第18話 脳の仕組みについてと四次元が見えるようになるとはどういうことかについて教えてくれます。
「お茶なんていいから、そこに座って」
「はい、失礼します」
瑠璃仁に勧められるままに、ソファに腰かける。瑠璃仁は大学の教壇に立つ様に、リビングの壁を後ろに立ち、話しはじめる。
「もともと、三次元のように見えているこの世界は、もっと高次の次元の中の一部にすぎない。でも我々には、それを認識する機能がない。そうだろう?」
「はい」
講義開始みたいだ。春馬は大学時代の感覚を呼び覚ましながら背筋を伸ばす。
「ここまでは前に話したよね。僕の仮説。じゃあ、その認識する機能を手に入れれば、高次のものが見えるようになるんじゃないか? というわけだ」
「はい」
「そこで僕は、精神医学に目を付けた。自分の病気が役に立ったのさ」
マンツーマンなので、口を挟むことも許される。
「きっと瑠璃仁さんが一生懸命研究に向き合っているから、気付けたんでしょうね」
「ありがとう。そうだね。病気なんていいもんじゃないけど……そう思うことにするよ」
春馬はこの時間が好きだった。
「さて、これから脳の話をするよ」
「はい」
「僕たちは物事を考えるとき、脳を使うね。この今も、使っている」
頷く春馬を確認し、続ける。
「じゃあ、脳を使って考えるとは、どういうことかわかるかい?」
「えっと……」
どう……と聞かれると難しい。春馬が返事を考えるより先に「それはね」と、瑠璃仁が答えを言う。
「微弱な電気信号のやりとりだ」
今日はよっぽど先を急ぎたいらしい。春馬は先を促すように頷き、息を合わせる。
「すべて電気信号に置き換えられているのさ。生物と機械は似ているところがいっぱいあるけれど、こんなところも似ているよね。脳内で電気信号を送り合うっていうのは、どうやっているかというと、生物は化学信号も挟むんだよ。つまり……」
年老いた教授が、遠く幼いころの学習内容を思い出しながら問いかけるように。
「ニューロンとシナプスからなる神経細胞で刺激を送り合っているんだ。これは高校生物で習ったかな?」
「はい。なんとなく覚えているような」
瑠璃仁なんて、つい最近まで高校生だったはずだが。
「うん。そこをもう少し詳しく言うとね、それぞれの電気信号はそれぞれの「レセプター」という特定の形のくぼみにはまることで「意味のある情報」として人体へ反映され、意思や行動に現れる仕組みになっているのさ。ちょうどジグソーパズルのピースが合致するように。レセプターに合致しなかった情報はそのまま、無意味なものとして脳内にあるだけ。ただの化学物質のままでね。何も反映されることなく――喩えるなら、そう、虫には見えて僕らヒトには見えない紫外線や赤外線の色みたいなものかな。波長は存在するけど、視覚情報として僕らには取り込まれていない……という意味でね」
曖昧に頷く。だんだん難しくなってきた。
「あ、僕、言葉のサラダになっちゃってないよね?」
「なっていないと思いますが、僕には何やら難しすぎて」
でも、こうして話してくださることが嬉しくて、また話してほしくて、頑張って付いていこうと春馬は思う。話の邪魔はしたくないから、自力でなんとか理解しなくちゃ。
「レセプターの種類は多岐に渡っていて、そのすべてが解明されているわけではないんだ。最近の研究によって、中には眠ったままのレセプターもあることがわかってきた。四次元を知覚できる方法を探していた僕は、そこに可能性を見出していた。人類の脳内に、四次元の情報を入手できるレセプターが眠ったまま存在していることを。それで、どうにかしてその四次元レセプターを見つけ出し、叩き起こしてやろう、と思ったのさ」
瑠璃仁の興奮のボルテージが上がっていくのを感じる。
「そして、ようやく今日、見つけることができた――」
そう告げる瑠璃仁は、高まりの中にいるようで。
「やっぱり初めから、神によって用意されていたんだよ、それは!」
その気分を、少しでも多く一緒に体感したい。春馬は自分の無学を呪った。
「人類の隠しコマンドみたいなものだ。つまり、そうだな……どう言えばわかりやすいかな。次元を落として二次元で話そうか。ファミコンのマリオ! ってわかる?」
春馬は「はい」と頷く。世代的には、むしろ瑠璃仁が知っている方が驚きだ。
「ファミコンで言うマリオは、前に進んだり後ろに戻ったりの“前後”、上に飛んだり土管にもぐったりっていう“上下”方向にしか操作できない。これはつまり二次元だよね」
「はい」
「それが奥行きを認識できるようになったってこと。一面、二面……って、概念とは別に、一面の背景の中、二面の背景の中、って、ステージが立体的に用意されていることに気付いたんだよ!」
自分にもわかりやすく噛み砕いて説明してくれていることに感謝し、春馬は思考する。
ファミコンのマリオ……上下左右にしか動けない、二次元の世界。その、奥行き? 背景の中?
