オレンジリング

オレンジリング①

 大きな転機はなかった。誰かの話に影響を受けたわけではなかった。

 甲田こうだしのぶはいつの間にか、介護福祉士になる夢を持ち、早々に夢を叶えていた。


      ◇   ◆   ◇


 特別養護老人ホーム「さくらの森」は、開設から今年で10年を迎える。

 そのような節目の年に、甲田忍は介護職員として入職した。

 「さくらの森」開設史上初、10代の職員。その上、既に介護福祉士の資格を持つ、正社員としての入職である。

 甲田は、他の新卒の職員と共に辞令交付式とオリエンテーションを受け、現場での介護業務にあたった。

 他の職員が新卒職員の本日の勤務時間を勘違いしてしまい、新卒の人達は社会人初日から残業をしてしまった。

 甲田が下宿に着いたのは、21時頃である。

 下宿の名称は、「薔薇繪亭ばらえてい」。華族の別宅だった洋館をリフォームした、シェアハウスである。

「おかえり」

 静かにリビングを通り過ぎようとした甲田に、声がかかった。

「ただいま、です」

 甲田は住人に軽く頭を下げた。通り過ぎようとすると、再び声をかけられた。

「夕飯、未だやろ? 何か食うか?」

「いえ、平気です」

 空腹だが、時間が遅いため夕飯は早々に諦めていた。喉は乾いているので、何かを飲みにキッチンへ向かう。

 住人の男は、甲田についてきた。

「遠慮せんでよか」

「平気です」

「気にせんでよか」

「全然平気です」

「よかよか」

「とにかく! 気にしないで下さい!」

 甲田は冷蔵庫の前で振り返った。

 耳元で微風が生じた。間髪いれず、冷蔵庫を叩く音。

 甲田は息を呑んだ。甲田の目の前には住人の男。長身の彼は、冷蔵庫に手をついたまま甲田の退路をふさぐように立ち、甲田を見おろす。“壁ドン”ならぬ“冷蔵庫ドン”だった。

 甲田は全く嬉しくない。数日前までの高校時代、女子達は、少女漫画の話題の際“壁ドン”に盛り上がっていたが、なぜその行為に憧れるのか、男である甲田は全くもって理解できなかった。今も理解しがたい。

 男は、甲田のあごをくいっと持ち上げ、にたっと笑う。

「たまには、おじさんの好意に甘えたらよか」

 甲田は、わずかに首肯した。それしかできなかった。

 甲田忍、19歳(来年3月31日見込み)。初めて感じる種類の危機に、頬の筋肉が引きつっていた。



 住人の男は、名を鹿木しかき祥平しょうへいという。36歳だというが、童顔のせいで20代後半にしか見えない。細身で長身。ただし、猫背。べっ甲のフレームの眼鏡を愛用しており、その奥の瞳はきょろっとしていて鹿を連想させる。

 鹿木は「先祖が鉄砲鍛冶や」だとか「俺の背中には鹿がおるけん」とかうそぶいて、本当のことをなかなか話さない。

 甲田が知っていることは、鹿木がフリーライターだということと、なぜか甲田に興味を持っていること。

 甲田が引っ越したその日から、鹿木は甲田を“しーちゃん”と呼び、過保護なまでに付きまとう。今日もきっと、仕事をするふりをして甲田を待っていたのだろう。

 甲田は夕飯の前にシャワーを浴び、再びキッチンへ足を運んだ。

 タイミング良く、チンと小気味よい音がする。

「ポパイとベーコンのクリームパスタでござる」

 甲田は、横文字に続く「ござる」に違和感を覚えたが、あえて突っ込みは入れなかった。

 鹿木は悪い人ではないが、深入りはしたくない。彼から放たれる個性的なオーラは、甲田には毒にしか感じられない。

 鹿木が電子レンジから出したのは、冷凍食品シリーズのパスタであった。クリームソースのおいしそうな匂いが甲田の鼻と胃を刺激する。折角つくってくれたのだ。甲田は、ありがたく頂くことにした。

