オレンジリング②

 背中に衝撃を感じた。抱えた入居者様を落とさないように力を入れると、今度は膝裏を狙われる。

 甲田は、背中から床に倒れた。

「甲田くん、何やってるの!」

 先輩の女性職員が駆けつけ、入居者様を車椅子に戻す。

「……すみません」

「これだから新人は使えない」

「……申し訳ありませんでした」

 甲田は、言い訳したい衝動を、ぐっとこらえた。



 特別養護老人ホーム「さくらの森」は、ユニット型全個室80床で成っている。同じ法人が運営する特養「りんごの森」、ショートステイ「みかんの丘」、訪問介護「むぎの里」があり、それらの職員が合同会議のついでに「さくらの森」を巡視ラウンドすることがある。

 今日は午前中から会議があり、何人か巡視にも来ていた。



 職員が休憩する場所は、人によって異なる。

 甲田はたいてい、会議室で休憩している。

 合同会議が終わったばかりの会議室は、未だ誰も休憩に来ていなかった。

 甲田は長テーブルの席に着き、弁当であるタッパー2個を広げた。

 入職当初は、駅前のコンビニで菓子パンでも買おうと思っていた。しかし、なぜか甲田の食生活も気にする鹿木が弁当を持たせてくれるようになった。

 今日の弁当は、鶏唐揚げの卵とじ丼と、夏野菜のマリネ。唐揚げは、冷凍庫に入っていた業務用のものだ。マリネは、薔薇繪亭の畑で栽培しているズッキーニが入っていた。

 弁当の量は多いが、大食漢の甲田には丁度良い。

 しばらくして、職員がふたり来た。

「甲田くん、相変わらずよく食べるね」

「そんなに食べてやせてるんだから、うらやましいよ」

 パートの女性職員二人組だ。ユニットは違うが、休憩を一緒にとっているところを甲田はよく見かける。

「さっき、『りんごの森』の人がうちのユニットに来て、散々文句を言ってきたの」

「それって、背が高くて色の黒い人? ちょっとの」

「そう、その人。声かけがなっていないとか、見守りが手薄だとか、仕事中は結婚指輪は外せとか言ってきて……」

「私も結婚指輪のことを言われた! 『外しません!』て言い返しちゃった」

「外さないよね、普通」

「男にはわかんないのよ」

 ふたりは、「りんごの森」の人の話で盛り上がっていた。

 甲田は会話には加わらず、弁当を食べ終えるとテーブルに突っ伏して午睡を決め込んだ。

「……ねえ、甲田くんて」

 ひとりが声をひそめ、話題を変える。

「藤井さんを虐待してるの?」

 またそれか、と甲田は思った。最近、職員の間で噂になっているのだ。

 甲田があまりにも攻撃されるため、誰も見ていないところで甲田が虐待しているのではないか、と言われているのだ。

 事実無根。

 しかし、もうひとりの返事はこうだった。

「してるらしいよ」



 藤井正様は、「さくらの森」の入居者様だ。

 80歳という年齢にしては背が高く、がたいもいい。身長167cmの甲田より大きく、体幹もしっかりしていて杖なしで歩いている。

 藤井様は、これまで誰とも争わない温和な人だったと聞いているが、初日に車椅子を押していた甲田とすれ違った途端、強い力で突き飛ばしてきた。それを皮切りに、甲田は毎日のように藤井様から攻撃されている。

 はじめのうちは他の職員が仲裁に入ったのだが、あまりの頻度に仲裁しきれず、今では余程のことがない限り放置されている。

 気にしているのは、介護主任の松野まつのくらいだ。

 松野は、ふたりの子どもを持つ母親でありながら、「さくらの森」開所から勤務している正規職員だ。

 松野の計らいで、甲田は午後は一般浴の入浴介助をすることになった。入浴は午前中から行われており、午後に入浴するのは3名だけだ。早番の甲田でも定時の16時までには終えることができるだろう。

 「さくらの森」は機械浴と一般浴を使用している。機械浴は専用の車椅子に座ったまま入浴できる機械を使う。ほとんど自分で動くことのできない入居者様が使用する。一般浴は、一般家庭にあるような浴槽を使っての入浴だ。手すりを持って立てるかたが使う。

 富田とみたアグリ様は、車椅子を使っているが、掴まり立ちができる。90歳近いが、頭がしっかりしていて、職員にも良くしてくれる。

「あたしのお父さんは、大学で農業を教わったのよ」

 アグリ様は、ころころと鈴を転がすような声で、話してくれる。浴槽の手すりに掴まりながら、湯を満喫している。

「あたしの名前は、農業って英語おから取ったんだって、お父さんがよく話してくれたわ。“あぐり”って良くない意味もあるけど、あたしの“アグリ”は違うんだって。だから、胸を張って生きなさいって、教えられたわ」

