オレンジリング③

 甲田は昔から、自分が嫌いだ。運動も勉強も飛び抜けてできるわけではない。給食だけは人一倍食べたが、人並みに風邪をひいて学校を休んだ。

 才能などないから、世の中のために働いて淘汰されようと考えるようになった。

 だから甲田は、自分を押し殺して世の中のために働いている。


     ◇   ◆   ◇


 6月に夜勤業務が始まった。

 初めての夜勤は、先輩職員についてもらい、業務を教えてもらった。

 19時半までにはほとんどの入居者様が着床し、夜間はトイレ誘導やおむつ交換、ナースコール対応、巡視をする。

 先輩の吉井よしい君也きみやは、入職から1年くらいだと言っていたが、仕事は手慣れたものだった。

 甲田は22時くらいになると疲れを感じてきたが、吉井は平気な顔をしている。

 吉井は、仕事に関係のない話題も振ってきた。

「甲田くんて何歳なの?」

「19歳です」

「未成年なの? 若いな!」

 そう言う吉井だって、20代だ。充分若い。

「ぶっちゃけ、この仕事はどう?」

「嫌じゃないです。意外と好きかも」

「仕事に行きたくないとか思わない? 藤井さんのこと、嫌じゃない?」

「仕事に行きたくないと思う日もありますけど、出勤するとスイッチが入ります。頑張ろうという気になります。……藤井様のことは、対応を模索中です」

「偉いなあ。俺、なるべく甲田くんの力になれるようにするから」

「ありがとうございます。俺も、吉井さんの手際の良さを目指して頑張ります」

「俺はただ、反射的に動いちゃうだけだよ」

 その反射的に、が甲田にはうらやましかった。甲田は、頭で考えないと動けないタイプだ。

「甲田くんだって、よく動けるじゃん」

「そうですか? 俺は考えてからでないと動けないのですが」

「あれって考えてるの? 頭の回転速いな!」

 吉井が続けて喋ろうとしたとき、ナースコールが鳴った。

 甲田は受信機に表示された部屋番号へ行こうとすると、吉井が「俺が行く」と言ってくれた。申し訳ないので、甲田もついてゆく。

 ナースコールを鳴らしたのは、森チヨ様だった。

 吉井は森様の居室を訪ね、ベッドから足を下ろして座っている森様に声をかける。

「森さん、どうしました?」

 森様の返事は「どうもしない」だ。

 吉井は森様のベッドサイドまで足を運び、しゃがみ込んだ。森様を見上げる格好である。

「森さん、俺に会いたくて呼んでくれたのかと思った」

 森様は「うん、そうなんだけど」と口ごもる。

「森さん、俺と甲田、どっちがいい?」

「……しーちゃん」

 森様は、居室の入り口で待機する甲田を指差した。

「もう、よっちゃんのことは呼ばないからね」

「えっ、どうしてですか? 呼んで下さいよー」

「よっちゃん、ちゃんとお仕事するのよ。あたしは寝るからね」

 森様はベッドにもぐり、掛布団をもぞもぞとかぶった。

「はい、わかりました。森さん、おやすみなさい」

 吉井は森様の居室を出て、甲田に話してくれた。

「森さん、用事がなくてもナースコールを押すんだよ。ふと目が覚めたときに寂しくなるみたい。少し話せば寝てくれるから、もう大丈夫だよ」

「そうなのですね。ありがとうございます」

 森様は特養の入居者様の中では自立している方であり、日中にナースコールを押すことは滅多にない。森様は日中と夜間帯で少々様子が異なるようだ。

 甲田は入居者様と接することに慣れてその人を知ったつもりでいた。しかし、理解が足りていなかったようだ。今後も夜勤をこなして、入居者様のことをもっと知ろうと思った。



 2時間の仮眠の後、居室を巡視していると、甲田は背中に強い衝撃を感じた。

「いっ……てえっ!」

 甲田は大声を出してしまった。静まり返った廊下に自分の声が反響する。

 振り返ると、そこには藤井様がいた。常夜灯のわずかな明かりで確認できる藤井様は影が濃く、昼間よりも怖い印象を受ける。

 甲田は、痛みと恐怖をこらえて藤井様に声をかけた。

「藤井さん、いかがなさいました?」

 藤井様の利き手が、甲田に伸ばされる。甲田は思わず、びくついてしまった。

 ぼそっと呟く声があった。

