第35話 見えていくものがあります。
そのとき、電子ノイズの混じったうめき声が部屋中に響く。
――「う……あ……」
瑠璃仁は講義を中断し、「どうしました、椋谷くん?」と窓際へ行ってマイクを握る。
「白夜、勝己……それから、だれだ? 知らない医者……? と、ガキみたいな顔した……看護師が見える……」
「ほう……」瑠璃仁の瞳が見開かれた。「ついに見えましたか? 椋谷さん。そこから見えないはずの私たち――全体が見渡せているのですね!」
予測していたように、しかし興奮を抑えれないといった調子で、マイクを握る手に力がこもる。
「たまたま見えたんだろ。こっちからも向こうが見えるんだし、向こうだってこっちが見えるかも」と呆れ、冷ややかな針間。「最後の、ぼくのことかなあ……?」小声で言う南。瑠璃仁はもうそんな声など耳に入らないのか、マイクをオンにしたまま問いかけ続ける。「その箱から出られますか?」椋谷は音声で答えた。――「ああ。不思議だと、おかしいと、思うけど……でも、たぶんこっちから抜ければ……」
瑠璃仁の視線の先を追うように、白夜も窓から見下ろす。そこには、奇妙な体勢で固まる椋谷の姿があった。見えないジャングルジムにでも手や足をかけたような。よくその姿勢を保っていられるなと思うような位置で止まっていた。椋谷はその体勢から、さらに身をよじろうとしている。
(何をしているんだ? 椋谷さんは)
薬剤を投与されて正常な状態ではない被験者の行動に疑問を抱くのは無意味なことだろうか。
「なにっ」
研究室内が急にざわつく。白夜も目を見開いた。そして信じられないことが起きた。その手足が、欠けるようにしてなくなったのだ。ミロのヴィーナスの像のように、両腕が忽然と、ない。いったい、何が起きているのか? 出血はなく、椋谷に痛みもないようで、むしろ、本人は自分の手足が欠損していることに気が付きもせず、さらに奥へ奥へと体をよじっている。そしてそのたびに、体の欠落部分は様子を変えているのだ。最後は「ここか!」の声とともに、椋谷は空間に吸い込まれていった。
その場の全員が静まり返った。
「消えた……」
今のは、なんだ。
どうして、椋谷さんが、いなくなった? いや、ただいなくなるだけじゃない。体が欠けていった。見えない扉に手をかけ足を踏み入れていくように。そしていなくなった。どこへ、行ってしまったのだろう。
弾かれたように部屋を飛び出していく瑠璃仁。はっとして白夜も追いかける。いくつもの扉をノックもなくいきなり開け、中にいる人を驚かせた。瑠璃仁はもちろんそんなことには目もくれず、次々と繰り返していく。彼には、椋谷の居場所に心当たりがあるのだろうか。
廊下を走り抜け、裏口のドアを開ける。外に出た。
夕方前の穏やかな日差しが入り、さわやかな風が吹いた。裏庭、研究施設を背にして――椋谷が立っていた。放心状態ではあったが、しかし手も足も元に戻り、二本足でしっかりとその場に立っていた。
「ど、どうして……椋谷さんが、ここに!?」
さっきまで、あの立方体の中にいた椋谷は、いつの間にここへ出てきたのか。
椋谷は一人納得するように幾度も頷きながら、辺りをぐるりと見回している。
白夜の後ろから、
「なぜだ! ありえない」「坊ちゃんの妄想じゃなかったのか?」「全部、チョウセンアサガオか何かの幻覚なんだろ!? それなのに、一体これは――」
と、研究員が口々に言うのが耳に届く。
「何かの間違いだ! あ、あ、ありえない!」
「現にありえています」
瑠璃仁は説明は不要だというように静かだが、確固たる口調で返した。しかし、曲がりなりにも研究職に就いているはずの男は、髪を逆立てる勢いで言い返した。
「こんなばかげた研究、初めからうまくいくわけがないんだ! こんなのおかしい! 坊ちゃん、ああ、いったいなにをしたんですか! お、お、恐ろしい……!」
心底おぞましいというように瑠璃仁から一歩二歩と後ずさる。
「ちがう僕は! 僕は――っ!」
差別的な頭ごなしの拒絶に、瑠璃仁は絶叫する。何度もこうして傷付いてきたことが伝わってくるような――しかし心臓を握り、落ち着かせるように胸に手を当てて息を吐き、
「……実証は、嘘をつかないでしょう?」
そう言って、微かに微笑む。「……皆さんにはもう少し、僕のことを信じ協力してもらいたかったです」
瑠璃仁は研究員たちに向かって静かにそういうと、すぐに視線を椋谷の方へと戻す。
「さて、外の世界……四次元の感覚を手に入れた椋谷くんの目にはどう映るのでしょうか」
椋谷は一度目をかたく閉じ、そして再び上を見上げる。
「さ、何が見えますか?」
瑠璃仁の問いかけに、椋谷が答える。「綺麗な……空が、見えるな」
「そうですか。白夜さんは?」
聞かれて白夜は、「見えます。空は……そうですね、綺麗です」と、迷いながら答える。
「いや、次元が違う」椋谷は首を横に振った。「空がこんなに綺麗だったなんて、俺は、知らなかった……」彼は、ひととき時間を忘れて見入っていた。ぽろっと、涙をこぼした。
「そうか……なるほどね。文字通り、次元が違うんだ。もう椋谷くんには、この空が四次元的に、美しく見えているんですね」
瑠璃仁は一人納得したように、顎に手をやり考え込む。
「円しか知らぬ二次元人が、球を見て感動するように」
目の前の事象を受け入れ始めたのか、研究員は大騒ぎしている。「こ、こんなの、ノーベル賞なんてモンじゃない! 世界が変わるぞ!」「坊ちゃん! すぐに学会に発表しましょう!」「ああ……科学者として、なんという瞬間に立ち会えたんだろう、俺は!」
それはもう瑠璃仁の耳には届いていない。
隔絶された世界で一人、瑠璃仁は誰にともなく、そっとこぼす。
「ちなみに僕の目には、今、空がくすんで見えるんだ。僕は……バグってる。病気だから」
瑠璃仁の弱々しい声は、世紀の発見に沸く興奮の前では、一瞬にしてかき消されていた。瑠璃仁の病気は、平素には奇妙に見えるが、同じような奇妙さが認められた中で言えば、瑠璃仁のそれは人体の単なる故障だ。瑠璃仁には四次元が見えているわけでもなく、視界に映るのは神秘的でも何でもない。
「でも、いいんだ。僕の病気は、この研究を始めるきっかけになってくれた。そして、自分の理論の正しさは、証明された。その結果に、満足しているから。ごめんね椋谷くん、春馬、暁さんも……。傷つけて、苦しませて、ごめん。僕を信じてくれて、ありがとう」
白夜は自分の患者である瑠璃仁のその声が微かに聞こえた気がしたが、目の前に起きている事象を理解することで頭がいっぱいだった。
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