オレンジリング⑤
寝苦しくて目が覚めた。
横になったままローテーブルに手を伸ばすが、目的のものが取れない。
甲田は、汗だくの体を起こして目を凝らした。
仮眠の前には、携帯電話、卓上時計、エアコンのリモコン、2Lのミネラルウォーターをローテーブルに置いていた。しかし、今はひとつもない。
おまけに、エアコンはごうごうと
間違えて暖房をつけてしまったか。否、甲田の前に仮眠をとっていた人は冷房をつけたまま仮眠室から出ていき、甲田は設定をいじっていない。
おかしい。
甲田は廊下に出ようとして仮眠室の戸に手をかける。しかし、戸は動かない。
鍵を開けるのを忘れたと思って錠をまわすと、今度は鍵がかかってしまった。
おかしい。
仮眠の前に鍵をかけたのに、開いていたようだ。
おかしい。
なぜ自分はこんな灼熱地獄にいるのだろうか。
◇ ◆ ◇
甲田は5月に20歳の誕生日を迎えた。
鹿木が「お祝いしちゃる」と言ってくれたので、甲田は「飲みにつれてって」とお願いした。ついでに、店も指定して。
下宿から離れた和風バル。小さなステージに立つのは、4人組のバンドだ。
「しーちゃんの上司って、ベースの人か?」
「そうです」
「横須賀の元ヤンキーみたいな人」
「失礼ですよ。東京生まれ沖縄育ちだそうです」
女性ボーカルが、しっとりした調子の歌を歌っている。
場の雰囲気を壊さぬよう、ふたりは小声で話す。
「しーちゃん、この歌知っとる?」
「『蘇州夜曲』ですよね。李香蘭の」
「しーちゃんみたいな童貞には、歌詞の意味まではわからんやろ」
「俺、童貞じゃないですよ?」
鹿木が日本酒を吹き出した。被害はテーブルのみで済んだ。
「おまっ……いつ……!」
「高校生のときに、付き合っていた子と」
動揺を隠せない鹿木を尻目に、甲田はおしぼりを広げてテーブルを拭いた。介護現場でそうしているように。
注文していた竜田揚げの大皿とビールが運ばれてくる頃には、テーブルはすっかり綺麗になった。
「……お前、最近俺を手玉に取るよな?」
「そうでしょうか?」
ビールの泡をすすりながら、甲田は「そうかもしれない」と思った。
当初は鹿木のペースに乗せられていた甲田だったが、近頃は鹿木を自分のペースに乗せている。
甲田が上目遣いでお願いをすると、鹿木は悔しがりながらもお願いを引き受けてくれる。
今日も「おごって!」とお願いしたところOKをもらえた。ただし、一度この手を使うと、3日くらいは効果がない。
勘違いされたくないし、しばらくはやらない方が良いかも……と甲田が考えている間に、バンドは2曲ほど演奏を終え、ステージの立ち位置を変えていた。
ステージの中央に立つのは、ベース担当の
やがて彼は、息をいっぱいに吸い込んで歌を紡ぎ始める。
普段のだみ声からは想像もつかない、深く響く声だ。
甲田は、不思議な感覚をおぼえた。
心が洗われる、というのはこういう心境になることなのかもしれない。
鹿木は号泣していた。多分、酒もまわっている。
下宿までの帰り道、甲田は鹿木に言われた。
「こんな俺とつるんでくれて、ありがとう」
甲田も鹿木に伝えた。
「先生こそ、生きてくれてありがとう」
鹿木はまた、滝のような涙を流し始めた。号泣は2分ほど続いた。
雲ひとつない、晴れた夜だった。
酔った勢いで鹿木に部屋に来られると迷惑なので、甲田はその日は部屋の鍵をかけて寝た。
◇ ◆ ◇
加地は優しいが、仕事には厳しかった。
介護主任になって始めに職員に徹底させたのは、入居者様に対する認識を“さん”ではなく“様”に改めることだ。
本人様の前では“さん”が好ましいが、申し送りや職員間の会話では“様”をつけてお呼びすること。基本的なことだが、やらない職員が多かった。
加地は、自分のメモであっても入居者様の名は“様”をつけるようにすすめた。
もともとそのようにしていた職員には大したことではなかったが、そうでない職員からは大反発が生じた。
――メモくらい自由にさせてほしい。
――せっかく築いた信頼関係がぎくしゃくしてしまう。
――介護主任はもっと大切なことに目を向けるべきだ。
様々な反対理由が出たが、加地は己を曲げることはなかった。
しばらくすると、「“様”付けした方が丁寧で良いかもしれない」という職員が増えてきた。
しかし、加地に反対し加地を敵視する職員が生じたのも事実だ。
ひとり1日1枚ヒヤリハットの提出を義務化された。怪我にならない小さな事故でも事故報告書の提出を求められることになった。
発案者は加地である。
「ヒヤリハットが多い入居者様は事故につながる傾向が強い」
「事故報告書は犯人探しをするものではない。事故が起こったことを他の職員にも知ってもらうための書類だ」
加地は力強く訴えた。
本当かよ、と多くの職員が首を傾げた。ヒヤリハットも事故報告書も、介護職員にとっては始末書のようなものだ。
それでも、職員は渋々書いた。
「さくらの森」では、入居者様全員の食事摂取量と水分摂取量を記録している。
食事摂取量は目見当でしか計ることができないが、水分摂取量は計量カップを使って計ったらどうかと加地が提案してきた。
水分の残量を計り、そこから摂取量を逆算するのだ。
早速、表立って反対することが現れた。
――いちいちそのようなことをしていたら、仕事の能率が下がる。
――細かく計ったところで、目見当と大差ないだろう。
ひそかに賛成する人もいたが、表立って言える空気ではなかった。
計量カップで水分を計る案は、生活相談員の松野も賛成した。