「……しーちゃん、いたい?」

 その声は、はじめは誰のものかわからなかった。ここにいるのは、藤井様と甲田だけだ。

「藤井さん?」

「うん」

 藤井様は頷いた。

「しーちゃん、いま、『痛い』っていった。いたいの?」

 やはり、喋ったのは藤井様だった。藤井様の声は、低音だが自信のなさそうな声だ。甲田が藤井様の声を聞いたのは、初めてだ。

 痛くない、と答えるのが正解だが、甲田はあえて逆の返事をした。

「痛いです、藤井さん」

 この返答は、賭けだ。また攻撃されるかもしれない。

 しかし、違う流れになるかもわからない。

「しーちゃん、いつもいたい?」

 藤井様に訊かれる。

 甲田は答える。

「いつも痛いです、藤井さん」

 暗い中では、藤井様の表情は見えない。

 藤井様の中途半端に伸ばされた手が、甲田の肩に触れた。

「しーちゃん、ごめん」

 ささやくような藤井様の声は、闇に溶けてしまいそうだ。

「おれ、ばかだから、しーちゃんがいたいの、わかんなかった。ごめんなさい」

 やはり、そうだったのか。甲田の中で合点がいった。

「藤井さん、違います。俺が『痛い』と言わなかったのが悪いんです。藤井様は悪くありません」

「でも、しーちゃん、いたいって。おれ、かげんできないから」

「もう痛くありません。藤井さんが、そっと触って下さったから。このくらいの力なら、痛くありません」

「このくらい?」

 藤井様は、微力で甲田の肩を叩く。掠っているのとほとんど変わらない。それでも、触れていることはわかる。

「はい、そのくらいです。藤井さん、ありがとうございます」

「でも、また、いたくするかもしれない」

「そのときは、痛いと言います。それでよろしいですか?」

「うん!」

 藤井様は大きく頷いた。甲田に「おやすみなさい」と言って自分の居室に戻る。

 甲田は残りの巡視を済ませ、ホールに戻った。

 吉井に「何かあったの?」と訊かれる。

 甲田は隠さずに「藤井様にお会いしました」と報告した。

「それって、やばくない? 殴られなかった?」

「はい、殴られませんでした」

「……よかった」

 吉井は、まるで自分のことのように安堵したようだ。

 甲田に缶コーヒーを1本くれて、自身も新しい缶を開ける。

「藤井さんは障害を持っていて、統合失調症の既往もあるから、前々から心配だったんだよ。はずみで事故でも起こさないかって。……甲田くん、どうしたの? 泣きそうな顔をして」

 吉井に指摘され、甲田は自分の頬を触った。涙は出ておらず、目頭も熱くなっていない。ドラマだったら感極まって泣く場面かもしれないが。実際はそうもいかない。

「藤井様のことを理解しようとしていませんでした。反省しています」

「なんで? 甲田くん、頑張ってるじゃん」

 甲田にとっては、“頑張っている”で済む話ではない。

 甲田は、自分は藤井様から暴力を受けていると思っていた。甲田が先に暴力行為をしたと言う人もいるが、職員間でも概ねそういう認識になっている。

 しかし、藤井様は悪意を持って甲田を叩いたりしたわけではないようだ。

 藤井様は、甲田を認識していた。愛称で呼んでくれた。

 一方、甲田は藤井様のことを理解したいと言いながら理解していなかった。これまでの生活習慣や既往歴などの情報が事務所にあるのに、見せてもらおうと考えなかった。藤井様と会うことを避け、面と向かって話さなかった。どうしてってくるのか聞こうとしなかった。

 藤井様は、何らかの障害で力加減がわからない。だから、甲田にスキンシップをしたつもりでも打ってしまうのだろう。甲田は痛みをこらえて逃げるだけだ。藤井様は、何が悪かったのか理解する機会を甲田に奪われていた。

 甲田は今日初めて、藤井様に「痛い」と伝えた。それは偶然であったが、藤井様が気付く機会となった。

 結果オーライ。しかし、もっと早く行動できるはずだった。



 朝はとにかく忙しい。

 7時に早番に申し送り。8時までに起床介助。8時から食事介助。食事摂取量と水分摂取量を記録。尿量を測定しているかたの尿破棄トータルを計算。口腔ケア。夜勤記録を書く。10時までの3時間が嵐のようだった。

