第37話 優しい看護師になれていたら、嬉しいです。

 瑠璃仁が研究から離れ治療に専念するのと、病態が急変するのは同時だった。今、深刻な状況だった。ベッドに座り込んで、自分を守る様に研究室用の白衣を頭からかぶって震えている。

「幻覚が見えてつらい……」

 不安を小さく口にする瑠璃仁には、いつもの上品さや余裕、優雅さは、残っていない。

「つらいんですね」

 その横には白夜がいた。その場から一切動けなくなってしまった瑠璃仁の世話を、何日も、何日も。付きっきりで。

 針間は言った。「お前が全てを妄想で言っていたわけじゃないことはよくわかった。だから、薬の種類も量も、それを厳密に考慮した上で俺が出す。だから、まずは病気を治療しろ。治療すれば治るんだ、俺が保証してやる」そして瑠璃仁は了承し、投薬を開始した。

「いくつも、いくつも、声がする。ねえ、白夜、いる?」

「はい。ここにいますよ」

「白夜! 白夜っ、どこ?」

「ここです。ここにいますよ」

「本当だ……。良かった。もう二度と、見つけ出せないんじゃないかと、思って……」

「大丈夫ですよ」

「どこにも、行かないで。お願い……」

「お傍にいます。ずっと、僕が、お傍にいます」

「うん……」儚げな薄笑いを浮かべて、瑠璃仁は言った。「見知らぬ世界にいるんだ。世界が怖い。どんどん、強くなっていく世界が、僕を、丸呑みにしようとする……」

 世界が怖い、とは、一体、どんな感覚なのだろう。

 世界というものは、健康な本来なら自分が確かめて作ってきたものだ。見て、聞いて、感じたことが、直接的にも間接的にも自分の世界を形作る。そして自分が生きていく地盤そのものになる。それは極めて自然で当然のことだ。しかし病に侵された瑠璃仁には――その“当然”が、損なわれている。見えないはずのものを見せられ、聴こえないはずのものを聞かされ、感じないはずのものを感じさせられる。自分が考えたことのない観念さえ、勝手に自分の中に侵入してくるのだ。自分が生きていく地盤となるはずの世界の方が勝手に自由に生き物のように動き回り、自分がそれに呑まれ、引き摺り込まれていく。脈絡も論理もない。過去もなければ未来もない。あるのは、めまぐるしく翻弄されているいまだけ。だから世界が怖くなる。――これは医学が教えてくれることだ。境界失調症を患ったことのない白夜には、それ以上のことははっきりとはわからない。脳が出てくるという訴えの後で瑠璃仁に耳の中にゼリーを入れられ、その幻触を疑似的に体験したときでさえ、白夜はすごく怖かった。きっと、本当の幻覚は、比べ物にならないほど恐ろしいことだろう。

「大丈夫ですよ」

「そうかな……?」

「はい。だって、針間先生が治してくれますよ」

「でもさ、治らなかったら?」

「?」

「だって、僕の精神は……壊れているから。ほらこんなにも、悪くなってしまったんだよ?」

 瑠璃仁はぼんやりと虚空を見つめる。そこに何か見えるのだろうか。瑠璃仁を囲む世界は、白夜の見ている世界とどこまで同じものなのだろう。マホガニーの木の濃茶と黒でシックに揃えられたこの部屋。静かで、何の脅威もない、安全な場所。瑠璃仁自身の好みのもので埋め尽くした、瑠璃仁の部屋。そのはずなのに、彼は棚の影にさえただならぬ気配を感じ怯えて、ベッドの上で白衣を頭から被り、じっと身を硬くして息をひそめている。瑠璃仁は自嘲気味に、その聡明な瞳を白夜に向け――翳らせた。瑠璃仁ははっきりと、それが病によるものだということには気付いている。さあ……じゃあこの人は今、何を求めているのか。

「手や足だって……」白夜は、頭を高速回転させながら続ける。「骨折しても、ちゃんと治療すれば治りますよ。これからですよ」

「でも、治らないことだって……あるだろう? こんな中で、どうやって生きていけばいいの?」

 瑠璃仁のその声は震えていた。

(どうやって……生きていけばいいか、か……)

 白夜は自分の胸の中で反響させ、思考する。怯えるこの人は、何を恐れているのだろう。何が怖いのか? 何が不安なのか……? ほしいのはきっと、医学的な知識じゃない……ほしいのは、きっと気持ち。そうだ、だから、考えろ、俺!

