第8話 人間やめたら、四次元も見えるようになるとのことです。

 そこまで考えた時、急に瑠璃仁が声を上げた。

「あっ、すごい! 影が浮いてる。へんなの。そうそう、つまりそうやってぺらぺらの方から光を当てるんだよ……! って、これは僕の幻視なのだろうな。君にはまさか見えないよね」

 さっきと同じように、影は瑠璃仁の手の下、芝の上にぺったりとできているだけだ。浮いてなどない。

「見えません」

「残~念。僕にはこんなにくっきり見えるんだけど。ああ、君にもこれが見えたら、説明がしやすいのに」

 なんだかファンタジーの世界の住人と会話しているみたいだ。いったい、彼にはどんな風に見えているのだろう。……見えることが、そんなお気楽で幸せなものじゃないことは、看護師としてわかっているけれど。

「大丈夫です。想像できました」

 ぺらぺらの影を切り取ることができたら、太陽に並行になるように倒してみればその影の影は線になるだろう。イメージとして、薄っぺらい紙とか下敷きで想像すればいい。細い細い線の影ができる。その細さを、面積が無いものとみなせば、つまりそれは――

「答えは線です。一次元です」

 長さだけの線の影ができる。一次元だ。

「おや。お見事」

 瑠璃仁は嬉しそうにそう賛辞を贈る。

「じゃ、一次元のその細い影を切り取って、今度は頭から光を当ててみるとどうなる?」

 聞かれると思った。白夜は自信を持って答える。

「点になります。ゼロ次元の点に」

 こちらは針で想像した。線のように細い細い針の頭を太陽に向ければ、点のような影になる。

「素晴らしい、大正解です。だいぶわかってくれているようですね。じゃあ、ここからが肝心だよ」

「?」

 瑠璃仁は、勢いを殺さぬまま畳みかける。

「三次元の手の影が、厚みのない手形の影=二次元で、その二次元の影をぺらぺらの端っこから太陽にかざしてみると、面積のない線の影=一次元ができて、さらにその細い影を頭から太陽にかざしてみると、長さのない点の影=ゼロ次元になる。つまり、影になると次元が一つ下がる」

「はい」

「じゃあ、四次元の物体に光を当てた時にできる影は?」

 四次元の影? 四次元の影――は、

「四次元の一つ下の次元……?」

 あっ!!

「そうか……三次元の形になるのか!」

 影になると次元が一つ下がる。すなわち四次元の物体の影は、三次元の形をしているのだ。

 瑠璃仁は、小さく拍手をしてくれた。「正解」

 そして、手をまた出す。

「この手を見て。四次元人なんてものがいたらさ、その人の手の影は、きっとこんな感じの、立体なんだよ。影なら、色は暗いだろうけどね」

 もりっと真っ黒な立体の手形が、影として浮かんでいるのが白夜にもイメージできた。

「こんな立体的な影ができるだなんて、ああいったい、彼らはどんな手をしてるんだろうね? 奇妙だね~?」

 なんだか、本当に奇妙だ。四次元人の影か。探偵アニメで、まだ判明していない犯人を黒く塗りつぶして表現するけれど、あんな感じなのかなーと考えていると。

「一つだけ君に謝らねばならないことがある」

 瑠璃仁はそう言って、タネ明かしする様に打ち明ける。

「四次元はどんな空間なのかって、答えを用意した上で問題を出しているかのように聞いたけど、本当は、僕にもわからないんだ。……それにたとえ四次元人が僕たちの前に現れても、僕たちには、彼らの姿形は四次元的には認識できない。影絵のような二次元の世界なら、僕らの様に立体の人間も、ぺったんこに見えてしまうだろう? それと同じで」

「……結局、わからないんですね。四次元」

「うん」

 そうなのか……。四次元ってなんだろう? と思って考えてみたけど、やっぱりわからないのか。でも、四次元は想像できなくても、四次元の影なら、わかるということがわかって――しかもそれは自分たちがよく知っている、三次元の形で――。でも、影から元の物体を想像するのは難しい様に、四次元の影が三次元の形をしていると言っても、そこから四次元を想像するのはすごく難しい。わからない。

