第10話 患者の心に寄り添う看護師でいたいのにな。

 丸みをイメージさせる多角の壁、飾り模様のある壁紙、レース細工のカーテン、女の子らしい装飾の施された、日当り良好の伊桜の部屋。

「失礼します」

 白夜はそう言って中に入った。中央の大きなベッドには、伊桜が力なく寝ていて、静かにこちらを見ている。

 担当医に電話で先の事情を説明したところ、無事、伊桜の点滴指示をもらうことはできた。それで当然早めの処置を、と考えまっすぐここへ向かったのだったが――先ほど、伊桜に出ていけと言われた手前、また拒絶されるのではと少しばかり緊張していた。その時は自分の未熟さを素直に謝ろうと思う。

「おかげんはいかがです?」

「普通」

 なんとも短い返事だ。

 この素っ気なさは拒絶なのか、彼女の元々の性格によるものなのか……その判断はつかなかったが、とりあえず追い出されはしなかった。

 さて、次だ。

「食事を無理してとらなくてもいいとは言いましたが、代わりに、栄養補給のための点滴が必要です。準備しますね」

 みんなの嫌いな嫌いなアレ。

「ん」

 注射されるのだと合点がいった伊桜はぽんと腕を投げ出す。

 おや、いい覚悟だ。――それくらい食べさせられるのが苦痛だったのだろうか。

 白夜は伊桜の袖をまくり、真っ白な細い腕を露出させる。指の腹で血管を触り、どのくらい皮膚の下にあるかや、太さや、動くかどうかを確かめる。伊桜は小学六年生らしかったが、この歳なら平気だろうか?

「うっ……こわ……い……っ」

 そうでもないらしく、しくしくと泣き出してしまった。

 注射されるとわかっていようといまいと、痛いものは痛い。怖いものは怖い。針は痛い。ぷすっと皮膚と肉を貫通する。貫通すれば血が出るし、本能的に怖い感じがするものだろう。

 だが白夜にとってこの医療行為は人を笑顔にさせる自分の武器だった。

「大丈夫……すぐ終わりますよ……痛くしませんからね……」

 伊桜と呼吸を合わせることに神経を集中させる。イメージの中で自分自身を注射針と一体化させていく。伊桜の泣き声が徐々に遠くなっていき、ただの情報だけが残る。

(これで、なんとかご機嫌を取りたい!)

 呼吸が合った。白夜は動いた。

 青白く浮き出た血管に、ステンレスの管が近づけられた瞬間、伊桜は見ていられず目をつむって叫んだ。

「もうやだっ、やめる……!」

 ん? 蚊が止まったようなタッチ。

「……あ、あれ?」

 薄く目を開き、キョトンとする伊桜の反応に、慣れたように白夜は声を掛ける。

「はい。おつかれさまでした。楽にしてください」

「もう刺した?」

「はい」

 伊桜はまだ信じられない、と不思議な心持ちで点滴針を凝視する。

「うそ……なんか……全然痛くなかった……」

 その針先はきちんと腕の血管に埋まっている。

「注射は得意なんです、僕」

 白夜はそう言って手早くテープで固定し残る処置を済ませる。

「……ふーん……」

 感心するような顔でまじまじと針先を凝視する伊桜に白夜は少しだけ自信を取り戻した。

(よし。上出来かな)

 うまくできた。これはもともと、得意なのだ。それこそ看護学校時代から。血管の位置と針を刺す角度、患者の力の入れ具合や動き方を、流れを汲むようにして掴めばできる。採血や注射を何度も失敗するナースが逆に不思議だった。血色の悪い貧血気味且つ肥満型で血管が肉の中に埋もれている人でさえ、白夜は一回で終わらせるのはもちろん、的確な場所から刺すことで痛みを与えない。

 でも、と白夜は自分に言い聞かせる。

 物理的に痛みを取り除くだけが、優しさではないのだと。

「伊桜様」

「ん?」

 ビー玉のような瞳がくるっとこちらを向く。

「伊桜様は、とってもお優しい方ですね」

 物理的に痛みを取り除くために、誰かの心を傷つけていいわけではないのだ。

「いおが?」

「はい。僕は、そう思いました。僕も、頑張ります」

 敬意を込めて、そう宣言する。

 すると伊桜はどこかほっとして嬉しそうに、口元をゆるませた。その笑顔に――白夜は息を呑んだ。初めて見る伊桜の笑顔。彼女のもともとの可愛さがぐっと引き立って――

「えっ、かっ、かわいい……」

 雷に打たれたように時が止まった。美少女と形容するにふさわしい人に初めて出会った、と白夜は思った。

「ん……?」

「あ、いえっ、つい……あの、伊桜様って、とっても美人さんなんですね、と思いましてっ」

 伊桜はぽかんとして白夜の顔を見つめる。

「なっ、なにいうのっ」

 布団でばっと顔を隠してしまった。

「あっ。すみません、あれっ、大丈夫ですか? お顔をよく見せてください。なんだか、今すごく赤らんでいたような気がして」

「し……してないっ」

 白夜は布団をはがそうと手を掛けるが、強固な力に阻まれる。

「あ、点滴針には注意してくださ――いてっ!」

 白夜はその時、後頭部に強めの衝撃を感じた。

「おい、なに口説いてんだ?」

 振り返ればこちらは、初めて見るレベルで怖い顔をした椋谷だ。「わっ」何かを投げつけられて視界が真っ白になる。

「あ……いえ、そんなつもりは……」

 これは、白エプロンと白布?

「とっとと掃除行くぞー」

「はっ、はい!」

 つまみ出されるようにして、伊桜の部屋を後にした。

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