「奥行きって、あの、山とか、木とか、空や雲の、ゲームとは関係ないただの背景のこと?」
「そう!」
「つまり……二次元のゲームの中で、奥行きの……背景の山とか、木の裏側とかへの行き方を見つけた、ということですか……?」
春馬の受け答えに瑠璃仁は、破顔一笑。
「その通り! その通りだよ!!」
春馬は「はい」と力強く頷く。やった。
「ジャンプして前に進むだけじゃなく、縦横無尽に冒険ができることに気がついたのさ。ただの背景壁紙だと勝手に思っていた場所に行けるかもしれないことが分かったんだよ!」
「すごいね、瑠璃仁さん」
「ああ。これをのめば、春馬だって四次元の住人になれる!」
「そうなの?」
「うん。人体での臨床はまだだ。でも、うまくいくと思う。アサガオの種だよ!」
「アサガオの、種ですか……?」
次から次へと予期せぬ単語がぽんぽんと飛び出してくる。
「そう。アサガオの種から有効成分を抽出したんだ。それで試薬品第一号が完成だ!」
へえ。なんて身近なものから見つかったんだろう。
「昔さ、困ったクラスメートがいたんだよ。その子の話を思い出して、頭の中で急に結びついたんだ。僕の通っていた小学校で育てたアサガオってね、小学二年生の先輩が前の年に育てたアサガオからとれた種を一年生がもらってまた一年育てて、そして新一年生にあげるんだ」
日本中の小学校で、よくあるやり方だろう。
「そんな大事な種をさ、昔、一年生代表として預かって、そして……こっそり全部食べちゃった人がいたんだよ」
「種を?」
「そうだよ。意味が解らないよね」
迷いながらも、春馬は頷いた。なんでまた食べたんだろう? その者の担任教師はさぞかし手を焼いたことだろうと同情する。
「その子が散々叱られた後の、退屈な授業中のこと――彼はちょっとおかしいことを言っていた。見える、見える、って。隣のクラスも、そのまた隣のクラスも、上の階も下の階も――見えるって。校舎の壁が取り外されているところを、運動場から眺めたわけでもないよ。そうじゃない。でも彼は何かに憑りつかれたように、何年何組は何の授業をしていて、何年何組の教室には誰もいない、とか言い始めた。そのとき僕はちょっと興味深く思ってね、どういうこと? って詳しく聞いてみたんだけど、彼は興奮状態で、何を言っているのか、さっぱり理解できなかった。先生も混乱して、そのあととある事件もあって……すぐ保健室に連れて行ってしまったし」
でも、今となってはそのすべてがわかるんだ、と瑠璃仁は、宇宙の神秘に触れるように囁いて言う。
「次元を落として喩えると――水面に浮かんだ蓮の葉に、目があるとしようか。少しイメージしてくれる?」
「イメージします」
「うん。葉っぱになりきってみて」
春馬は言われた通り、自分が水面に浮く葉っぱになった姿を想像した。背泳ぎしているイメージかな?