「わからないんだよ。僕たちが三次元で生きている限りは、永遠に」

 意味あり気にそう言う瑠璃仁の透き通るような目がレンズ越しに怪しく光っている。

 だけど、わからないけど――瑠璃仁の様に幻覚も見えないけど――、でも、この話を聞く前と後とでは白夜の中で世界が少し違って見えた。

「だからね僕は……人間やめたら、見える気がするって言ったんだ」

 彼のその目には、何が映っているのか。

「だって、脳みそが一部壊れた僕にはまだ、僕のてのひらの影が、あそこでくるくる踊っているのが見えるんだから」

 白夜が振り返っても、そこには何もない。

「今のこれは、ただの幻覚だけど」

 ――あと一つくらい頭のネジが外れれば、閉ざされているべき異次元の扉も開くんじゃないか。

 次元の話をする前に瑠璃仁はそう言っていた。その意味が少しわかってぞくりとした。

「三次元に生きる僕たちが見ることのできない四次元は、三次元らしさを失えば見える――と?」

「その通りだよ! やるじゃないか白夜くん。そう! 肉体が三次元の箱なら、精神をそこから出してやれば、四次元を歩けるんだと僕は考えている!」

 なんだか、引きずり込まれていく。

「でも、そんなことどうやって?」

「この三次元世界での正常をクラッシュするんだよ。四次元のものは、見ることも想像することもできないんだからさ!」

 カルテを見た時に、この薬の組み合わせでは境界失調症の増悪に繋がるのではないかと思ったことを思い出した。

 まさか……?

 あの薬の組み合わせは、あえてやっているのか? 医師は――若槻先生はなにをしているんだ?

 これ以上は危険な気がした。

 いけない。

 心のどこかで、自分を止める声が聞こえる。

 なんだこれは。おかしい。クラッシュ? ばかな。これ以上は、踏み込まない方がいい。

 見えない手に、自分をつかまれ、どこかへと引っ張られていく。さあ、異次元の扉を開きましょう! 僕と一緒に! 遠く、声が聞こえた気がした。

「君も、見てみたいかい――?」

 瑠璃仁が、左手を差し出しかける。何かを握っている。目を逸らせない。

「い、いや……」

 後ずさりする。

「最初は誰でも怖いさ。でも、すぐに目覚めるよ」

「そんな――」

 瑠璃仁は虚空を見つめて笑いかける。

「少し、……気持ち悪くなるだけさ。注射、くふっ、シリンダーも光り、水槽の声……ミリかなずっと忘れられない断面図が藪の中、春を突き抜ける中性子線がにごり絵だから。生まれ変わるのは透明だよ。さ、静かに……」

 ぞっとした。

「ごめーん、そろそろ会議に出席しなくちゃいけないからー! もう行くね!」

 背後、遠くから声を掛けられて我に返る。クリアな声。そこには勝己がいた。その隣には、控えるようにして暁も。

「僕もそちらへお供しますので、何かあれば春馬さんに聞いてくださーい!」

 二人は連れ立って、部屋に戻っていく。

 俺も、今、ここを出よう!

「ぼ、僕も、僕ももう行かなくちゃ!」

 狼狽を隠す余裕もなかった。あからさまだろう。それでも、取り繕っていられない。一刻も早く――

「そっか。残念」

 瑠璃仁はニッコリ笑って囁いて、左手をポケットに戻した。そして、ため息を吐いて言う。

「そろそろ、僕も読書を再開しようかな。君の邪魔ばかりしていてもいけないし」

「いえ……」

 白夜ははっきりしたようなぼやけたような頭を切り替えながら、姿勢を正して礼をした。

「お……おも、面白い話を聞かせていただき、ありがとうございました」

 瑠璃仁が途中から、思考が飛躍するまま話していたのは確実だ。でもどこか魅力的で、幻惑に飲み込まれていくような、そんな感じがしてしまった。興味を持ってじっくり、話を聞きすぎた。

「こちらこそ。また聞いてね」

「はい」

 立ち上がり、そこを離れる。

 瞬間、ぎくりとした。

 右耳を通る――生温かな感触。

「ぎゃっ!」と声を上げて耳に触れる。とろりとした感触があった。なんだ! なんだこれっ。まさか、脳が耳から流れて……? え、俺にも――まさか幻覚が……? 嘘だろう……? 話を聞いていて、俺までおかしくなったのか? そんなことありえない。でも……。

