夜勤 with 高橋②
午前4時過ぎ。
高橋がお上品にサンドイッチで腹ごしらえをしている間に、大木はベランダで一服する。
起床介助の順番を頭の中でシミュレーションしている間に、煙草は短くなっていた。
大木は一口だけ煙を吸い込み、水の入った缶に残りを捨てた。
ベランダから室内に戻り、施錠する。
「高橋、無理しないでね」
22時頃に鬱症状が出そうになっていた高橋は、今はけろっとしている。
「その台詞、そっくりそのまま大木さんにお返しします」
どや顔で言ってくれた。
5時に手分けしておむつ交換と起床介助をする。
昨日、ラキソベロン10滴飲んだ清瀬様は、反応便がおむつの中で爆発していた。軟便がズボンにも付いてしまったため、着替えもしなければならない。
陰部洗浄用のシャワーボトルにぬるま湯を入れ、皮膚に残る便は洗い流してしまう。
清拭で水気を拭き、新しいおむつとパットに換えると、清瀬様は幸せそうな表情をしていた。
「清瀬さん、綺麗になりましたよ。うんちが出てよかったですね」
忙しいが、怒ってはいけない。ご利用者様が清潔になったことを喜ぶ。そのことについて、大木はストレスにも感じていない。
もしも自分が清瀬様と同じ立場だったら、介助者に手間をかけさせて申し訳なく思ってしまう。そんなとき、介助者に怒られたら悲しくなってしまう。
相手の立場になって気持ちを察することは、ときに難しい。それでも、察することはやめたくない。
おむつ交換の途中だが、プラスチックグローブの予備を持ってこなかったことに気付いた。
大木が一旦ホールへ戻ると、高橋がぱたぱたと駆けてきた。
「どうしたの?」
「それが、高杉様が……!」
明らかにうろたえている。顔も真っ青だ。
「高杉様のおむつ交換をしていたら、すごい
高橋が仮眠をとっていた0時も、大木がおむつ交換をしたときは熱感はなかった。夜間のバイタル測定をしているかたではなく、急に
「とりあえず、バイタル測ってきます」
「うん、お願いします。クーリング、用意しておくね」
「ありがとうございます」
高橋は、体温計、血圧計、パルスオキシメーターを持って高杉様の居室へ向かう。
高橋がバイタル測定を行っている間に、大木は氷枕を包むタオルと巾着袋を用意し、冷凍庫から氷枕と小さな保冷剤を探した。氷枕や保冷剤は、「クーリング」と呼んでいる。
「大木さん、高杉様の血圧は正常なのですが……」
高橋は肩で息をして報告をくれる。
「KTが40.2、SpO2が89%と90%を行き来していて……」
良くない、と大木は思った。
KTは体温、SpO2は動脈血酸素飽和度。かなりの高熱だ。SpO2も90%を下回ってしまうと、肺気腫などの病気を疑い、在宅酸素が必要になる場合もある。
「クーリングしてさしあげて。頭部と、片方の
本当は両脇にクーリングを入れたいくらいだが、正しいKTが測れなくなるため、片方はの脇は空けておかなければならない。
「施設長と
「……すみません。お願いします」
高橋はクーリングを抱え、再び居室へ向かった。
大木は、施設長に電話をかけ、高杉様の件を報告。往診医に連絡する許可をもらった。それから、往診医の緊急連絡先に電話をする。
往診医の返事は、「クーリングを続けて、1時間後にまたKTの報告が欲しい」とのことだった。
高杉様のクーリングを始めて1時間。大木は気が気でなかった。
ご利用者様に知られてはいけない。「明日は我が身」の人達なのだ。動揺を知られてもいけない。
歩行器でのんびりとホールへ向かう
大木が、更衣に時間がかかる副島様の見守りをしているうちに、高橋は再度高杉様のKTを測って往診医に連絡してくれたようだ。
「――失礼します」
高橋は受話器を置き、看護室に入って何かを探し始める。
「あった!」
高橋が手にしたのは、解熱鎮痛剤。カロナールだった。夜間に介護職員でも使えるように、わかりやすいところに置いてもらっている。
「高橋?」
大木が声をかけると、高橋は驚いたように顔を上げた。
「ドクターから指示が出ました。カロナールを入れてほしい、と。今からやります」
「カロナールを入れるって……!」
カロナールは、水で服用する錠剤である。
しかし、高杉様は水であれ食べ物であれ、
高杉様が服薬するためには、胃瘻から投薬するしかない。
しかし、投薬を含め、経管栄養を開始する行為は、看護師しか行うことができない。
「シリンジと経管のチューブを
「待って、高橋」
大木が二の句を継ぐ前に、ナースコールが鳴った。
「施設長と看護師に連絡しよう。すぐに戻るから、待っていて」
今この瞬間に最優先すべきは、風間様だ。大木は風間様の居室へ直行し、起床して頂いた。
風間様の車椅子を押しながら早足でホールへ戻ると、高橋は待たずに電話をかけていた。
「施設長に伺いました。ドクターに話して下さるそうです。平井さんにも、内林さんにも、来られるか訊いて下さるって。道具は用意してほしいと言われました」