 アグリ様の話に登場する“お父さん”は、夫ではなく父親のことだ。夫のことは“旦那様”と言っている。

 アグリ様は娘の頃に婚約者がいたそうだが、戦争へ行って帰らぬ人となってしまったそうだ。親の勧めで婚約者の弟と結婚したが、その人との間に子どもはできなかった。戦争が終わると、アグリ様は身寄りのない子ども達を引き取って育てていた。そのうちのひとりがアグリ様の養子となって家を継いでくれたそうだ。

 甲田はアグリ様の話に耳を傾けながら、事故がないように見守りをする。

 突然、脱衣場の鍵が開いた。脱衣場は常に施錠するように言われている。入居者様が侵入して備品のシャンプーなどを誤って口に入れてしまうことがないよう、予防しているのだ。

 職員がタオルの補充に来たのかもしれない。甲田は特に気にしなかった。第一優先は、目の前のアグリ様だ。

 そろそろ出ましょうか、とアグリ様に声をかけようとしたときだった。

 甲田は急に息ができなくなった。目も開けられない。

 アグリ様が浴槽の中で手足をばたばたしている様子が、なぜかわかった。

 一瞬だけ、呼吸が楽になる。ナースコールのけたたましい音が耳を突く。

 息を吸い込む前に、口の中に温水が流れ込んできた。

「おい! 大丈夫か!」

 職員が駆けつけたようだ。甲田は浴槽から頭を出され、激しくむせた。上体を引っ張られ、タイルの壁へもたれかかった。

「吉井くん、藤井様をユニットへ送ってさしあげて。えっと……アグリさん? 怪我はありませんか? お風呂、出ましょうね。この彼は大丈夫です。少し休ませてあげて下さい」

 少々だみのある、男性の声だ。甲田の知っている人ではない。

 甲田が茫然としている間にも、アグリ様は服を着終えて、ドライヤーで髪を乾かしていた。普段は職員任せにしているが、今日は自分でドライヤーを持っている。

 介助と見守りをしていたのは、見知らぬ男性だった。背が高く、肌が浅黒い。

「ありがとうございました」

 甲田は立ち上がり、男性に頭を下げた。

「お前、もういいのか? つうか、お前、ちゃんと栄養摂ってるのか? がりがりだぞ」

「毎食2杯食べてますよ、どんぶりで2杯!」

 甲田はついむくれて言ってしまったが、ドライヤーの音にかき消され、相手には届かなかった。

「入浴はアグリ様で最後?」

「はい」

「俺、見守りしてるから、浴室の掃除は頼んでもいいか?」

「はい、かしこまりました。でも……」

「気にするな。今はひとつに集中しろ」

 甲田は黙って首肯した。

 この人は多分、合同会議に参加した「りんごの森」の職員だ。

 見た目の印象は、介護職っぽくない。初対面の甲田をお前呼ばわりしたように、職員に対して遠慮がない。入居者様も怖がるかたがいるかもしれない。

 甲田は、この人の評判を知らない。しかし、勝手に想像を膨らませてしまう。

 この人はきっと、素早く入居者様のもとへ駆けつけ、事故を何件も防いできたのだろう。どんな小さなことでも課題にして、解決してきたのだろう。

 ドライヤーの音が止んだ。

「ねえ、お兄ちゃん。しーちゃんのお髪も乾かしてあげたいんだけど、いいかしら?」

 アグリ様はあの男性に訊ねている。

「アグリさんは優しいですね。でも、アグリさん。おやつ、未だ食べてないでしょう? どうします?」

「やだ、あたしったら。今日のプリンを楽しみにしてたのに!」

「じゃあ、ユニットへお戻りになりますか?」

「ええ、そうするわ。……しーちゃん、またね。お風呂、ありがとう」

 アグリ様は車椅子を自走して廊下へ出ていった。あの人もついていったようだ。

 甲田は浴室の掃除を終え、生乾きの髪にドライヤーの温風を当てた。入居者様の髪は何度も乾かしてきたが、このドライヤーで自分の髪を乾かしたのは初めてだった。

 藤井様はなぜ、脱衣場の鍵を開けることができたのだろう。鍵は職員が持っているが、入居者様の手に渡ることはない。職員が藤井様に頼まれて開けたのだろうか。不明だ。

 甲田を見つけた藤井様は、迷わず甲田の頭を浴槽に沈めにかかった。運が悪ければ、甲田は窒息していたかもしれない。

 アグリ様がナースコールを押してくれたお蔭で、藤井様と甲田は早く発見された。

 アグリ様にも、あの男性にも、藤井様をつれていってくれた吉井にも、感謝しなくては。

 甲田は退勤前に、アグリ様に会いに行った。

「アグリさん、先程はありがとうございました」

 大好きなプリンを食べてご満悦なアグリ様は、しわだらけの――でも、ぬけるように白い手で甲田のあざだらけの手に触れた。

「そんなこと、いいんだよ。あたしも必死だったの。しーちゃんが無事で良かったわ」

 甲田はここでも“しーちゃん”なのだ。



 入居者様のために、季節にちなんだレクリエーションはする。しかし、職員自身は季節を楽しむことにうとくなるのも事実。

 甲田は電車を待つ間、ホームの広告に目をやりながら、世間はあじさいの季節なのかと気付いた。入職から2か月、甲田は休日に遊びに出ることもせず、職場と下宿を往復している。

