第9話 患者は人間で、看護師も人間だよ、と彼は言いました。

 幼い記憶。長引く入院生活を送っていたあの頃――。終わりの見えない鬱屈と孤独に荒ぶ心を慰めてくれたのは、澄んだ黒の瞳が綺麗な人で――名前は白井しらい典子のりこさん。看護師だ。

 彼女の呼びかけは、春の麗らかさに似て、ふわりと温かかった。

 母親のいない俺は、その人に母親を求めていたのかもしれない。

 いつしか彼女は、自分の夢になった。

 そんな風に――母のように、傷ついた患者さんを包んであげられたら。俺は、看護師を目指したあの日、そう思っていた。

 それなのに、今の自分はどうだろう。患者を包むどころか、怖がって、疑って、あげく逃げた。瑠璃仁様を傷つけてしまったかもしれない。伊桜様にも拒絶されてしまうし。いまだにその理由も、わからないし。

(――戻らなきゃ)

 ひょんなことからこのお邸に来たわけだけど、俺はここでやるべきことがたくさんある。うずくまってないで、まずは、立ち上がって――

「大丈夫?」

 投げかけられた声に驚いて白夜が振り向くと、まろやかな紅茶色の髪をした青年が屈みこんでこちらの様子を窺っていた。

「あ……ご、ごめんなさい!」

 弾けたように反射的に立ち上がる白夜に、相手はあわてて、座らせようと肩に手をかけ軽く力を込める――

「顔が真っ青だよ。少し休んだ方がいい」

「いえっ、大丈夫です!!」

 もう、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない!

 と、そこで白夜はこの人が、庭で紹介された渡辺春馬はるまという人物だということに気がついた。とりあえず、次にすべきことを聞ける。そのことにほっと安堵するとともに、体中の力が抜けた。急に立ち上がったことの反動が加わって――

「わあ――」

 情けないくらい派手に仰向けに倒れてしまった。

「おおっと」と、そのまま抱きとめられる。「ちょっと、休みましょう?」

 にっこりと、落ち着かせる様に。

「本当、すみません……」

 ああもう、どっちが看護師だよ。

「謝ることなんてないよ。どうしたの?」

「僕が、悪いんです……僕が……」

 促されるまま、廊下の端へ寄って壁にもたれた。水を持ってこようかと聞かれたが、倒れたのは体調不良などではないと自分でわかっていたので断った。

「ごめんね。瑠璃仁さんに、なにかされた?」

「え?」

 白夜は驚いて春馬を見つめる。

「君が怯えていたようだったから、あわてて追いかけたんだけど」

 静かに真っ直ぐこちらを向く彼の瞳。一瞬の間、仕事とか、看護師とか先輩とか――消えた。

「大丈夫?」

 そこには自分を気遣い、心配している一人の人がいるだけだった。彼の瞳は、まるで一人山道を歩いていたときに、ばったり出くわしてしまった牡鹿のような、無垢なものだった。互いにはっと時を忘れるように、凛と穏やかで……純粋に澄んだ、そんな視線の交差を経て、

「僕は暁くんから、君への案内役を引き継いでいたから。何も言わずに突然飛び出していくなんて……これはなにかあったな、って」

 言いながら手すりに手をついて中庭を見下ろす。大きな雲の影になっているのか、薄青い朝のような静けさがあった。

「瑠璃仁さんは、ときどき悪いいたずらをするから。僕がついていてたしなめなくちゃいけなかったなって、反省」

 そんな春馬に白夜はあわてて首を横に振った。

「そんなことはありません! 僕は看護師なのに――」

「看護師も人間だからね。もちろん患者も」

 その言葉に白夜は口を閉じた。

 そう言われると――その通りだ。看護師とはいえ自分は人間で、精神を病んでいるとはいえ患者も人間だ。だからいろんな、人がいる。看護師だからとか、病気だからといって、人間性まで固定されるわけではない。

「僕は、瑠璃仁さんのことはよく知っているつもりだからさ。やられたね」

「そう……なんですか」

「うん」

 子供のいたずらに観念する様に、春馬は眉を八の時にひそめて笑った。きっとこの人も瑠璃仁に困らされてきたのだろう。いたずら、か。そうか。

「今度は、僕を頼ってね」

 春馬の優しさに、白夜はもう笑顔で頷いた。「はい」

「仕事のこともだし、そうじゃなくてもいいから」

「すみません」

「謝らないで。いいんだ。頼ってもらいたくて、追いかけてきたんだからね」

 そう言ってどーんと胸を広く張る。

「ありがとう……ございます」

 雲の切れ間から再び射し込む日光に、手をかざした。目をそらすように中庭の方を見れば、その光に照らされた木々の黄緑色と緑色の織り成す鮮やかさに思わず見惚れてしまう。広告に使われるモデルハウスの代表のような内観。この渡り廊下も二階にしかなくて、まるで宙に浮いているみたい。幻想的で不思議な場所だ……

「瑠璃仁様のことも――それに、伊桜様のことも――僕……」

「うん」

「さっき伊桜様を助けたつもりだったんです。でも暁さんにはすごく怒られちゃうし、椋谷さんは、なんか、落ち込んでいて……しまいには伊桜様にも、出てってって言われちゃいまして。俺、どうしていいかよくわからなくて」