「了解。道具を用意したら、私達は起床介助の続きをやるよ」
「……はい」
高橋は返事をしたものの、納得いかないようだった。
熱発した高杉様が気になるのは、大木も同じだ。だからといって、通常業務をおろそかにしてはいけない。
「ご利用者様は高杉様だけではありませんからね。私は平気です。高杉様もそれ以外のかたも、気にしながらやります」
平気だという割には平気そうではない。しかし、頭では理解してくれた。
そろそろ7時になる。キッチンの早番の職員はとっくに出勤しており、米飯の炊ける匂いがホールを満たしている。
「朝のバイタル、未だ測っていないですよね。私、測ってきます」
「そうだった! 高橋、任せた」
「承知でござるー」
高橋は、血圧計と記録用紙を持って、該当のご利用者様の居室を訪ねる。言葉はふざけ気味だが、いつものひょうきんなキャラクターを演じようとしている。彼女なりに平常心を戻そうとしているのだろう。
「大木さん、高杉様どうなった?」
看護師の内林が来てくれた。
施設長は、早くも内林と連絡をとってくれたようだ。それにしても、早い。
「最初の熱発の報告があったときかな。施設長から電話をもらったの。カロナールを入れるかもしれないから、出勤できるようにしてほしいって。待ち切れなくて来ちゃった。さっきの着信は施設長かな。折り返さなくちゃ」
内林は喋りながらも、コートを脱いでエプロンを着ている。エプロンのポケットにスマートフォンと筆記用具を入れ「じゃあ、行ってくる」と高杉様の居室へ向かった。
大木は、起こしていなかった清瀬様と真崎様をベッドから車椅子に移乗し、ホールへお連れした。
高橋もバイタル測定を終えて戻ってくる。
7時過ぎに、早番の萩野が出勤してきた。介護職員の早番は7時半からの勤務だが、早く来る職員もいる。
「高橋、内林さんも萩野さんもいるから、私達はこっちに集中しよう」
「はい。高杉様、一安心ですね」
高橋の表情には、安堵の色が浮かんでいた。
しかし、忙しいのはこれからだ。
配膳、食事介助、配薬、口腔ケア、トイレ介助、エアマットをデイへ運ぶ、おしぼりとエプロンを洗濯する……これらを90分のうちに終え、夜勤記録を書かなくてはならないのだ。
「……やっと終わった」
「……とてつもない達成感です」
ふたりは12時間前と同じことを呟いていた。
「あとは居室整理ですかね」
「未だそれが残っていたか」
ご利用者様は9時半までにデイへ移動する。夜勤者はその後、ご利用者様の居室のゴミを回収し、掛布団を畳み直す。エアコンの電源を切ることも忘れてはいけない。
高杉様はKTが少しだけ下がったが、今日はデイへ移動せずに居室で過ごすことになった。高杉様の居室はそのままにする。
居室整理も終えると、定時である10時を過ぎていた。
事務所に夜勤記録を提出してタイムカードを押すと、高橋はなぜかマスクをつけてシニアの居室へ向かう。
「高杉様に挨拶してきます」
大木も何となく高橋について行く。
「高杉さん」
高橋はベッドサイドにしゃがみ込み、臥床する高杉様と視線の位置を合わせる。
高杉様は、他のご利用者様の在宅酸素を借り、鼻にチューブをつけていた。
「高杉さん、お大事になさって下さい。苦しかったら、叫んでも良いのですよ」
高杉様は両方のまぶたを開けた。
「ありがと」
聞き洩らしてしまいそうなほど小さな、ソプラノボイスだった。
高杉様は目を閉じ、静かに呼吸を繰り返す。
高橋はしゃがみ込んだまま微動だにせず、高杉様を見つめている。
「高橋、寝てるの? 泣いてるの?」
「寝ていません! 夢になるといけねえですから!」
――ありがと。
高杉様の一言は、高橋にとって今日一番の“ごほうび”だろう。
高橋は、高杉様の熱発にすぐに気付き、対応してくれた。
すぐにでもカロナールを入れたかったに違いない。看護師が来るまでよく耐えたものだ。
パニックを起こしたり泣いたりしてもおかしくなかった。高橋は、本当に頑張った。
大木の知らないところで、彼女は介護職員として成長している。
実は、今回の夜勤の最中に、
介護職になって嫌じゃないのか、と。
訊くまでもなかった。訊かなくて良かった。
答えは、高杉様への態度に出ていた。
こういう子には、
「あ、そういえば」
玄関でシューズを履きかえる直前、高橋が言い出した。
「大木さん、あさっては堀越さんと夜勤ですよね」
「そうだけど」
「余計なことかもしれませんが」
高橋は声をひそめる。
「少しでも、つらいと思ったら、施設長か国友さんに連絡することをおすすめします」
高橋は、まるで警戒するような口ぶりだった。
この間、岩居は堀越のことを「しっかりしているから大丈夫」と言っていた。
高橋と岩居の間で、堀越の印象が大きく異なる。
なぜだろう。嫌な予感がする。
あさっての夜勤は、何も起こらないでほしい。
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