オレンジリング④
2月は寒暖の差が激しい。
3月くらいの陽気になったかと思ったら、冬将軍が何日も居座ることもある。
甲田が夜勤入りの日は、夜の始め頃に降雪の予報が出ていた。
事務所でタイムカードを押すと、生活相談員に呼ばれた。
一緒に藤井様のところまで来てほしい、とのことだった。
藤井様は居室にいた。「しーちゃん!」と片手を上げる。そこに悪意は感じられない。
「甲田くん、謝罪して」
生活相談員は、デジタルカメラを起動しながら話す。視線の先は手元のデジカメで、甲田には向いていない。
「藤井さんに謝罪して。虐待したことを心からお詫びして」
「俺、虐待なんかしていません」
「それでも、謝罪してね。誠心誠意、許してもらえるような謝罪を」
「どうして……」
「いいから。これも仕事だよ。世の中のための、ね」
世の中のために働く。これは甲田の考え方だ。それを上司に引用されてしまうと、間違っていても反論できない。
甲田は抗いたい気持ちをこらえて、藤井様に深く頭を下げた。
「藤井さん、申し訳ありませんでした」
藤井様は、ぼそっと呟いた。「ちがうよ」と。
「本当に、申し訳ありませんでした!」
藤井様は、甲田の脇を通り過ぎて居室を出ようとする。
ピッ、とデジカメの音がした。
「甲田くん、謝罪できてないみたいだよ」
生活相談員は、再度デジカメを起動する。
甲田は藤井様の前に出て、床に膝をついた。
「虐待なんかして、大変申し訳ございませんでした!」
手も頭も床について、できる限りの土下座をする。
藤井様は、甲田をまたいで居室から出た。
「藤井さん!」
「甲田くん、どうするつもり?」
生活相談員は、デジカメを操作しながら甲田に問う。動画か写真を撮っていたようだ。
「相談員さん、これに何の意味があるのですか?」
「どうしても甲田くんにやってもらう必要があるの。生意気な口をきかないで、素直に指示に従ったらどうなの? これも仕事だよ」
生活相談員は甲田に「行け」とあごで指示をする。
甲田は藤井様を追いかけてホールへ向かった。
「藤井さん、ごめんなさい!」
ホールにいた入居者様と職員が、何事かと甲田を見た。しかし、すぐにレクリエーションに戻る。
「藤井さん!」
甲田は藤井様の袖をつかんだ。前を見ると、段ボール箱を運ぶ人が近くまで来ている。
「藤井さん、危ない!」
「……わっ、甲田くん?」
段ボール箱を運んでいた人が、立ち止まった。吉井だった。彼はなんだかんだで藤井様と甲田を気にかけてくれる。
「藤井さん、甲田くん、ごめん。ぶつからなかった?」
「大丈夫です」
「……しーちゃん、いじわるされてる。あのひとに」
藤井様は来た方を指差す。こっそり尾行していた生活相談員が陰に隠れた。
「しーちゃん、いいこ。わるくないよ」
藤井様は平手で、甲田の頭をぼんぼん叩いた。
「ごめんなさい、藤井さん」
甲田は、申し訳なさと安堵が入り混じる妙な感覚をおぼえた。
藤井様に、このようなわけのわからない茶番に付き合わせてしまった申し訳なさ。
藤井様が甲田を悪く思っていなかったことに対しての安堵。
叩かれた脳天は、少々痛かった。
「さくらの森」のユニット、廊下、階段へつながる扉は、電子錠となっている。それらは、解錠ボタンや数字の入力により解錠できるようになっている。
夜間帯は多くの照明を落とすが、ユニットの扉は閉めない人が多い。夜勤者の目が行き届くようにしたいからだ。
22時頃。誰かが階段への扉の解錠ボタンを押しているのが見えた。
甲田はたまたま巡視していて、それを目撃した。
開けられた扉へ駆け寄るが、直前で扉が閉まって自動的に施錠されてしまう。
職員の姿ではなかった。この時間にご家族様の面会もない。
考えられるのは、入居者様の
甲田は、電子錠を解いて階段を下りた。階下の扉が閉まる音が、階段室に重く反響する。
こんなに速く歩くことができる入居者様は、ひとりしかいない。
この時間は、玄関の自動ドアを施錠しないようだ。
甲田は外に出て、ようやく入居者様に追いついた。
「藤井さん!」
藤井様は振り返る。
「戻りましょう、藤井さん。ここは寒いですよ」
白い粒が、空からはらりと落ちてきた。気象情報の通り、雪が降ってきたのだ。
藤井様は、力なく首を横に振った。