 10時過ぎに早番から「退勤あがっていいよ」と許可が出ると、甲田は入居者様と職員に挨拶をしてユニットを離れた。

 浴室の前で藤井様に出くわす。藤井様は今日、入浴する日であるようだ。

「しーちゃん」

 藤井様は、おどおどと利き手を上げる。

 甲田は、その手に軽く触れた。入居者様とハイタッチなど不躾極まりないが、夜勤明けのテンションと、藤井様と話せたことによる高揚感で「これもコミュニケーション」ということにしたい。

「しーちゃん、ありがとう。ごくろうさま」

「藤井さん、ありがとうございます。あさってお会いしましょう」

 甲田は藤井様に頭を下げ、タイムカードを押すために事務所へ向かった。

 退勤の打刻をすると、生活相談員に呼ばれた。最近、新卒の職員が生活相談員と面談をしている。おそらく、それだ。

 生活相談員に、仕事の感想を訊かれた。甲田は「意外と好きかもしれないです」と答え「好きです」と言い直した。生活相談員が眉をしかめた。

 「仕事に行きたくないと思うことはある?」と訊かれると「行きたくないと思う日もありますが、出勤するとスイッチが入ります。頑張ろうという気になります」と答えた。昨夜、吉井に訊かれたことと同じだ。

 話は、藤井様のことに移った。甲田は、夜間のことを話した。

 生活相談員は相づちを打って聞いていたが、甲田が話し終えると口を開いた。

「それで、藤井さんのことを理解した気になれたのね。ずいぶんおめでたいね」

 生活相談員は、少々得意げだ。

「じゃあ、藤井さんに浴槽に沈められそうになったことはどうに説明するの?」

「それは……」

 甲田は言いよどんだ。すぐに説明ができない。

「甲田くんが藤井さんにしていたことは、虐待と同じなの。存在を無視して個人の尊厳を傷つけることも虐待だって、勉強しなかった?」

 甲田がやったことは虐待と同じ。

 その指摘が、寝不足で朦朧とした甲田の脳を刺激した。氷水を浴びた気分だ。

 生活相談員は、くすっと笑った。

「甲田くん、何のために働いているの?」

 甲田は動揺を隠し、はっきりと答える。

「世の中のために働く。そういう心持ちで働いています」

「ええ……ないわー」

 生活相談員は、ようだ。微笑が引きつっている。

「他の人は、家族のためとか、親に恩返しをするためとか、自分のキャリアアップのために働いていると言っていたよ。そういう、地に足がついた考えの人が多いのに、甲田くんは漠然とした思いしかないんだね。私は生活相談員として、そういう人に現場で働いてほしくないな」

