第6話 耳の穴から脳が流れ出てしまうそうです。
「あっ」
「どうしました?」
「――っ……」
瑠璃仁は両耳を抑える。「やだ、やだ……どうしよう」
「瑠璃仁様?」
両手で覆った顔が、どんどん真っ青になっていく。恐怖におののいたように、言葉をなくして震えている。何が起きているのだろう。「大丈夫ですか? 耳が痛いんですか?」と問いかけた。ばかでかい耳鳴りでもなっているのかもしれない。緊張状態の瑠璃仁を驚かせないよう努めながら、「それとも頭が痛いのですか? 気持ち悪いですか? 背中をさすりましょうか?」と、問いかける。すると、答えが大声で返ってきた。
「脳が、こぼれる!」
白夜は瑠璃仁の頭を見た。髪が多少乱れているだけで、外傷はまったくない。
「耳から、耳から出る、出ていく――止めて、助けて……!」
耳を覆ったのは、そのためか。
白夜は「落ち着いてください。大丈夫です。出ていませんよ、何も……。安心してくださいね」と優しく諭す。
「出てない? 出ているよ! ほら、とろ~、とろ~って。あれ?」手を見る。「――ついていない……けど、ほら! ほらね、だめだ、止められない。止めて、止めて……」
止めてと言われても、耳から脳など出ていないのだから止めようがない。止めるべきは、間違った解釈をしてしまう病の進行だ。
「脳が出てくるように、感じるのですね」
「うん……」
「それは、怖いですよね……」
「うん……」
だが白夜は否定を避け、しかし積極的には肯定せず、自分が共感できる方向で落としどころをつけていく。精神科看護の基礎だ。
瑠璃仁はしばらく身を小さくこわばらせて、なにか異様な体験を耐えていた。その傍らで、白夜はじっと待った。
「はあ……びっくりした……。怖かった」
落ち着いただろうか。
「大丈夫ですか?」
「うん」
悪夢から醒めたように、瑠璃仁は疲弊しきった声色で息を吐き吐き言う。
「幻聴だけじゃない。今のような幻触、幻味、幻臭……食事をとると腐った肉の味がしたり、部屋に毒ガスの匂いが充満していたり……はあ……そう、脳ね、よく溶けて耳から流れ落ちていくんだよ」
そして条件反射のように、声を大きくして言う。「いいかい? ほんとに流れ出ていくんだよ? ぬるぬる……耳穴を這う半液体の生温かさまで、ちゃんとあるんだ。もちろん今もね、あった」
「はい。そうですよね。その感触があったら、怖いですよね」
白夜は大きく頷いてみせた。こういうときは第一に、肯定できる箇所をきちんと肯定し、共感してやることが大切だ。耳の穴から脳なんて自然に出るわけがない。しかしどんなにおかしな現象でも、精神的な病を患う彼の中では嘘偽りのない現実で、今まさに実際に起こっている出来事なのだと、看護師である白夜はわかっている。だから病気として、治療をしているわけで。
その反応に満足したように、瑠璃仁は少しリラックスした表情で続けた。
「やれやれ、今までに、どれだけ流れ出ていったかな。おかげでずいぶん減っちゃったけど、でも僕はけっこう脳ミソ、詰まってる方だと思うから」
こめかみに指を当て、はにかむようにして笑う。白夜も一緒に笑おうとし――一旦踏みとどまり、しかし結局判断に迷った。冗談のつもりかそれとも本気で言っているのか。
「……まあ、僕の精神が壊れているから、なんだよね。これって」
その迷いが顔に出ていたのかもしれない。瑠璃仁は白夜を導くように、真面目に冷静にそう確認をし、話を戻す。ああ、やはり賢い人だと白夜は思った。脳ミソ、詰まっている。
「境界失調症に同じような症例はあります。……かなり典型的なものとして」
白夜の肯定に瑠璃仁は静かに頷き、観念したように目を細めてふうと一つ溜息をつく。
「でも、そのおかげでね。僕はあることをひらめいた」
瑠璃仁は、空気をかえるようににっこり笑った。
「あと一つくらい頭のネジが外れれば、閉ざされているべき異次元の扉も開くんじゃないか、ってね」
誇るように、自信を持って。
「それは……」
だが、今度こそ白夜は曖昧に頷くしかなかった。それは、手放しに否定も肯定もできない。瑠璃仁の心配する対応を差別的にするつもりはないが、それが妄想的な確信を帯びてきたりしたらその限りではない。しかしどうあれ、心を開いて話してくれるこの時を、チャンスとして大切にしたい。そう思って白夜は、もう少し突っ込んでみることにした。
「んと、それはシックスセンス、第六感……ってことですか」
「ちょっと違うな」
「どういうことか、もう少し聞いてもいいですか?」
内心やや臨戦態勢だ。「頭のネジを外す」=治療を放棄する、という意味だったとしたら、さすがに肯定したらまずい。幻覚はさらに増すだろうし、今せっかく本人にある「自分の体に異変が起きていて正常な現実認識が出来ず、幻覚が生じている」という病識も、「これは幻覚や妄想などではなく、神様からのメッセージだったんだ」などという妄想に変わっていくだろう。病識が持ちづらいのもこの病気の特徴だった。
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