 だが、振り向けばすぐ背後に瑠璃仁が立っていた。その手には小さなスポイトを持って、いたずらっぽく笑っていた。

「ふふ。びっくりした?」

「……っ」

「いつでも待ってるから」

 そう言ってもう一度スポイトを押して、ビュッと液体を飛ばす。液体は地面に生えている芝にまっすぐ当たって、つぶれた透明のゼリー状のものが残った。中身が空になったスポイトを、瑠璃仁は悠然とポケットにしまう。心臓の鼓動がバクバクと鳴って治まらぬ白夜に素知らぬ顔で――いや、見透かしたような一瞥をくれ――瑠璃仁はもう我関せずと読書を開始する。白夜は、どんな顔をしたらいいのか、なんて返したらいいのかわからず、無言でその場を後にした。そうしてまぶしい空中庭園から、靴下の土も落とさず現代風の部屋に上がる。そのまま突っ切って、出口へ。廊下に出る前に靴をつっかけ、もたつきながらもドアを抜けた時、――どっと息を吐いた。

 はあ――、はあ。

 息を整える。

(何を、するつもりだった……んだ……俺に……)

 何も、されていないよな?

 幻覚も幻聴も、ない。

 ――ないよな?

 大丈夫だよな、ここは、ここだよな?

 俺は俺か?

 渡り廊下の視線の先の方に、勝己と暁の後ろ姿が見えた。もっと先の奥部屋からは、伊桜お嬢様の元気そうな声が聞こえる。椋谷と、何を話しているのかまでは聞き取れないが――。

 よたよたと、壁伝いに歩く。地を踏みしめながら。この世界にちゃんといる感覚をこわごわ確かめながら。花の浮かぶ美しい川で川遊びをしていて、そこが天界だと気がついた時には閻魔様の御前で――あとはもう命からがら、帰ってきたような――そんな心地だ。

 落ち着いてきて、今立っている場所がたしかに現実のものだと認識して安堵して、我に返る。がらんどうの長い渡り廊下に、ぽつんと一人。左手の窓の外にはローズガーデン、右手には中庭からまっすぐ生えている木の幹が。

 ――彼の幻覚、彼の妄想を目の当たりにして、どんなものかと想像していたら……

(怖く、なった……)

 自分までいつか、いや今すぐにでも幻覚が見えるようになったらどうしよう、と、あんな言葉の羅列を口から垂れ流すようになったら――と、とっさに考えてしまった。

 それくらい、彼の話を真剣に聞きすぎた。惹きつけられて、信じて、さあ次は何を理解しよう、と、無防備になっていた。

(それとも、担がれたのか……?)

 看護師としてのその失態を瑠璃仁にすかさず見抜かれ、思い知らせる様に審らかにされた、のかもしれない。

(……脳が出てくる、とか……、言った上で、俺の耳に、ゼリーみたいなのを、入れてきて……)

 ああやって脅かして、俺を試したのか?

 自分がもしこんな風になったら嫌だな、と、徐々に怖くなったこと。

 それとも、それとも――?

 あれが彼の言っていた薬品かなにかなのか? だとしたら、すべては俺の体で実験するために?

 思考が追い付かない。

 彼のことを思い出すだけで、ぎゅっと心臓が締め付けられる感じがする。

(怖い……)

 闇が深すぎる。白夜は静かに、頭を抱えて座り込んだ。

 仕事内容はさっき庭にいた渡辺春馬という人に聞くように言われていたのに、勝手に一人で出てきてしまった。

(どうし……よう……。座り込んでる場合でもない……けど……)

 医大にいた頃は、次々に運ばれてくる重症の患者や急性期の緊張の中、怒涛の勢いの患者をこちらも怒涛の勢いで迎え撃つように効率よく捌ければそれで役に立てていた。それが難しくてなかなかできないんだと後輩の南にはよく言われたけど……。でも俺は、闇に向き合えるようになりたいと思ってここに――

 なんだかまだ、耳の中に違和感があるような気がした。

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