夜勤 with 高橋①
2年前は短髪だった大木が髪を伸ばし始めたのは、高橋がきっかけだった。
最初に会った頃の高橋は、お嬢様学校の模範生のような長い黒髪で、文学少女の雰囲気だった。
高橋は呑気だと思われてもおかしくないほど大らかで優しくて、いかにも“女の子”で、大木にはそれが
最初の職場を退職し、図書館の臨時職員に採用された後も、たびたび高橋のことを思い出した。
高橋は女性で唯一、大木を表立ってかばってくれた人だった。
高橋のように優しく、女性らしくなりたい、と思うようになり、まずは髪を伸ばすことを試みた。
髪が長過ぎても邪魔だから、セミロングでキープして、たまにはシュシュやヘアクリップを使ってみて、周りの反応を気にしてみた。
それはそれで成功した。妹は「可愛い」と言ってくれて、母親も「悪くない」と評価してくれた。
高橋とは互いのアドレスを知っていたので、ごくたまに連絡をとっていた。
高橋はいつの間にか事務職を辞め、埼玉県の介護施設で介護職員をしていた。
「介護職員募集中なのです。大木さんも一緒に働きませんか?」
その言葉が、大木にとって転機となる気がした。
大木は図書館の臨時職員の期間を満了すると、埼玉県に引っ越して、介護職員として再出発した。
世の中のために働きたいと思っていた。図書館も嫌ではなかったが、やはり介護の仕事がやりたかった。
夜勤の日は始業時間の1時間前に出勤すると決めている。慌てずに申し送りを聞くことができるし、ご利用者様の様子も見ることができるからだ。
大木は今日も15時に出勤し、
デイのホールを見回してみたが、イレギュラーに静養しているご利用者様はいなかった。
日勤者からの申し送りを聞く前に、看護師の内林志穂からご利用者様の日中の様子を聞いてみる。
「具合の悪いかたはいなかったよ。
内林は、今年29歳になる准看護師だ。結婚しており、1児のママであるが、ご利用者様に何かあるとすぐに駆けつけてくれる。
「ご利用者様に関してはこれくらいなんだけど……」
内林は、声をひそめて話を続ける。
「あの人とは、どうなったの?」
「あの人」
大木は動揺しないように、ゆっくり言葉を繰り返す。
「あの人、とは?」
「噂の童顔バリトンボイス」
「業務とは関係ないのでお答えしません」
各居室のエアコンをつけたり、ご利用者様の点眼をしたり、夕方の業務はたくさん残っている。
話を中断して業務を再開しようとしたが、「童顔バリトンボイスと、どこまで進んだのですか」と第三者が加わってきた。
「こらっ、高橋」
「はい、高橋です」
気配を消して忍び寄ってきた高橋は、いたずらっ子のように「えへへ」と笑った。大木は、あんたこそ甲田とはどうなったの、と言いたい。
高橋は、ブラウンのフレームの眼鏡をかけていて、いつもと印象が違う。近眼の高橋は、普段はコンタクトレンズをつけているが、夜勤のときは眼鏡をかけて来る。朝方になると、コンタクトレンズが乾燥して目が開かなくなるらしい。
「高橋、仕事するよ!」
大木は
今日は奇跡的に、18時前に就寝介助を終えることができた。
日勤者は定時で退勤し、夜勤の大木と高橋がシニアのホールに残る。
21時のおむつ交換までの約3時間は、バイタル測定が必要なかたや、時間をずらして就寝介助をするかた、就寝薬を服用するかた、眠りが浅くナースコールを連打するかたなどの対応で慌ただしい。
21時のおむつ交換が終わり、ご利用者様のいなくなったホールで、ふたりして溜息をついた。
「……やっと終わった」
「……とてつもない達成感です」
高橋は、言葉こそポジティブだが、整った美人顔には疲れの色が出ている。
ボブカットの黒髪も、心なしか
そう。今の高橋はロングではなくボブヘアなのだ。
「高橋、紅茶飲む?」
「飲みます、飲みます」
「ダージリンとアールグレイ、どっちが良い?」
「うーん……」
高橋はロッカーから自分持ちのマグカップを出してきた。
「ダージリン、おくんなまし」
以前の高橋は、事務所で大人しくパソコンをしている印象だった。
ところが今は、手際よく介助をこなし、レクリエーションを積極的に行う、アクティブな子である。
誰にでも優しく、実は落語が好きだというひょうきんな一面もある。彼女の持ちネタは「夢になるといけねえ」「秩父夜祭の花火」「あれから40年」「ハンドバッグを後ろに抱え」など。
しかし、ひょうきんな明るさとは対極的に、心に闇も抱えている。
何かが引き金になると、うつ症状やパニック発作を起こすようになっていた。
なぜそうなってしまったのか、大木は未だに知らない。
おむつ交換は、決まった時間に行うわけではない。
その人に合ったサイズのおむつ、吸収力のパットを使い、尿量によって交換する時間が異なる。
高杉としこ様は、
高杉様は尿カテーテルを留置しており、排尿はハルンパックに溜めている。尿は朝方破棄する予定だ。
おむつ交換では、排便と臀部の皮膚の状態を確認し、体位交換用の枕を左右入れ換える。
排便マイナス。臀部が赤く皮剥けも生じているため、
ふと、職員・小野里の言葉を思い出した。
『俺さあ、
小野里は、40歳を過ぎて成り行きで介護職員になったらしい。
率先しておむつ交換をこなし、スピードと丁寧さはベテランの岩居にも引けを取らない。
介護のやりがいに気付き、自分の長所を伸ばすことに成功したのだろう。
しかし、小野里は辞める予定だ。収入のために、介護職を辞める決断をした。
大木には、それを止めることはできない。
高杉様のおむつのテープをしっかりとめ、衣類を直してしわも伸ばす。
「終わりましたよ」と声をかけると、高杉様はソプラノ声で「はい」と返事をした。
弛緩麻痺のため自力で動けず、認知症状もあるが、簡単な会話はできるかただ。
高杉様の返事を聞くと、大木は安心する。介助をして良かったと思う。
大木がホールに戻ると、高橋がテーブルに肘をついて両手で顔をおおっていた。
「高橋?」
大木の声に弾かれるように、高橋は顔を上げて眼鏡をかけた。
「情けないです。今頃、伊丹様のことを思い出してしまって」
伊丹様というのは、ふたりの最初の職場・特養「くすのき」に併設されているケアハウスに入居されていたかただ。そこからデイサービスに通っていた。しっかりした80歳の女性で、シルバーカーを押して買い物に行く印象もあった。
高橋の口から伊丹様の名が出てくることはたびたびあったが、核心的なことは聞いていない。
大木から訊ねることはしない。高橋が話せるときが来たら、傾聴すればいい。
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