第1話 今日から一条家専属の看護師になりました。
二十三歳の冬。
ここが東京都だということを忘れるほど緑あふれる敷地の中に、知的で洗練されたオフィスのようなお邸が、平成現代の息づかいと共に豪邸として存在していた。正面玄関を入ると吹き抜けの天井になっていて、それにしても風通しがよかった。あまりの高さにくらみそうになって胸がすうっとする。前掛けをかけた中年女性が出迎えてくれ、案内されるまま付いていく。
(こんなお屋敷が職場というのは……そうはないだろうな)
古めかしい立派な飾り柱のある長い廊下を行ったと思うと、「こちらが執務室です」と紹介された部屋の中へ。木製のドアの厚みに負けぬよう強く叩けば、まるでドラマで見るようなノックになった。架空と現実が混ざっていく感覚。そこにはあの都会的な外観からは打って変わって、厚みのある絨毯と、一昔前の意匠のような重厚な執務机。
その脇に――自分より二回りほど小さく幼い青年が、主不在の執務机の傍に堂々たる直立姿で待ち構えていた。
「おはようございます。加藤白夜さん、初めまして」
逆光が深いコントラストを刻んでいた。
「私は
「こちらこそ初めまして。今日からお世話になります」
兄弟で言うなら弟(妹でも通るかもしれない?)に当たりそうな容姿だ。だが目の前の彼は、ここでの先輩となる人だった。パッと見おとなしそうな印象を受ける長めの髪と、少女のような面立ちの――しかし凜として張りつめた緊張感。暁はそれから物も言わずまっすぐに白夜に近寄ってくる。そういえば自分から挨拶をするべきだった……かな? と白夜がやや反省していると、頭のてっぺんから靴の先まで、見定めるようにまじまじと確認され、「両手を」と言われて手を出すと、手には綿の白手袋をしていたがそれを脱がされてチェックされる。白夜はふうと内心胸を撫で下ろす。爪が伸びていないか見られたのだろう。幸運にも切ってあった。暁は一つ頷くと手袋を元に戻すように合図し、それから白夜のネクタイの位置を微調整した。
「提出書類は、すべて記入を済ませ、揃っていますね?」
白夜は返事をして、自分の鞄から書類の入った封筒を慎重に取り出す。厳しそうな人だな、と思った。実年齢はわからない。見た目は童顔といえる顔つきなのだが……それに、腕を伸ばして白夜のネクタイを真っ直ぐに正すときはややつまさき立ちになりながら、だったが、しかしそんな見かけや実年齢や身長差やらを十分に覆すほど、風格、雰囲気、そもそも相手に舐められないようにマウントをとる確固たる意志のようなものを白夜は彼に対して感じ……この人にはとりあえず逆らわないことを心に決めて顔を上げた。今できる限りの意識でもって姿勢を正して、書類を差し出す。
「これから、一条家の皆様へご挨拶に伺います」
「はい」
「粗相のないようにお願いします」
「はい」
「特に伊桜お嬢様は、少々気難しいところがおありですから、気を付けるように」
「はい」
油断なくきびきびと返事をする白夜に満足したように暁が僅かに頷いた――と思ったら、その「はい」の返事の声のトーンは屋敷内では少し大きすぎるだの、「は」と「い」の間隔をもう少し空ける方が一条家の使用人らしいだの、厳しい口調で指摘される。それから姿勢、歩き方、お辞儀の角度、下げている時間、笑顔の口角、目尻の角度に至るまで細かな注意が続いた。えっ、そんなことまで気にしなくてはいけないの? と疑問に思ってしまうほど。それを見抜いたように、暁は言う。
「ここにいる私たち家事使用人の仕事は究極のサービス業です。オーダーメイドで、唯一無二。お客様である一条家の方々のプライベートな生活にも、そして人生にも深く入り込みます。そのための知識や感覚は、こちらも一生をかけて学び、築いていくのですよ。仕事という枠を超え一条家の幸せをどこまでも追求していく。あなたは、その覚悟があってここへ来たんですよね?」
白夜は押し黙った。高らかにそう言い切る暁は、どこかまぶしく輝いていた。
お客様の人生に深く入り込む、究極のサービス。
白夜はここが自分の求めていた環境なのだ、と、確かに感じた。医大病院を去ってはるばるこのお屋敷に転職し――そう、こここそが。
(そうだ――頑張らなくちゃ。ここで頑張って、理想の自分を手に入れる……ここで頑張れば理想の自分が手に入る!)
白夜は背筋を伸ばし、短く「はい」と返事をした。うまく微笑みも添えられた、と思った。
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