第26話 四次元的に考えれば病気は治りますよ。

 丸みを帯びた壁に囲まれた中心で、椋谷は掃除機の機械音を響かせたまま、立ち尽くしていた。部屋の主が戻ってこない。伊桜の熱が本当に下がらないのだ。危険な状態だと言われた。

(俺にできるのは、伊桜がいつ帰ってきてもいいように、掃除しておくことだけかな)

 そうは思っても、まるで手に付かない。

 二、三歩進んでは、手が止まってしまう。

「伊桜が心配?」

「あ……」

 掃除機の音にかき消されてか、瑠璃仁が入ってきていたことに気がつかなかった。

「そりゃな……」

 スイッチをオフにする。静寂になるが、長時間鼓膜が振動していたせいか、妙な違和感が残る。気付けばあたりはもう薄暗い。瑠璃仁は進み出て電気を点け、椋谷に言った。

「ねえ、伊桜を助けるために、治験に参加してみない?」

「治験?」

 俺が?

「そう。春馬はもう参加してくれている。この薬が完成したら、世界がひっくり返る。夢の薬さ」

 瑠璃仁は秘密を打ち明けるように言うと、語り出す。

「ゼロ次元上に存在しているとしたら、イメージとしては、魚群を感知するレーダーのようなもの。存在は点で表現されて、ただそこに「いる」とだけしかわからない世界。そうしたら君は伊桜のことを、姿形は知らないけど、「いる」とだけ認めるだろう」

 椋谷はさっぱり意図を掴めず、掃除機に腕を持たせかけながら、黙って聞く。

「もしもだよ。伊桜が、死にそうなことが分かったとするじゃない?」

「ああ……」

「でも、魚群レーダーに反応しているだけの伊桜は「点」でしかなくて、なぜ彼女が死にそうなのかがわからないから、助けに行くこともできない。しかも自分だって、「点」でしかない。「点」が「点」のために近づいてみて、一体なにができるんだ?」

「さあな……」

「そこで「点」は、次元を超える薬を受け取るのさ」

「ほー」

「ゼロ次元から、一次元へ。すると、さっきまで点だったものは、長さを持つようになった。小さい魚はほとんど点のまま。逆に大きい魚は、長い線になって表現されるんだ。伊桜は小さいから、伊桜という「線」は君という「線」よりずっと短いだろう。この世には、長さがあることを、君は知った」

「おう」

「でも、それでもまだ、伊桜が死にそうになっている理由がわからない」

「不明熱だからな」

「そう。不明なんだ。だから、さらに次元を上げる薬を、君は飲む」

「はあ」

「すると、今度はどうなると思う?」

「んん……」

 そう聞かれて、頭の中で、流し聞いていた話を反復する。

「えーと、点が線になって、線が……?」

「そう、線が?」

「何になるんだ?」

「面さ」

「面か。……つまり?」

 何が言いたいんだろうか。

「うん。伊桜の写真を見ることができるようになったのさ」

「そりゃまた……」

「そう。一気に進むのさ。一枚の厚みのないペラペラの物だけど、これはすごい情報だよね。もしかしたら、死にかけている原因だってここでわかっちゃうかもしれない。たとえば、おなかが破れて腸がはみ出している、とかね。写真でだってわかるだろ?」

「わかるけども」

「でも、写真で確認しただけじゃ、治すことはできない。自分も同じ写真の存在じゃ、針と糸を手に持って縫い合わせることだってできないからね。概念が足りなさすぎる。それじゃどうするかわかるかい?」

「次元を上げる薬を、また飲むんだろ」

「その通り! 大正解だよ」

「はあ……」

 適当な相槌も意に介さず、瑠璃仁はさらに問いかけてくる。

「するとどうなるか、わかる?」

「今と同じ……感じになる」

「そう。肉体を持っている今この世界。この世界が三次元って言うのはそういうこと。これで、君は伊桜を三次元的に認識したことで、外科的手術を行うことができ、伊桜は無事、助かりましたとさ。チャンチャン」

「よかったな」

 これで話は終わりだろうか。

「でも、ここで少し、巻き戻すよ?」

「ん」

「二次元――つまり伊桜の写真を見た時、パッと見でどこにも異常がなかったとするだろう。でも、伊桜は相変わらず死にかけの状態であるということだけは確かで。君はとりあえず、三次元の認識機能を手に入れる薬を飲むんだ」

「ああ」

「そうしたら立体的なアプローチが可能になり、伊桜の身体を触診する。聴診器で音を聞いて、トントンしたり、口の中を見たり。ここで、扁桃腺が腫れていて「風邪だ」とわかることもあるだろう」

「まあ……あるかもな」

「そう。そのはずなんだ。普通はね。でも彼女には、どうだい? なにか原因は、見つかった? 今、死にそうになっているけれど」

「……」

「じゃあ、君はどうする? 原因がわからない、さあどうする? 今の話を聞いて、どうすると思う?」

 椋谷は予測して言った。

「今より――三次元よりもさらに、次元を上げる薬か。四次元か?」

「その通り」

「そしたら、ここ以上の概念を持って、伊桜を見ることができるんだろ」

「大正解~」

「はは。ま、そんなのがあったらの話だな」

 空想話に楽しく付き合っていられるほど、精神的に余裕があるわけではなかった。

 そろそろ、掃除を再開させてもらってもいいだろうか。

「あるよ」

 瑠璃仁は、秘密を打ち明けるように囁く。

「なぜなら、薬がついに形になったからだ。治験に協力してくれる人を探している」

「……」

 そういえば、最初に言っていた。

「一本、脇道にそれるための薬さ。九十度脇道へ飛び出すんだ。x軸、y軸、z軸に――さらにもうひとつ九十度の角度で交わる四次元軸の世界の方へ。次元を超える。ぽーん、って!」

 世界を変える、開発中の薬があるって。

「そのために普通を、ねじ曲げるんだよ。精神の」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る