「おれ、ここにいられない」
「いられます。藤井さん、行かないで下さい」
「しーちゃんも、ここにいちゃ、だめ。しーちゃん、ころされる」
「殺されません。藤井さんも俺も、大丈夫です。戻りましょう」
「だめ。もどれない」
ふたりして白い息を吐きながら「もどれない」「戻りましょう」を続ける。着衣は凍りつきそうなくらい冷えていた。
「藤井さん!」
甲田は力任せに藤井様の上腕をつかんで引っ張ったが、藤井様の方が力が強かった。
◇ ◆ ◇
次に気がついたのは、病院のベッドだった。
なぜこのようなところにいるのか、甲田には見当がつかなかった。
どういうわけか、ブラックアウトする前の記憶がない。
看護師と医師の話をまとめると、甲田は冷え切った状態で施設の外に倒れていたところ、職員の119番通報によって病院に搬送されたらしい。脳震盪による意識障害を起こしていたが、意識が回復し、その後は疲れたように眠っていたのだそうだ。
頭部CTに異常所見は認められず、全身のレントゲンでも骨折等は確認されなかった。骨盤が歪んでいることを指摘されたが、今回のものではないだろうと医師に言われた。
後は経過観察ということで、甲田は退院した。
退院の際、父が来てくれた。
父と会うのは、実に10か月ぶりだった。盆も年末年始も仕事だったから、実家に帰る余裕がなかった。
退院した日は、実家に泊まった。実家から職場に電話をかけた。迷惑をかけたことを詫び、明日ロッカーの貴重品を取りに行くことを伝えた。今後の勤務については、生活相談員と話し合うことになった。
藤井様のことは、訊けなかった。だいたいの想像はついている。
甲田は昨夜のことを徐々に思い出そうとしていた。
雪が舞う中、藤井様は離設しようとしていた。「ここにいられない」と話し、甲田には「ここにいちゃ、だめ」と言ってくれた。
藤井様は、ひそかに消えようとしていた。自分のためか、甲田を含め「さくらの森」に迷惑をかけてしまったと思ったのか……真相はわからない。おそらく、わかることはない。
翌日、甲田はひそかに貯めていたへそくりを全額持って実家を出た。
職場へ行く前に、駅近くの商業施設で菓子折を購入する。事務所の分と、配属しているユニットの分。
切符を買って電車に乗ったのも、実家から職場へ向かうのも、久しぶりだ。それこそ、1年以上前に一度きり。面接に行ったとき以来だ。
職場に着いたのは、正午近くだった。事務所には事務職員しかおらず、他の人達は合同会議に出席していると言われた。
会議が終わって事務所に戻ってきた施設長に挨拶をしたが、用事があるとかで途中で打ち切られてしまった。菓子折も渡せなかった。
生活相談員も甲田を一瞥し「松野さんと話せば?」と言い捨て、パソコン業務に入った。菓子折は事務職員が受け取ってくれた。
介護現場の人達は、甲田の復活を喜んでくれた。
吉井なんか、涙ぐんでいた。アグリ様と森様には「もう会えないかと思ったよお」と泣かれてしまった。
入居者様の目に触れないように職員に菓子折を渡し、甲田は松野を探した。
松野は会議室にいた。一緒に話していたのは、「りんごの森」の加地だ。
「甲田くん……!?」
松野は、女優並みに美しい容貌を崩さんばかりに驚いていた。
「松野さん、加地さん、おつかれさまです。ご迷惑をおかけしました」
「甲田、入院したって聞いたが」
話は加地の耳にも入っているようだ。
「はい。昨日退院しました。脳震盪だけで、後遺症もなさそうです。低体温にもなっていなかったとお医者様が仰っていました。気になったのは、骨盤が歪んでいたくらいです」
「骨盤……脳震盪とは関係ないな!」
加地は笑っていたが、松野に睨まれて笑いをこらえた。
「甲田くん、適当なところに座って」
松野に促され、甲田は遠くなく近くもないパイプ椅子に座った。近くに座るのは、恐れ多かった。
「松野さん、藤井様は……」
切り出されるのが怖かった。だから甲田は、自分から話を切り出した。
松野は目を伏せて首を横に振った。
「残念だけど……」
昨日の早朝、空き地で発見されたのだそうだ。雪は積もらなかったが、底冷えする日。すぐに死亡が確認された。
甲田は、非情にも泣けなかった。ただ、胸にぽっかり穴が開いたような感覚だった。
