状への投薬はされていないようですが」

「ご本人とご家族の同意がね、なかなか得られなくてね」

 若槻はそう言って悩むように眉間にしわを寄せる。

「瑠璃仁様は、今ある思考力はもちろん、妄想や幻覚の症状さえも、全部自分の研究に必要なものなんだって言って治療を望んでいないし、お母様はお母様で、そもそも自分の息子は精神病ではない、って思考回路でさ」

 病気じゃないんだから治療なんて必要ない。幻聴? 普通の人だって疲れやストレスで空耳が聴こえることはあるんでしょう。妄想? 年頃の少年が夢を追いかけているだけです。羽をもがないでやってくださいまし――ってね。若槻は愚痴を言うようにぼやいた。

「俺もねー、いやあなたの息子さんは完全に病気です、治療の必要バリバリありますよ、ってはっきり言えたらどんなに楽かって思うんだよー。彼の妄想症状は結構危険な領域まで来てる。俺だってさ、あんな状態の患者、さっさと治療したいよ」

「言わないんですか?」

「知りたくないって顔に大きく書いてあるからね」

 若槻先生はそう言って、あっけにとられている白夜に続けた。

「自分が医者だからと言って患者様のご意思やご家族のお気持ちを無視して、なんでもかんでも現実を突きつける……って、それは医者の思い上がりなんじゃないかなって俺は思うんだ。医者は病気を治すことしかしてあげられない。健康であっても、病気と共にでも、生きていくのは彼らたち自身なんだ。現状、彼の行動の全責任は、一条の方がちゃんと取ってくださっている。瑠璃仁様の妄想を満足させるために、研究施設をまるごと買い与えているんだよ? そりゃ妄想なんだから、成果なんか上がるわけがない。でも、何年続けても、一生妄想して過ごしたってご子息が食いっぱぐれることだけは決してないんだから。俺なんて一人の医者でしかない。本人や家族の意に沿わぬことをやった結果の責任を、どこまで取れるかわからない。病気の事実はどうあれ、彼らは今のままで満足している。それが何より大切なことだとは思わないか?」

「――あ、はい……は……え?」

 去っていく若槻を見送りながら、白夜はわけがわからなくなるのを感じた。思わないか? 思う……いや、思わ……ない……? いや、大切だとは思う。自分に足りていないのはそこだと思う。でも、それだけが大切だと言われると、違う気がする。

 「患者も人間だ」と春馬に言われて、目が覚めたことを思い出した。病気別のベルトコンベアに載せられた病人として一括りにして仕事しようとしていた自分に気付かされて。あのとき自分は、瑠璃仁の悪意に踊らされ、恐怖して、尻尾を巻いて逃げた。それを、患者の悪意に傷つくのは、人と人とが触れ合ったからだと言い換えられて、救われたと思った。ああそうか、そんな風に向き合えていたのか自分は、と誇らしく感じた。患者も人間、看護師も人間。そうだ。俺はその意識が足りないんだ。って。

 だけど――。

 氷水を取り替え、伊桜の病室に戻る。最近、ずっと伊桜につきっきりだった。瑠璃仁は……そういえば、どうしているだろう。若槻先生の話を聞いて、急に瑠璃仁のことで頭がいっぱいになってきた。やはり治療が必要なレベルで重症だったこと。そして、若槻先生の言った言葉。医者は、治療することしかできない。病気と共に生きていくのは、彼ら自身。

 俺の目指していたもの――人が人を癒すこと。それを意識して、何より大切――に、思おうとしていた。意図的にちゃんとそう思わないと、俺は勝手に傾いていくから――。じゃあ俺は、俺の無意識は、じゃあいつも一体どこへ行こうとしているんだろう? 意識していないと、俺は何に向かってしまうのか? 俺が、自分の本意ではないにせよ、役に立ててきたことって――なんだ?

 さっきの違和感の正体が分かった。

 患者も人間、看護師も人間――

 じゃあ、医者も人間……なのか?

 伊桜の病室の扉を開けると――そこには見慣れぬ人物が待ち構えるようにしていた。

「あ、勝己様!?」

 白夜が入室すると、勝己は立ち上がる。

 今日も仕事のはずだが、どうしたというのだろう。電話をくれれば自分が出向いたのに。

 勝己は鬼気迫る形相で、白夜を部屋の外に連れ出す。

「どっ、どうしましたか?」

「白夜くん! 家にすぐ戻って! 送るから!」

 邸で何かあったらしい。

「瑠璃仁が、いま、大変なんだ」

「え?」

「みんないなくなった」

 そういえば最近椋谷も見ないが、勝己がいつも連れて歩いている暁の姿もない。

「瑠璃仁が連れていった」

「どこに……ですか?」

「研究施設にだよ! なんか、この世の真理を見つけたとか言って、自分で作った薬を使用人達に飲ませてるみたいなんだ……!」

「えええっ!?」

 降って湧いた不安が、危機として急速に現実味を帯びていく。

「白夜くん、お願いだ……俺……どうしていいのかわからない……一緒に来て」

 勝己の狼狽の様子からいって、何かとんでもないことが起きているような気がした。

「じゃ、じゃあ早く、若槻先生に連絡を!」

「いや……無意味だよ。あの先生は、瑠璃仁が今やってることなんて昔から知ってる……知ってて何もしないんだ。むしろ……協力しているくらい。瑠璃仁がそう望むから」

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