 甲田は、何も言えなかった。

 生活相談員は、声高に続ける。

「私が言いたいこと、わかるよね?」

 その言葉が、甲田には最後通牒のように感じられた。

 その場で答えを出さなくて良かったのが、せめてもの救いだった。

 甲田は初めて、働き方を否定された。



 甲田が下宿、薔薇繪亭に着いたのは、13時近くだった。皆外出しているようで、玄関は施錠されていた。

 甲田は鍵を開けて中に入り、シャワーを浴びて布団に寝転がった。

 睡魔はすぐにやってきた。

 都会の喧騒も遠く、静寂と言って差し支えないほど静かだった。

 いつもは、仕事から帰ってくれば誰かがリビングにいて、「ただいま」と声をかけてくれる。それがなかった今日は、寂しい気がしなくもない。

 甲田はどこかで期待していたのだ。自分の帰りを待ってくれる人がいることを。



 目を覚ましたのは、18時近くだった。日は傾いているが、外は明るい。

 甲田は外に出てみた。

 建物の南側は、芝生だ。その向こうは、薔薇園と家庭菜園のスペース。今までじっくりと見たことはなかった。

 建物の北側にまわると、藤棚の下のベンチに鹿木がいた。ここは敷地内唯一の喫煙スペースだ。

 鹿木は煙草を吸いながら、紙の資料に目を通している。眼差しはいつになく真剣だ。

 鹿木は甲田に気付き、顔を上げた。

「しーちゃん、お目覚めか」

「おはようございます、先生」

 甲田は鹿木に頭を下げた。

 当初は鹿木を警戒していた甲田だが、今は割と気を許すことができている。いつの間にか“先生”と呼んでいた。文芸にも手を出していると聞いたことがあったからだ。

「しーちゃん、煙草は苦手やった?」

「平気ですよ。父も、職場の人も吸っていますし」

 甲田は鹿木の隣に腰を下ろした。副流煙に鼻を撫でられているうちに、むなしさがこみ上げてくる。

「どうしたん?」

 相変わらずの、近畿なのか九州なのかわからない訛りで訊かれる。

「先生、ここで執筆ですか?」

「まあ、たまにはな」

 鹿木は資料をクリアファイルに入れ、膝の上に伏せた。甲田は一瞬だけ、“橙の輪”という文字を見た。

「しーちゃん、夜勤やったんやて? 大変やったな。寝られんのやろ?」

「寝られますよ。2時間くらい」

「俺やったら、途中で倒れてしまうわ。若いって、ええな」

 若くないですよ、と甲田はむくれてみせた。夜勤の話題が続きそうなので、甲田から話題を変える。ちょうど、鹿木にも訊いてみたかったことだ。

「世の中のために働きたいって、おかしいですか?」

 生活相談員から否定された、甲田のこころざし。他の人の考えも訊いてみたかった。

 鹿木は、携帯灰皿に煙草をつぶし入れ、灰皿のふたを閉めた。

「介護福祉たい。世のため人のために働いて何が悪いと?」

 藤棚のあおい葉が、風に揺れた。

「しーちゃんは偉いと思う。愚痴ひとつこぼさんと真面目に仕事に行っとるけん、しーちゃんのことを評価しとる人はきっとおる」

 鹿木は、クリアファイルをメガホンのように丸めて握る。

「俺な、年寄りが苦手やき。電車で年寄りに席を譲るときも、殴られたらどうしようと考えてまうんや」

 鹿木は、ぽつぽつと身の上話を始めた。

 物心ついたときから両親はいなかった。

 同居する祖父母は、鹿木が邪魔で仕方なかったようだ。鹿木は幼稚園にも保育園にも通わなかった。小学校に入学する歳になっても、ランドセルなど買ってもらえなかった。鹿木は、ゴミ収集所で拾ったリュックサックを背負って登校した。

 祖母は鹿木の分の食事をつくらなかった。給食費も支払ってもらえず、給食は提供されなかった。鹿木は、畑の野菜を盗ったり、小銭を拾って買った駄菓子で飢えをしのいだ。食べ物を食べたというより、養分を摂取したという感覚だった。

 鹿木の衣類は洗濯されなかった。鹿木が自分で洗濯をすると、問答無用で泥水や油をかけられた。洗う時間がないので、鹿木はそれを着るしかなかった。

 風呂は使用禁止。外の水道の水を浴びたり、近くの川に入ったりした。

 祖父は、鹿木の居住スペースを与えなかった。鹿木は、祖父に見つからないように納屋の片隅を寝床にした。茣蓙ござのような敷布に、薄い毛布一枚で冬の寒さをしのいだ。

 汚らしい身なりと持ち物の鹿木は、小学校でいじめの標的にされた。

 そのことを小学校から知らされた祖父は、怒り狂った。

 鹿木は殴られ蹴られ、庭に捨てるように投げ出された。それに気付いた近所の人が仲裁に入ろうとすると、祖父は鹿木に灯油を撒き、火をつけた。すぐに消火器で消し止められたのは、不幸中の幸いだった。

 その後、鹿木は児童相談所に預けられ、児童養護施設で暮らすことになった。小学校2年生のときだった。

 そのときの火傷が、今も背中に残っている。冗談混じりに「背中に鹿がおる」と言えるようになったが、年配の人は総じて苦手だ。

「そういうわけやから、年寄りの世話ができるしーちゃんが、俺には立派に見える。せやから、くよくよせんで今のしーちゃんを貫いたらよか。……って、泣いとらんのか」

 今の話で甲田が泣くことを期待したのか、鹿木の口ぶりはつまらなそうだ。

「泣きませんよ。涙腺が固い方ですから」

「つい最近まで高校生やった子が何を言うとる。冷静過ぎて高校生だったかどうかも疑うわ」

「高校生でしたよ、この間まで」

「ほんまかいな」

 鹿木に軽く肩を叩かれ、甲田も叩き返して、何でもないことなのに笑い合う。

 嬉しかった。働き方を肯定してもらえたことも、気を許せる人が身近にいることも。


      ◇   ◆   ◇


 新卒の職員が生活相談員と面談をしていたのは、「新人が入居者様を殴ったりしている」と誰かがいったからであるらしい。

 甲田以外の人も、何のために働いているのか訊かれ、見下され、くびのような宣告をされたという。

 「思い過ごしだったね」と新卒同士で笑い合った。

 しかし、翌月に新卒職員のひとりが辞めてしまった。

 理由を語らない、突然の退職であった。

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