「でも、目は葉のふちにあって、空や水中を見ることはできない。見えるのは、目の前に自分と同じような葉が浮かんでいるかどうかだけ――」
瑠璃仁の補足を聞いて、考え直す。空や水中を見ることはできない?
「ん、では、背泳ぎじゃなくて、バタ足ですか?」
「そうだね。でも、水中も見えない。ちょうど、目の位置が、水の上でも下でもなく、厚みゼロの水面の位置にあって、そこだけを見て泳いでいると考えてみて」
空でもなく、水中でもなく、水面だけしか見えない。
「前の人や、障害物とぶつかるかどうかだけ、わかる感じですか」
「そう」
ペラペラの葉同士なら、たしかにそうなる。なんだか心許ない情報量だと春馬は思う。どれくらいの大きさの葉であるかも、わからない。もし面積の少ない葉が隣にいるなら、ぐるりと回り込めばそれで越えられるが、自分の位置からは小さそうに見えても、越えようとして回りこんだときに、予想外に大きな形をした葉なら、回り込んだりせず最初から諦めておけばよかったと思うだろう。それに目の前の葉の向こうにある葉に関して言えば、重なってしまって見ることさえできない。
「でも、そんな葉が、ある日なにか、子供に石を投げられたか、何かどかーんと衝撃を受けて、水中に潜ったとしたら。そこで葉がくるくると九十度回転して、目が上を向いた時、見上げたらどうなる? 自分の横に葉が浮かんでいるかどうかしか知る由もないと思っていた葉は、その周辺に何枚もの葉が浮かんでいるということを知る。全体を見渡すことができたわけだ――自分の存在する平面の世界を、別次元の概念でなら、一望できた」
その葉である自分が、どぼんと水中に潜らされたとしたら。
隣は、丸みたいな形、その隣は長丸、その隣は真ん中に穴が開いていたんだ――と。
「その子が体験したのは、今思えばおそらくそれと同じことだったんだ。葉の喩えは、二次元の世界を三次元の概念でもって見た時のものだけど、それをそのまま、三次元上の世界を、四次元の概念でもって見たと置き換えてくれればいい。本来、壁と床と天井で覆われた他の教室は、ドアを開けて中に入らない限り、見ることなんてできないよね。でも彼はそのとき、次元の違う角度から見たんだ。水面のことしか見えないはずの葉が、ひょんなことから水中に潜って上を見上げたように。彼は三次元の概念で生活している者には見えないはずの位置にあるものを、その時まるまる一望できてしまった。という理論さ」
春馬は、すぐに適当な言葉が出てこなかった。与えられた新しすぎる感覚に、ただ戸惑っていた。
「ま、その後彼は、次第に急激な腹痛に襲われて大惨事の大事件。卒業するまでずっとウンコマンって呼ばれていた」
「……お気の毒に」
「たぶん、みんなはそっちの方が印象深かった」
さんざん下痢して気を失い、浣腸と胃洗浄までされた上で、病院で目が覚めた彼はすぐに、見たものの内容を医者に説明したが「白昼夢か、幻覚でも見たのでしょう」と言われて終わりだったらしい。その角度はその後、三百六十度どんなに探しても、二度と、見つからなかったそうだ。
「天才と馬鹿は紙一重っていうし、彼は今の僕にとってみれば天からの福音だ。正直手詰まりで、他の研究者からはもうやめようと何度も言われていたんだ。あと少しだ。あと少しで、僕の言っていることが全部正しいと証明できる。妄想なんかじゃない、って!」
瑠璃仁の右目には少年のような熱い輝きを、左目には必ず成し得ようとする怜悧さを見つけた。春馬は深く頷いてみせた。
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