しかし、購入する計量カップのことで、加地、松野、事務職員がもめた。
加地は、「熱湯を入れることが多いから」と耐熱性の計量カップを使いたがった。
事務職員は、百均の計量カップで充分だと主張した。
松野は、百均の計量カップを使ってみて割れずに保つ期間を見たい、と言った。
結局、百均の計量カップを購入し、各ユニットに置くことになった。
反対派の職員は、加地のいないところでは計量カップを使わずに目見当での水分摂取量を記録した。
加地を敵視する職員は、口を揃えて加地を非難した。
「それみろ」と。
◇ ◆ ◇
関東地方が梅雨入りする頃、「さくらの森」の職員間も陰湿になってきた。
早番だった甲田は、昼休みに鹿木特製のチンジャオロース丼をたらふく食べてテーブルに突っ伏していた。
甲田は、どちらかといえば加地賛成派だ。
加地が来る前から入居者様には“様”付けしていた。「自分のメモでも“様”まで書かないと気が済まないんです」と周りに話していたから、煙たがられていたかもしれない。
ヒヤリハットと事故報告書は、進んで書いて提出した。加地の考えは目から鱗で、その通りだと思ったからだ。
水分量も計量カップで計った。空いたカップにお茶を淹れて冷ましてから、計量カップにお茶を入れて水分量を計った。熱湯を計量カップに注ぎたくなかったからだ。
なぜ他の職員は、素直に加地の考えを受け入れられないのだろうか。最近甲田はそう思うようになっていた。
うとうとし始めたときに耳に入ってきたのは、女性職員の噂話だ。
「加地さん、不倫してるんだって?」
加地は妻帯者だ。子どもはいないが、雑談を聞いているとかなりの愛妻家であることがうかがえる。
だから、不倫疑惑が出た時点で甲田には寝耳に水だった。
しかし、衝撃的なのはここからだ。
「不倫してるらしいよ。甲田くんと」
俺ですか!?
甲田は、弾かれるように顔を上げた。
噂話をしていた女性職員達も驚いていた。甲田がいたことに気付いていなかったらしい。
「ないです。1000%ありえません、だいたい、俺は加地さんから怒られてばかりですよ。不倫どころか、部下としても信用されていませんから」
甲田は早期に否定した。
「……ごめんね、甲田くん。根も葉もない噂だから、忘れてちょうだい」
「でも甲田くん、自分が思っているより信用されているよ?」
「そうですか。恐れ入ります」
甲田は再び午睡に入った。
女性職員達は声をひそめて話を続ける。
「甲田が辞めたら、加地も辞めるかな?」
「辞めてもらいたいわね」
加地に信用されているのは、甲田ではなく吉井だ。
本人のいないところでは特に、加地は吉井を評価している。
しかし、その評価は吉井本人には受け入れられていない。それどころか、吉井は加地に嫌われていると思い込んでいる。
加地は本人の前で褒めることをしない。それどころか、口うるさく指導する。
期待していることへの裏返しなのだろうけど、指導の多さに吉井は明らかに気が滅入っていた。
「俺、辞めるかも」
吉井はたびたび口に出していた。
おそらく加地は、吉井が辞めることを良しとしない。
ただでさえ男性の介護職員は少ないのだ。男での有無で介護業務の能率も変わってくる。
松野もその理由で、吉井を引き止めている。
加地は本当に真面目で、仕事に厳しい。
1時間前には出勤して、施設全体に目を配ろうとする。
良い施設にしたいと加地が考えていることは、職員全員が知っている。知っているからこそ、理解したくない職員もいる。
加地への不満は、甲田に飛び火した。例の不倫疑惑が蒸し返された。
――甲田、加地のライブを見に行ったらしいよ。
――信用されていないと思ったら、普通は行かないよね。
――やっぱり、あのふたりは何かあるんだよ。
――男同士だよ?
――でも、甲田って可愛い顔してるじゃん。男女関係なく相手の
――確かに。
――加地、普通に甲田を評価しているよ。吉井とは別ベクトルで気に入ってるんだよ。
――加地の奥さんが可哀想。奥さんに会ったことはないけど。
職員の不満は、2月の藤井様離設の件にも触れた。
――甲田はあのとき辞めるべきだった。
――甲田に責任がないのはおかしい。
――当時の相談員が辞めることはなかったのに。
――あんなに扱いにくい奴、辞めさせた方が良いよ。
――でも、どんなに工夫しても、甲田がめげてくれないんだよね。
――思い切って、犯罪すれすれにしちゃえば?
――駄目だよー?
◇ ◆ ◇
汗が止まった。しかし、体は異様に熱いままだ。
室内が徐々に明るくなってきている。日が昇っているようだ。
何が何でもここから出なくては。
甲田は意識が落ちそうになるのをこらえ、渾身の力を込めて戸を引いた。
べりべりと接着剤がはがれる音をたて、戸は開いた。エアコンの熱風で接着剤が溶け始めていたようだ。
おかしい。
戸の先に、あるべきはずの廊下はなかった。
甲田の目の前にそびえるのは、段ボール箱の壁だ。隙間風も通さんばかりに積まれている。
おかしい。
甲田は、もはや冷静な判断ができない。
おかしい。
なぜ、この職場はこんな風になってしまったのだろうか。
本当に加地のせいなのか。
甲田に原因があるのか。
おかしい。
職員はなぜ、考えもせずに逐一反発するのだろうか。
職員はなぜ、普通に業務ができないのだろうか。
――どうなっちまったんだよ!
甲田は捨て身の覚悟で、目の前の壁に体当たりをした。
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