オレンジリング⑥

 新古書店の自動ドアを出て段差を下りようとしたところ、足がもつれた。

 転ぶかもしれないと思ったとき、腕をつかまれ背中を支えられる。

「お客様、大丈夫ですか?」

 支えてくれたのは、若い店員だった。店員のおかげで、転ぶことはなかった。

 ここの店員にしては珍しく、年寄りに優しい。レジ打ちも慣れていたが、介護の仕事にも向いてそうだ。

 若者は、自転車置き場までついてきて、道に出るところまで見守ってくれた。

「お気をつけてお帰り下さいませ。ありがとうございました!」

 おまけに、頭まで深々と下げてくれる。

 最近の若者は、意外と捨てたものではない。


     ◇   ◆   ◇


「持ち場を離れてしまって、大変申し訳ありませんでした!」

 店に戻ると、甲田は先輩店員に謝罪した。

「お客さんも少なかったから、少しくらいなら平気だよ。あのおじいちゃんが怪我をしなくて良かった。危ない歩き方をしていたもんね」

「でも、今後は気をつけます」



 スタッフルームで甲田がコンビニのカレーライスを食べていると、他のアルバイトの子も休憩に来た。大学でテニスサークルに入っているという青年だ。先輩店員から“もっちゃん”と呼ばれている。

「甲田さん、先輩から聞きましたよ。おじいちゃんを守ったそうですね」

「そんな美談じゃないですよ」

「またまたー」

 青年はパイプ椅子にどかっと座り、カップラーメンのふたを開けた。

「甲田さんて何歳なんですか?」

「20歳です」

「俺と同い年じゃないですか! じゃあ、今度大学3年生?」

「いえ、高卒なんです。一度就職したんですけど、1年半くらいで辞めました」

「仕事、何してたんですか?」

「介護です」

「介護!」

 偏見の目で見られるかな、と甲田は思ったが、青年の反応は違った。

「だからか。甲田さん、すごく安全第一って感じがするんです。掃除も丁寧だし、足元にものを置かないようにしているし、棚の上の方とかも気にするし。危険に対しての予想が速いんですよね。でもって、さっきのおじいちゃんの件でしょ? すごいな。介護って、こんなところにも役に立つんですね」