 ふと、遠くに目をやると、見覚えのあるような、ないような人を見つけた。

 その人も甲田に気付いたように、こちらを見てスマートフォンを操作する手を止めた。

 多分、あの人だ。

 挨拶しないわけにはいかないと思い、甲田は声をかけた。

「……おつかれさまです」

「ああ、おつかれさまです」

 耳に覚えのある、だみ声。

「休まなくて平気なのか?」

「はい。後は帰って寝るだけなので」

「若いんだから、遊べばいいのに」

「若くないですよ」

「十分若いだろ! 今から何言ってるんだよ!」

 男性は苦笑する。肌が浅黒い分、歯の白さが目立つ。

「19歳なんだって? 俺の半分じゃないか」

「えっ、そんなに歳いってないでしょう……加地かじさん」

 甲田は、タイムカードを押しに行ったついでに事務所で聞いた名前を確認した。

 浴室での藤井様との一件を、生活相談員に報告した。生活相談員には「最初から鍵をかけていなかったんじゃないの?」とあしらわれてしまったが、助けてくれた男性のことを話すと、彼が「りんごの森」の加地という職員だと教えてくれた。真面目過ぎて皆が迷惑してるんだよね、とも。

「あの、俺は甲田といいます。甲田忍です」

「それで“しーちゃん”と呼ばれていたのか」

 加地はわずかに目を見張った。

 甲田は「はい」と答え、気になっていたことを訊ねた。

「巡視って、午後までやるんですね」

「いいや、今日はたまたまだ。俺は休みだったから、余分に見させてもらっただけ」

 加地は言葉を切り、話題を変えた。

「ところで、藤井様のことなんだけど、カンファレンスをした方が良いんじゃないのか?」

「はい。俺もそう思うんですけど……」

 カンファレンスとは、入居者様の状態変化や適切なサービスが行われているか話し合う会議だ。甲田が入職してから、藤井様に関するカンファレンスは行われていない。

「相談員も松野さんも、考え方が甘いんだよ。お前からもちゃんと言った方が良い。お前も藤井様も、そのうち殺されるぞ」

「殺されるだなんて、大げさです」

「悪い。言い過ぎた。本当に死ぬわけじゃない。精神を病むか、一個人として認められなくなるか、ということだ。お前だけじゃなく藤井様も現状を変える方法を探さなくてはいけないのに、相談員は“どこ吹く風”だ。松野さんは、気付いているが実行に移す気力がない」

「俺からもおふたりに言ってみます。藤井様に何かあってから遅いですから」

 電車がホームに入ってきた。

 ふたりは車両に乗り込み、電車が動き出してから話を再開する。

「お前は、藤井様が嫌じゃないのか?」

「上手くは言えないですが……見捨てられないです。人生の大先輩ですし」

 正直、攻撃されるのは怖い。ここのところ、甲田は毎日びくびくしている。今日だって、頭から沈められ、死にかけたのだ。

 しかし、藤井様を少しでもよく見て理解してさしあげ、苦痛があればできるだけ取り除きたい、と甲田は思っている。だから、甲田は藤井様を見捨てない。

「そうか……まあ、独りで抱え込むなよ。お前は根を詰め過ぎて自滅するタイプに見えるから」

 まさに、加地の指摘通りだった。

「それと、お前のそのオレンジリング。仕事中は外した方が良い。怪我のもとにならないとも言えないからな」

 やはり、指摘されてしまった。他の人に結婚指輪を外すように言ったのも、同じ理由だろう。

 加地は口うるさく指摘する人かもしれないが、迷惑でもない、頭にくる人でもない、というのが甲田の印象だった。

 近寄りがたい雰囲気はあるが、話しやすく気難しい人ではない。甲田も思わず気を緩めて生意気な口をきいてしまうくらいだ。

 加地は本当に真面目な人なのだろう。同じ系列の施設の入居者様のことも気にかけるくらいだ。加地はもっと評価されてもいいのではないだろうか、と甲田は思った。



 甲田は最寄り駅で電車を降り、一番近い百円均一でストラップ用のポールチェーンを買った。

 オレンジリングを手首から外し、ポールチェーンに通し、通勤用のリュックサックにつけた。

 居場所の変わったオレンジリングは、少々居心地が悪そうに揺れた。

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