 鹿木は、甲斐甲斐しく食事をダイニングテーブルまで運んでくれた。甲田が席に着いてフォークを手にしたとき、鹿木はパソコンを持って向かいの席に座った。

「しーちゃんは右利きなんやね」

 そんなことを確認するために来たのではないだろう。

 鹿木はパソコンを広げ、リズムよくタイピングした。時間にして10秒ほど。2文くらい書いたようだ。

「鹿木さん、いつもそのような格好でパソコンを使っているんですか?」

「珍しいな。しーちゃんから話しかけてくるなんて」

 確かに、甲田から鹿木に話しかけたのは今回が初めてだった。彼と会って1週間も経たないが、必ず鹿木が甲田に話しかけて会話をしていた。

 そんなことはどうでもいい。甲田が気になったのは、鹿木がパソコンを置いた場所と向きだ。

 ノートパソコンは、デスクトップにように体に対して正面に置くのが普通だと甲田は思っていた。

 しかし、鹿木は手なりにパソコンを広げている。体の右半分くらいのスペースに、やや斜めに。

「まあ、だいたいこうやね。資料を見ながら書くことが多いけん。それと、人と話しながら書くとき」

 左半分のスペースに資料を広げたり、人とのコミュニケーションを妨げないようにするようだ。

「しーちゃん、初めての仕事はどうやった?」

「何ですか、急に」

「どうやった? 忙しかったん? 残業したん?」

「しました」

「あれか。ニュースとかで言われる、人手不足か?」

「違います」

 甲田はきっぱり否定した。今日は人手が足りていた。

 新入職員が残業してしまったのは、先輩職員が総じて勤務時間を勘違いしていたからだ。

 今日は、辞令交付式とオリエンテーションを含めて9時から18時の予定だった。生活相談員から介護職員に話が通っていたはずなのだが、オリエンテーションを終えて業務を始めた11時が始業時間だと思われてしまい、そこから9時間後の20時にようやく退勤が許された。

 タイムカードを押しに事務所へ行ったとき、残業をしていた生活相談員は「未だ帰ってなかったの?」と言い、新入職員から話を聞いた後も「嘘でしょう。現場の人は皆知っていたはずだよ」と悪びれもしなかった。上司の命令ではなく自主的に残業していたという扱いにされた。自主的な残業は、残業手当の対象にならない。平たく言えば、新入職員の2時間の残業は、無駄であったのだ。

 そのような情けない事情であれ、外部の人間である鹿木には話しづらい。

 甲田は無駄なことを話さないよう自律するためにも、パスタを頬張った。

 鹿木は片手で頬杖をついて甲田の様子を見ている。観察されている、と言った方が近い。

「なあ、しーちゃん。どこから来たと?」

「都内です」

 出身地は隠す理由がない。正直に答えた。

「一人暮らしに憧れでもあったと?」

「まあ、それなりに」

 社会人になったら一人暮らしをする、と早々から決めていた。

 土木関係の仕事をしているガテン系の父と保育士だった母は、甲田が福祉系の私立高校に入学を決めた直後に離婚した。

 両親の仲が悪かったことは、甲田も気付いていた。「離婚しそう」と事前に母から打ち明けられたときも、やはりそうか、としか思わなかった。衝撃や喪失感はなかった。母は2月中に甲田家を出ていった。

 父と二人暮らしをすることに息苦しさや物足りなさはなかった。父や父の仲間と接して馬鹿笑いをしていると、気持ちが楽になった。高校の勉強は難しかったが、リフレッシュした心で予習復習をすると、勉強の内容がおそろしいほど頭に入ってきた。

 高校の学費が高いことは父も気にしていた。成績が良くても奨学金が免除される制度はなかった。だから甲田は、修学旅行の不参加を早いうちに決めた。父は、初めは「今しか行けねえから、行ってくればいいのに」と反対したが、卒業までの学費を計算したらしく、その後は「行ってこい」と強く言うことはなかった。

 高校卒業後は就職すると決めていた。父にこれ以上迷惑をかけたくなかったからだ。

 一人暮らしをして、生活費も自分の給料でまかなって、お金が貯まったら父に少しずつ返していこうと決めた。薔薇繪亭の家賃は月2万円。水道光熱費の負担はない。どうやら、相当な金持ちがバックについているらしい。

 鹿木はパソコンに何か入力し、甲田に訊ねた。

「しーちゃんのそのブレスレット、オレンジリングやろ?」

「はい。ご存知なんですね」

 高校生のとき、認知証サポーターの講習を受けた。その証にもらったのが、ビニール製のシンプルな腕輪、オレンジリングだった。幸い甲田の手首に通ったので、甲田は普段から身につけている。

「しーちゃんは介護の資格は?」

「持っています。介護福祉士」

「ほんま! すごか!」

 鹿木は大きな双眸を広げ、身を乗り出してきた。

「……でも、3年間介護の仕事をせんと受験できんと聞いたことがあるけど」

介護福祉士カイフクの資格が取れる高校だったんです。そういうカリキュラムだったので」

「どんな勉強したと?」

「介護福祉士のホームページに載っています」

「俺はしーちゃんの言葉で聞きたか。でも、今日はええ。疲れとるやろ。明日は早いんか?」

「いいえ。日勤です。今日と同じくらいの時間に出発すると思います」

「無理せんでよかよ。俺で良ければ、愚痴でも聞くけん」

「では、そのときが来たらお願いします」

 甲田は「ごちそうさまでした」と席を立ち、ゴミを分別してから自室へ向かった。2階の居室は、和室と洋室がある。甲田は和室だった。

 布団を敷いて横になると、すぐに眠気が襲ってきた。照明をつけたまま眠ってしまうほど、疲れていたのだ。

 脳裏に一瞬だけ、今日のワンシーンがよみがえった。大柄な入居者様に 突き飛ばされたことだった。

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