夜勤 with 堀越①
単刀直入に言う。風邪を引いた。
感染源については言及したくないが、見当はついている。
出勤直前に咽喉が焼けるように痛み始め、職場に着くと寒気も出てきた。
「大木さん、高杉様入院したよ……って、風邪?」
看護師の内林に指摘され、大木は否定した。しかし、頭がぼーっとする。
風邪だと知られるわけにはいかない。早退しようにも、代わりに出勤できる職員がいないだろう。
大木みたく正規職員の夜勤の出勤時間は16時だが、パートは16時半だ。ぎりぎりの時間になって、堀越が出勤してきた。タイムカードを押すと「あー、調子悪い」と大声でぼやいている。
堀越は、夜勤専門職員の男性だ。長く勤めた会社を定年退職後、介護職員初任者研修を受講し、3か月前にこの職場に勤め始めた。
身長は低くぽっちゃりしていて、岩居や萩野の指示にきびきびと動いている様子をよく見る。
「もう、やることないよね?」
挨拶もなしに、堀越は大木に訊ねてきた。
「デイからエアマットを持ってくることと、お茶を――」
「調子悪いから、あんたに任せた。俺、今日はあんまり動けそうにないから、後はよろしくね」
はつらつとした声で投げやりに言い、堀越は食事介助用の椅子にどかっと座った。
大木がおととい感じた嫌な予感が、的中した。
18時を過ぎて日勤の職員が退勤しても、何名かのご利用者様がホールで過ごされる。テレビ番組を見たくてホールに残るかたもいれば、就寝介助の時間を遅らせるために起きて頂いているかたもいる。
ご利用者様がホールにいる間、夜勤者は必ずひとりはホールで見守りをしなければならない。転倒などの事故が起こりかねないからだ。
大木は、椅子にどかっとすわったままの堀越に、ホールにいてもらうことにした。
夕食で使ったおしぼりやエプロンを洗濯したり、バイタル測定で居室をまわる。
ホールに戻ると、堀越の姿はなかった。
ホールのトイレの中から「おーい」と声がする。
大木がトイレの戸を開けると、風間クリ様が
「風間さん!」
大木は風間様の体を後ろから支え、車椅子に座って頂いた。
「……おトイレしようと思って」
風間様は、しゅんとなって口ごもる。
「ごめんなさいね。おトイレ、しましょうね」
大木は風間様に詫び、便座に座って頂いた。
風間様は認知症とパーキンソン症候群があり、「自分でできる」という認識から車椅子から降りて転倒するケースが以前からある。そのため、デイでもシニアでも見守りは必須だ。
それなのに、堀越は見守りをせずにどこかへ行ってしまった。
「風間さん、痛いところはありませんか? お怪我はありませんか?」
「ないわよ。ごめんね」
「いいえ、念のため、血圧を測りましょう」
これは事故報告書を書かなくてはならない、と大木は思った。
血圧は正常値だった。風間様は申し訳なさそうにトイレを終え、大人しくホールのテレビを見始めた。
「おい!」
ご利用者様のいるホールに、怒鳴り声が響いた。
「遊んでないで仕事しろよ!」
堀越だった。顔を真っ赤にし、ぎらぎらした目で大木を睨みつける。
その様子に迫力はないが、本人は本気だ。
「いいか? 俺はパートで、あんたは正社員。俺はあんたの補佐なんだよ。あんたが
堀越は風間様の車椅子を蹴り、もはや定位置となった椅子に座った。
「あーあ、あの人はあんたのことを“できる人”だって言ってたけど、とんだ見当違いだな。あんたに介護してもらう年寄りが不憫だよ」
大木は、色々と物申したくなった。高橋だったら黙り込んでしまうところだろう。大木はあいにくそんな可愛い子ではない。仕事で間違っていることはあれば遠慮なく口に出す。
でも、今日は無理だ。明らかに熱っぽく、体がだるい。解熱鎮痛剤を飲んだが、効いている感じがしない。
体が言うことをきかなくなる前に、起きているかたの就寝介助を行うことにした。
風間様は就寝薬を服用して30分が起きている方が、良く眠れるらしい。しかし、今日は服薬後、すぐに居室へお連れした。
20時前には、就寝介助が必要なかたは全員居室のベッドにいた。
ホールにいるのは、自分の意志と独歩でテレビを見に来た
大木は排泄チェック表に記入し、からからの咽喉をミネラルウォーターで潤した。
持参した水分だけでは一晩もたないかもしれない。
「堀越さん、自販機まで行ってきます。すぐに戻ります」
返事はない。堀越は島谷様と一緒にテレビを見ている。
歩いて10秒ほどの近所に、自動販売機がある。そこでコーヒーを買おうかと、大木は外に出た。
かちゃん。
背後で、錠が閉まる音がした。
信じたくなくて扉を引くが、動かない。
チャイムを鳴らしても、応答がない。
「嘘、でしょ……?」
大木は、ぶるりと身震いした。
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