第19話 アサガオが世界を変えるのだそうです。

 白夜は瑠璃仁を研究所に送り出した後、ベッドのシーツ交換を終え、伊桜のことも家庭教師に任せ、矢取家の人と雑用をテキパキこなしていた。そのとき。

「白夜くん、ちょっといいかな。僕は今から研究所に行く。一緒に来てくれる?」

「はい。何かあったのですか?」

 普段穏やかな春馬が、矢継早にそう言って白夜を誘った――どこかただならぬ緊迫した空気。「瑠璃仁さんが錯乱状態みたいなんだ。暴れてるって。すぐ行こう」白夜は頷くと、エプロンを外す時間も惜しんでそのまま車に乗り込んだ。

 研究所の玄関に車がつけられる。瑠璃仁の大声が外まで聞こえてきていた。

「春馬! 春馬はまだなの?」

 春馬はいてもたってもいられないように「瑠璃仁さーん! どうしましたか?」と大声で呼びかけながら駆け込んでいく。白夜もそのあとに続く。

「こ、こいつらが、僕の悪口を言うんだ……! なんとかして……春馬……」

 瑠璃仁の周囲には何枚ものレポート用紙が散らばっている。

「いやいや、言ってないですって!」

「坊ちゃんの悪口なんて言うわけないですよ僕達! 一条家の方には、こんなに良くしてもらってるのに……。春馬さん、お願いします、信じてください!」

「うるさい! 僕はここの研究所のオーナーだ……みんなクビにできるんだぞ!」

「坊ちゃん! 落ち着いてください!」

 叫ぶ瑠璃仁、困惑した研究員。春馬は何も見向きもせず、瑠璃仁に向かって駆け寄っていく。

「瑠璃仁さん、少し部屋を移動しましょう」

「うん……。春馬……」

 心から縋るように瑠璃仁は春馬に寄りかかる。白夜は瑠璃仁を春馬に任せ、自分は何があったのか情報を集めようと、周囲を観察した。嵐が去った後のように散乱するレポート用紙を床から拾い上げ、研究員が片付けていく。

「困ったよ。あんなふうに言われちゃ……」

「研究の成果がなかなか上がらなくて、坊ちゃんも精神的に参っているんだろう」

「けどなあ……」

「そういう病気なんだから、仕方がないさ。主治医の若槻先生も俺たちの苦労をわかってくれている」

「病気で一番つらいのは坊ちゃんだ。俺達が春馬さんに睨まれるくらい我慢することだ」

「でも、一条さんの親御さんに変に耳に入ったら」

「大丈夫。ほら、看護師さんもわかってくれるだろ」

 急に同意を求められ、白夜は慌てて肯いた。

「瑠璃仁様は被害妄想を持ちやすい病気ではあります」

「だな……。ありがとよ」「わかってもらえると助かるよ、まったく……」研究員たちはやれやれと持ち場に戻っていく。

(何があったんだろうな)

「いいよな、初めから金をいっぱい持っている人間は。夢を追っても食いっぱぐれることはないんだ」

「そうだな。でも、いくら金があったって現実は許してくれていないだろ。治験審査委員からは、そんな研究は荒唐無稽だと治験許可申請をはじかれた」

「まーな」

 治験審査委員? そことなにかトラブルがあったのだろうか。白夜は口を挟んでみる。

「あの、治験審査委員っていうのは?」

「この実験は人体実験だからな。治験するには許可がいる。それが下りなかったってことだ」

「仕方がないさ。この研究は、金と夢はあるけど、無理がある」

「こじつけっていうか、ねえ……」

「坊っちゃんはアサガオの種に、ヒトの機能していないレセプターを活性化させる作用成分があると結論付けてるけど、我々が思うにそれは単なる麻薬の一種だ」

 どぎつい一言に白夜は思わず聞き返す。

「麻薬!? ですか? えっ、麻薬……? アサガオ?」

 瑠璃仁はここで一体どんな研究をしているのだろうか。

「小学校で長い年月かけて代々受け継がれてきた種の中に、そういったものが混じってしまったのかもしれない。いろいろ種類があって、たとえばチョウセンアサガオなんていったら完全に麻薬だし」

「いやっ、でも……! そんな簡単に混じるような物なんですか?」 麻薬なんて言ったら、育てただけでニュースになるような事件なのではないだろうか。

「んー? 大麻とかは育てたらダメだって規制されているけど、あとは別に、園芸用として販売されてるよ。チョウセンアサガオも、エンジェルズ・トランペットとかいって園芸用に売られているし、好んで庭で育てている園芸家もいる。見た目も綺麗だしね。でもこれを食べるくらいならむしろ大麻の方がずっとマシなくらい危険な幻覚の見える植物かな」

「ヤクザの庭とか山の奥まで行かなくても、危険な植物なんてこの世にゴマンとあるよ」一人はそう言って窓の外を指さす。「ほら、研究所の庭に生えているスイセンなんかも、球根や葉には有毒アルカロイドを持っている。ニラに似てるからよく誤食の中毒事故がある。アジサイの葉にも、フェブリフジン系のアルカロイドがあるし」

「これなんてさ」研究員の別の一人が戸棚から取り出した瓶を差し出す。白夜は受け取ろうとして――「ドラマでよく殺人に使われる青酸カリウム」

「ええっ!? 青酸カリ!?」

 どきっとして手を引っ込めた。そのために瓶を落としそうになって、おっと、と研究員が両手の中で弾ませる。中にはサラサラとした粉のようなものが入っている。これ、うっかり吸ったら死ぬのだろうか。そんなもの近づけられたくない。

「あはは、ごめんごめん。でもそう怖がるけどさ、フグ食べたことある?」

「フグですか? あんまりないですけど……まあ一度くらいはあります」

 白夜は食べた記憶より、提供した記憶の方が新しい。一条家の邸の調理師が先週の夕飯に捌いていたのだった。

「でしょー? フグの毒なんてこれの千倍の毒性があるんだよ」

「ええええ!? 青酸カリの?」

 鳥肌が立った。フグ調理、何も知らずに後片付けを手伝った覚えがあるぞ!

「フグはうまいだろ? だから、食べるのを禁止にはしない。車にはねられて人が死ぬからと言って、車の販売を規制できないのと同じ」

 白夜はおそるおそる、青酸カリの瓶を受け取ってみる。瓶に入った毒物は、こうしてみている限りはただの白い粉だ。

「とにかく、坊ちゃんの発想には、至るところに無理があるというか、理論もガバガバ」

「年の割には優秀だとは思ったけど、長年科学者やってきた僕達みたいなプロからしてみれば、一目瞭然だね」

「そうですか……」

 白夜にはわかっていた。瑠璃仁は重度の境界失調症だ。つまり脳の病気であり、「ものごとを結び付ける働き」が、うまく機能しなくなってしまっている。適切な連想ができないのだ。

 健康な人は何かの物事についての連想の中から適切なものを選びながら、会話でも、心の中でも順序よく説明していくものだが、この病気にかかると、「適切」や「順序」を考える機能が緩んでしまう。だから、連想が浮かぶまま表面的につなげたり、脈絡もなく飛躍させてしまう。目が合っただけで殺意を抱かれているように感じてしまったり、信号待ちをしている車と車のナンバーの並びに、何か深い意味を見出そうとしてしまったり。そういう病気なのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る