「大げさですよ」

 大学生はこんな感じなのだろうか。介護のことを褒めてもらえるのはありがたいが、ノリが軽い気もした。

 ところが、青年は急に真面目な顔になって訊ねてきた。

「なぜ、辞めてしまったんですか?」

「なぜ、と言われると……」

 甲田は少々考えてしまった。

 青年はきっと、就職活動を来年に控えているのだろう。だから、就活経験のある甲田から話を聞きたいのかもしれない。

「まあ、笑い話として聞いて頂ければ」

 気楽に聞いて、笑ってほしかった。甲田がこれから話すことは、他人には馬鹿馬鹿しい内容なのだ。



「入職したときから、上司に嫌われていました」

 当時の生活相談員から皮肉られ、「働いてほしくない」と言われた。

 虐待の濡れ衣を着せられ、入居者様の離設事故の責任を取らされそうになった。

「新しい上司にも嫌われました」

 加地に嫌われていた、と甲田は思っている。

 甲田は加地のことが嫌いではなく、むしろ厳しくてもついて行きたかった。

「周りからは、その上司と不倫していると思われました」

 不倫疑惑は、根も葉もない噂だった。

 加地を辞めさせたい人が言い出したらしい、と後で人づてに聞いた。

「上司もけっこう嫌われていて、俺が辞めれば上司も辞めると思われていました」

 散々、嫌がらせをされた。

 無断でシフトを変更され、遅刻や無意味な早朝出勤が増えた。

 連絡事項を伝えられなかった。

 「人殺し」と書かれた紙をロッカーに入れられた。

 甲田が交換したベッドシーツを勝手にはがされ、着床時に発覚した。

 甲田がゴミ収集場所に捨てたゴミを、袋を裂いて撒き散らされた。それも、破棄したおむつやパットを、だ。

 何度も何度も嫌がらせをされた。何度も心が折れそうになった。

 一番危なかったのは、8月に暖房の効いた仮眠室に閉じ込められたことだ。

 早番の看護師が、仮眠室前に積み上げられた段ボール箱を見つけ、それを崩したところ、ぐったりした甲田を見つけたのだそうだ。

 甲田はすぐに救急搬送され、入院した。熱中症による脱水症状で、少しでも遅ければ命を落としかねない状態だったそうだ。

 退院後も甲田はぐずぐすと体調を崩し、嫌がらせに耐えられなくなった。

 9月末を以て、甲田は「さくらの森」を退職した。



 青年“もっちゃん”は、鼻をぐずぐずと鳴らして泣いていた。

「甲田さん、健気けなげじゃないですか!」

「えっ、どこが?」

「充分頑張りましたよ! もうすぐ幸せになれるって!」

「俺、シンデレラじゃないんだけど……」

 休憩時間は残り少ない。甲田は冷めてしまったカレーをかき込んだ。

「甲田さん、よくカレーが食べられますよね?」

「食べられますよ?」

 カレーライスは大好物だ。

 介護職員だったときも、排泄介助の後に平然とカレーを食べていた。



「しーちゃん、またね!」

「もっちゃん、おつかれさま!」

 青年は自転車、甲田はバイクに乗り、自宅を目指す。

 東の空はすっかり暗くなってしまったが、西の稜線付近がわずかに明るい。確実に日照時間は延びている。

 4か月前である11月上旬、甲田は8年ぶりにこの地を訪ねた。

 まずはじめに、山が美しいと思った。故郷、東京では山が見えるかどうかなど意識したことはなかった。

 麦畑沿いの道をひたすら進み、「甲田」の表札のある敷地へ入る。

「じいちゃん、ただいま。バイクを貸してくれて、ありがとう」

「おう、しのぶ、おかえり。疲れたろう。じいちゃんが、かき揚げつくってやったからな」

「じいちゃん……俺がいないときは油を使わないでって言ってるのに」

 「さくらの森」を退職した後、甲田は祖父のいる埼玉県深谷市に引っ越した。

 気持ちを切り換えたかったのも理由のひとつだが、甲田の退職と同時期に脳梗塞で倒れた祖父の看病をしようと思ったのだ。

 しかし、祖父は後遺症ひとつなく、倒れる前と変わらぬ生活の質を保っていた。

 それでも油断はできない。いつまた倒れるかわからないからだ。

 甲田が祖父と同居することで、多少は祖父を見守ることができる。

「忍、じいちゃんと一緒にスマホに買い換えないか? じいちゃんが金出すから」

「じいちゃん、スマホで何をするの?」

「将棋ソフトをやりてえのさ。鈴木すずきさんちの泰造たいぞうさん、ボケが進んで相手にならんから」

 かつての将棋仲間の名前が出た。

「スマホ、考えておくよ」

「ついでに、車も買わないか? じいちゃんが金を出すから」

「じいちゃん、詐欺に遭ってない?」

 祖父の趣味は、将棋と大喜利と大河ドラマ。バイクも自動車も乗りこなし、農業に精を出す祖父は、孫の甲田から見てもエネルギッシュで若々しい。

 数年前に祖母が癌で他界したが、変わらずに生活している。

「忍に郵便が来てたぜ。あれは本か?」

 甲田宛ての郵便物は、なぜか仏壇にそなえられていた。

 B5サイズのクッション材の封筒を開ける。中に入っていたのは、本と一筆箋だ。



 『ようやく出版にこぎつけました。

  私なりの愛情です。    鹿木』



 一筆箋の文字は、右肩上がりで癖が強い。鹿木の字が、懐かしかった。

 「何が愛情だよ」と突っ込みを入れ、本も見る。

 変形のA5サイズくらいで、表紙の紙が厚い。ページ数は少ない。

 タイトルは、『だいだい』。作者名は、鹿木のペンネームだ。

 1ページに一首、短歌が載っている。たまに、短歌に関連した写真もページもある。

 ある写真を見て、甲田は思わず「げっ」と呟いた。

 斜めがけのリュックサック。チャックに下がっているのは、ポールチェーンを通したオレンジリングだ。

 甲田のリュックが、いつの間にか盗撮されていた。個人を特定するものは写っていないが、それでも自分のものだとわかると恥ずかしい。

 もう一度、本の表紙を見た。

 橙の輪――甲田が初めての夜勤明けで帰ってきた日、鹿木が眺めていた資料に書かれていたフレーズだ。鹿木はあのときから執筆していたようだ。



 あの頃は、つらかったけど楽しいこともあった。

 しかし、あの頃に戻りたいとは思わない。



 寝る前に、『橙の輪』を一通り読んだ。

 短歌のことはよくわからないが、他の人にも薦めたかった。

 今日仲良くなった青年“もっちゃん”は本が好きだと言っていたから、読むかもしれない。



 翌朝、畑仕事に行こうとしていた祖父を見つけ、声をかける。

「じいちゃん、おはよう」

 そのとき、なぜかふと思った。



 ――やっぱり俺、介護の仕事がやりたい。



 取り返しのつかない事故に遭遇した。職場の人間関係に耐えられず、挫折した。

 それでも許されるのなら、介護の仕事がしたい。



 『橙の輪』を読んだせいだろうか。今も通勤バッグにつけているオレンジリングを思い出した。

 オレンジリングは甲田の原点のようなものだ。

 認知証サポーターの講習を受けた中学生時代。

 改めて仕事を続けたいと思った社会人1年目。

 揺らぎながらも己の中にある考えを、オレンジリングは後押ししてくれる。



 「世の中のために働きたい」

 今の新古書店の仕事も嫌ではないが、介護の仕事がしたい。

 もう一度、きっと、できる。そう信じたい。


 【「オレンジリング」終】

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