「放っておくと、痛いまま、動かないまま、絶望を感じて……もう治らないんだと思うことも、あります……。治らないことを直視したくなくて、逃げてしまうことも、あるかもしれない……」

 瑠璃仁が怖いものなしのような言動ばかりとっていたのは、現実を振り返るのが恐ろしかったからなのかもしれない。病者は狂うことを恐れるが、では狂ってしまえばもう怖いものなしというわけではない。その次は、自分が狂っていることを自覚することが、何より怖くなる。だけど。

「でも、じゃあ! たとえ、治らなかったとしても。治らないことを受け入れたら、その先には今よりもっと素晴らしくなる選択肢が、たくさんあることに気がつきますよ!」

 その先には。

「たとえば、足が壊死していたとしましょう! もう死んでしまっていて、再生は不可能。ならば足に、別れを告げたら、切り落として、義足をつけます。初めは、扱いが難しいかもしれない。あるべきものがない現実に、戸惑うかも、しれない。でも、リハビリをすれば、自在に動かせるようになります。望めば、走ることだってできます!」

 瑠璃仁は、黙って白夜の言葉を聞いている。白夜は少し止まり、また考え、話してみる。

「――とはいえ、そうですね……。誰もが、走れるのを目指して頑張らなくちゃいけないわけでも、ない。穏やかに車椅子で生活するのも、いいじゃないですか!」

 白夜は提案した。「そうしたら、僕が押しますよ!」

「本当?」

 瑠璃仁の丸い瞳が、自分を見つめる。

 見たことも聞いたこともない現象に囲まれた中で、生きていかねばならない恐怖、そして孤独。耳から脳がもれ出てくる恐怖体験を、気味悪がるでもなく、呆れずに、一緒になって受け止めて――、どこまでも広がり、止むことのない空論も、ずっと傍にいてそのすべてに耳を傾けて、くれますか――? と。

 白夜は想像する。

 あなたが森の中で道に迷い、一人で途方に暮れているというなら――。

 僕があなたを探しに行きます。それが実際に存在しない悪夢の中だとするなら、僕はあなたを起こしに行きます。寝覚めはあまりよくないかもしれませんが、僕がおいしいお茶を淹れます。

 あなたが今、冷たくて苦しい海の底にいるというなら――。

 僕も深く深く沈んでいきましょう。でもこれ以上は肺がつぶれると思ったら、僕が潜水艦を借りてきますから、乗ってくださいね。静かで暗い海の底も、案外心地いいかも。

 あなたが今、石の中にいるというなら――。

 どうしましょうか。真っ暗闇の中、身動きが取れないままは、怖くて苦しいでしょうから、神の手がそれを終わらせる時まで、そばにいましょう。そして何度でも生まれ変わって、はじめからやり直しましょう。

 ――そんなことが、実際に俺にできるだろうかと。

 苦手だ。自信がなくて震えてくる。でも俺は、優しい看護師になりたくて、憧れて、必要としてくれている人の、かけがえない存在になりたくて、そんな未来がほしくて、だから生きている。向いていないとか、苦手だとか、失敗した回数なんて、何の意味もない。俺のことを必要としてくれている。俺はそれに応える。今度こそ、間違えることなく、無意識に逃げることなく。揺れるその瞳に対して、白夜は覚悟を決め頷いた。

「はい。僕が押します」

 病に向き合う瑠璃仁の傍らにも、病状が良くなった瑠璃仁の傍らにも、自分がいたらいい。そんな自分でいたい。

「瑠璃仁様は、どんな自分でいたいですか? 僕が、サポートしますから――そこにどんな現実が待ち受けていたって、僕が、一緒に受け止めますから――だから、どうか聞かせてください。瑠璃仁様は、どんな未来がほしいですか? 何でも言ってください。大丈夫です! だって僕が、どんなことがあっても僕が、あなたの傍でずっとずっと支えますから!!」

 必死だった。どうか、どうかこの思いが、あなたの心に届いてください。もう一度俺を、信じてください。

「……ありがとう」

 瑠璃仁は、もう一度、小さくそう返してくれる。

「いえ! そんなっ……」

 白夜は首を横に振った。感謝しているのは、自分の方だ。いつまでも、うまくできない、逃げてばかりの自分に、また心を見せてくれて、触れさせてくれて、こんな俺のような看護師にも、気持ちを、預けてくれること。そのおかげで俺は、今もこうして横に座らせてもらい、あなたの気持ちに共感できること。そんな――生きる力をもらっているのは、自分の方なのに。

「ううん、ありがとう」

 瑠璃仁の頭を覆っていた白衣が、すとんと落ちた。現れた顔にきらめいているのは、涙だけじゃなくて――

(瑠璃仁様が、笑ってる)

 ――笑っている。心から満たされたように、安心したように。俺の前でほっとして、笑ってくれている。白夜の心の中に、じわっと、温かなものがあふれてくる。瑠璃仁様が笑うと、ほら、俺も嬉しい。そう、嬉しいのだ。

 ……ああ、目指してきたことは、やっぱり間違っていなかった。

 楽しいことばかりじゃなかった。苦しかったし怖いものばかりだった。逃げてばかりだった。

 それでも、やっぱり目指すことをやめないでよかったと思えた。

 傷ついた患者に対して、目を逸らさずきちんと見つめ、より良くなるよう支え、心通わすかけがえのない存在に、もっとなりたい。

 俺も、少しは成長できたのかな。少しは理想に、近づけたかな。

 もし、そうなれていたら、嬉しい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る