「それも聞いたよ」

 勝己くんから。と。

「気張らなくていいってほっとして、涙が出ちゃったんだろうね伊桜ちゃん。ずっと、苦しんでいたんだね……」

 春馬の断言に、胸を撫で下ろす。やっぱりそこは、間違っていないのだと。でも、それなら伊桜に出ていくよう言われた理由がわからないし、そして春馬も他の人と同じ――どこか切ない顔をしている。

「いやぁ君は、ここに来たばかりなのに、すごいなあ。白夜くん。ちょっと僕、自信なくしちゃう。それにね、つまりね、妬けちゃうな、って」

 声を荒げることもなく、彼はにこっと微笑みながら、そう教えてくれた。

 自信なくす……? 妬けちゃう……?

 白夜ははっとした。

 “みんな、今まで伊桜のためにあれこれ考えて、走って、必死だったから……”

 暁が怒りを爆発させる直前、勝己はそう言っていたのだった。その言葉が伝えたかった本当の意味は……?

「そう……ですか」

 すると前方から足音がして、二人同時にそちらを向いた。

「ああ、椋谷りょうやくんおつかれさま」

「おつ」

 春馬はにっこり笑って、角を曲がって渡り廊下の方に歩いてきた椋谷と挨拶を交わす。

「これ片して、掃除の続きをしようかと」

 伊桜の食べ残した食器の載ったワゴンを音もなく押していた。

「あ、それじゃ白夜くん、椋谷くんを手伝ってあげてくれる?」

 春馬の指示に、呆然としたまま白夜は椋谷の方を向く。

「おー。さっきの看護師」

 手を挙げて笑ってみせる椋谷。でも、やっぱりなんとなく、元気がないなと思った。

「……白夜です。これから……お世話になります」

 白夜はそうさせたのが自分だと今はわかった。食事を拒み、弱っていく伊桜を救いたかったのは、自分だけじゃない。いや、今日来たばかりの自分なんかより、ずっとずっと頑張ってきたのは屋敷の人たちだ。その人たちの気持ちをまったく考えていなかった。みんながムカムカ怒ったり、嫌な気分になるのもわかるかもしれないと、思った。しかも、そのことに気づいていなかったのは、たぶん、自分だけだ。当人の伊桜さえも、あのとき、周囲の人を気遣っていたのだ。だから、白夜に出て行けと言ったのだ。そういうことだったのだ。

 暁にはこっぴどく怒られたが、椋谷からは特に何も言われていない。椋谷こそ伊桜のために、献身的に尽くしていた人のような気がする。謝りたく思った。けれど、どう謝ればいいのかわからない。謝ったところで、ますますむなしい思いをさせるだけのような気もして、黙り込む。

「椋谷だ」

 椋谷は一瞬、わずかに目を伏せたと思ったら、意を決したように白夜の目を見る。白夜も覚悟を決めて向き直った。

 俺は優しくなかった。悪いのは、俺だったのだ。やってしまったことはもう仕方がない。どうぞ俺のこと、睨んで、嫌って、ください。と。

「さっきは、サンキュな」

「えっ……? はい」

 思わぬ返しに、間が空いてしまう。

「看護師なんだろ。いろいろ、教えてくれるか? ここは病人だらけだからなー」

 白夜が頷くと、椋谷は少しまじめな顔で、何か飲み込むように何度かまた頷いている。

(あれ……)

 暁の時のようにがつんと、ではなくとも、嫌われただろうなと思って身構えていたのを、恐る恐る解く。

(椋谷さん……怒って、ない)

 それどころか……。

 白夜は、自分の胸の中に、本来当たり前のようにもらえるはずだと思っていた、期待していた喜びを、安心を、感じた。

「も……もちろん、ですっ。もちろん! はい! なんでも聞いてくださいね!」

 ここでうまくやっていけるのか、不安に襲われていた。学ぶことが多いなと、自分に足りないものがたくさんあるなと痛感していた。ちょっと途方に暮れるし、やっぱり怖い。

だが、一つ一つやっていった先、たどり着くしかない。一歩一歩、進んでいけば、憧れの“優しい看護師さん ”になれると、やっぱり思う。

(よし。頑張ろう)

 不安を振り払い、弱音をかみ殺す。意識して心を切り替える。

 小さく深呼吸。

「じゃあ、担当医に伊桜様のこと連絡してきます! すぐ戻りますね」

 白衣を翻し、携帯電話を片手に駆け足で医務室へ向かう白夜。

 長い廊下、そんな後ろ姿を見送る椋谷に、春馬が微笑みかける。

「えらいね、椋谷くんは」

「……なーにが」

 お見通しのようなまなざしに、椋谷はくるりと背を向けた。

「掃除、してくる」

「うん。いってらっしゃい」

 白夜とはまた別方向の裏手へと。

「じゃあ今日は僕、遅番だから。のんびり一人で外片づけるよー」

 春馬は微笑んだまま、外へ歩き出す。

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