「甲田くん、ごめんなさい。私がちゃんとカンファレンスを強行していれば」
「松野さんは悪くありません。俺が藤井様を止められなかった。俺だけの責任です」
「……甲田。それは相談員の前で言わない方が良いぞ」
加地が口を開いた。
「相談員は、全て甲田の責任だと息巻いていた。難癖をつけてお前を辞めさせたがっている」
加地くん、と松野がたしなめる。加地は弁を止めるそぶりもない。
「松野さんだって聞いたでしょう。藤井様の甥子様が『虐待の事実があるなら本人の前で謝罪してほしい』と仰ったのを、相談員は安全策だと言って、虐待の事実はないのに甲田に土下座をさせた」
甲田に藤井様への謝罪を指示し動画か写真まで撮ろうとしたのは、そのような経緯だったのか。
「それと、甲田。お前だけの責任というのは、違う。これは皆の……法人全体の責任。職員ひとりひとりに責任があった。お前が責任を感じる必要はあるが、お前だけが責任を感じるのは間違っている……と先程の会議で結論が出ましたよね、松野さん」
この件はこれでおしまい、とばかりに加地は松野に同意を求める。
松野はぎこちなく頷いた。彼女は思慮深く己の中で芯が通っているが、周りからの押しに弱い。
「それでね、甲田くん。勤務なんだけど」
松野は、1週間の休みを提案してきた。
明日からでも仕事に復帰する気だった甲田を見透かすように、松野は整った眉をしかめる。
「脳震盪を甘く見ちゃ駄目よ。うちの中学生の息子、去年サッカーの試合で脳震盪を起こしたことがあるの。次の日に学校に行かせたら、英語のリスニングのテストで具合が悪くなって、しばらく遅刻と早退を繰り返して大変だったんだから。甲田くんもそうならないように、しっかり休んでちょうだい」
「お気遣いはありがたいのですが、相談員さんは何と?」
「休んでほしいって言ってたわ」
「永遠にな」
「こら」
松野に軽く怒られ、加地は肩をすくめた。
「ところで加地さんはなぜ残っていたのですか?」
会議室を出た甲田は、加地に訊ねてみた。
「雑談だよ。藤井様のことも気になっていたし、仕事をしない相談員も気にくわないし」
甲田は5月頃、藤井様に風呂に沈められそうになった。加地はそれを目の当たりにしていた。
「結局、藤井様のことはわかりませんでした」
「俺達は人間を相手に仕事をしているんだ。その人の全てがテンプレ化しているわけじゃない。突発的な行動も、抑えきれない感情もある。でも、そうやって理解しようとする努力は怠るな」
「この仕事、続けても良いのでしょうか?」
「辞めたいみたいな勝手なことを。入居者様は体を張って俺たちに色々教えて下さるんだ。この介助だと危ないとか、この様子のときは体調が悪いとか。俺達の仕事は、それを身をもって知って次に進むことだ」
「……はい」
「辞めるんじゃないぞ」
加地は自分の財布から名刺を抜き取って甲田に差し出した。
「お前、たまには息抜きした方が良いぞ」
甲田は名刺を受け取った。仕事の名刺ではない。
「加地さん、バンドをやっているんですね。ベースと
「うん。ボランティアでいろんなところで演奏しているから、気が向いたら来いよ」
「はい、是非」
甲田はロッカールームの前で加地と別れた。
ロッカーを開けて目にとび込んできたのは、オレンジ色。
リュックにつけていたオレンジリングだった。腕から外して以降、あまり気にしていなかった。
唐突に思い出す。
介護福祉士を志した頃の自分。
認知証サポーターの講習を受けた中学生時代。
とにかく勉強した高校時代。
晴れて介護福祉士の試験に合格した日。
仕事は体力も気力も要る。何度も疲れを感じた。
入居者様の「ありがとう」が支えとなっていた。
辞めたくない。ここで働きたい。
藤井様、ごめんなさい。
俺はあなたを糧にして、介護職を続けます。
藤井様と同じ思いをするかたをつくらないように。
ひとりでも多くのかたの支えになれるように。
ごめんなさい。
自分以外の世の中のために働きたいんです。
◇ ◆ ◇
年度末を以て、生活相談員が退職した。
新たに松野が生活相談員となり、介護主任には加地が任命される。
新しい職員も迎え、「さくらの森」の新年度がスタートした。
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