SS ――ショートステイ―― ②

 高橋の担当業務は、主に介護保険料と利用料の請求、タイムカードの管理、勤務表作成、電話応対、窓口業務である。

 介護保険料と利用料の請求は月の半ばまでに済み、今はタイムカードのチェックを主に行っている。

 職員間では「タイムカード」と言っているが、実際に使っているのはICカードだ。出勤退勤のデータをパソコンに取り込み、格納してゆく。格納できないエラーデータは、勤務表と照らし合わせ、どこが違うのか確認する。

 高橋の入力ミスがいくつかあった。それ以外のエラーデータも多い。

 高橋はエラーデータの一覧を目で追ってゆく。エラーの多い人は、だいたい決まっている。

 常勤且つオンコール対応の看護師、居宅支援事業所のケアマネージャー、会議に参加するユニットリーダー……それと、「けやき」の職員。「けやき」のエラーデータは、データ入力後の勤務変更か休日出勤だ。

 格納できたデータもチェックしてゆく。マウスのカーソルが止まったのは、大木絵美のデータだ。

 大木の昨日の退勤時間は、20時13分となっている。これでは、4時間の残業だ。12時間も勤務していることにもなる。高橋の退勤後から2時間近く、大木はユニットに残っていたのだ。

 夜勤明けの介護職員が、タイムカードを押しに事務所に来た。「けやき」のユニットリーダー、篠田だ。

 高橋は思い切って篠田に訊いてみた。

「『けやき』は残業が多いですね」

「うん、そうだよ。『けやき』はご利用者様第一主義だから」

 篠田は明るく言い切った。夜勤明けの疲れを感じさせない表情と自信にあふれた声だった。

 高橋には篠田の言葉が「ご利用者様第一主義だから、ご利用者様が望まれるなら残業も喜んでさせて頂く」というニュアンスに聞こえた。

 篠田は、大木とたいして歳の変わらない女性だ。わかりあえる部分も多いのだろう。

 しかし、今の大木に同じ質問をぶつけたら、同じ答えが返ってくるのだろうか。

 高橋の脳裏には、昨日見た大木の背中がよみがえっていた。

 ふらつきもなくしっかりと歩いているのに、消えてしまいそうな儚げな空気をまとっていた、彼女の背中が。



 夜勤入りの大木が出勤したのは、定刻より2時間も早い14時だった。

 タイムカードを打刻した後、そそくさと「けやき」のユニットへ行ってしまった。

 1時間前に出勤する夜勤者は珍しくない。大木もそのひとりだ。

 しかし、今日の大木は様子が違った。何かから逃げるような、何かを怖がるような態度だ。大木にしては珍しい。

 それから約1時間後の15時頃。玄関前にタクシーが止まったのが、事務所から見えた。この施設は駅から離れているため、遠方から来る人は駅前でタクシーを拾うことが多い。

 タクシーから降りた人は、カウンターの前の「面会カード」にペンをはしらせ、回収箱に入れた。

 50歳くらいの女性だった。初めてここへ来た人だが、誰かに似ている。ぱりっとした雰囲気で、この辺りの人ではないことは見てとれる。化粧も、のりのきいたスーツも、洗練されている。

 「人を待たせてほしい」と女性は言った。高橋は、デイサービスの前の休憩コーナーへ案内した。女性は、廊下に近いテーブル席に着いた。高橋はお茶を淹れようとしたが、「カフェインを控えているので結構です」と断られた。

 高橋は面会カードのポストを開けた。

 今日の午前中から入れられたカードを、時間の順番で並べてみる。面会者は、どれも知っている名前だ。

 一番近い時間に書かれたのは、約30分前の岸なつ子様の旦那様だ。

 あの女性の名前はない……と思ったら、白紙のカードが1枚出てきた。

 高橋は邪推した。あの女性は、面会カードを書くふりをして面会者を装ったのだ、と。

 秋坂も高橋の手元を覗き込んでいた。ふたりは事務長にも話をし、あの女性を気にかけてもらうことにした。

 女性が動いたのは、16時を過ぎた頃だ。事務所に声をかけることなく、ユニットの方へ向かう。

 高橋は、小声で秋坂に訊ねた。

「秋坂さんのPHSピッチ、お借りしていいですか?」

 答えは、可。

 「じゃあ、ちょっと事務所を離れます」

 秋坂と事務長が、親指をぐっと立てて高橋にみせた。「グッジョブ」と言いたいらしい。



 高橋は、邪推が外れてほしいことを願った。

 面会者の中には、面会カードに名前を残したくない、という人もいる。

 しかし、事務所の職員の目をあざむいて書くふりをする人はいない。

 入居者様の面会に見せかけて、違うことをするつもりなのかもしれない。

 すぐにユニットへ行かずに16時まで待ったことも気になる。待ち合わせている人がいたが来なかったのかもしれない。しかし、先にユニットへ行く旨を事務所に伝えても良いものだろう。

 デイサービスの前の休憩スペースからは、出勤退勤する職員が見えづらい。女性は廊下に近い席に座っていた。

 できるだけ人の動きが見える場所に待機し、16時を過ぎたらユニットへ向かった。

 16時は、夜勤業務が始まる時間だ。夜勤者はほぼ確実にユニットにいる。

 高橋の邪推は、具体的には、以下の具合だ。

 あの女性は、職員を待ちぶせていた。何らかの理由でそれを事務所には知られたくないため、面会者を装った。職員が夜勤入りであることを知っているため、夜勤の開始時刻が過ぎると、ユニットへ探しに行った。

 考えすぎかもしれないが、大木の今日の出勤時間と逃げるような態度も、高橋は気になった。



 思い違いであってほしい、と高橋は思った。

 しかし、女性は高橋の思った通り、「けやき」へ向かっていた。そして、介助の途中である職員へ近づく。

 高橋は「待って下さい」と声をかけたが、女性はそれを認識せず、高い声で叫んだ。

「絵美っ!」

 介助の途中だった大木は、青ざめていた。椅子から車椅子に移乗しようと町谷様を抱えたまま、女性を見上げている。

 女性は、そのような大木を平手で打ち、脚を蹴とばした。

 町谷様は、すとん、と椅子に戻ったが、大木は床にうずくまる。

 高橋は、大木と女性の間に割って入った。PHSのボタンを押し、事務長の内線にコールする。通話をする余裕はないが、事務長が駆けつけてくれるだろう。

 高橋は女性に問うた。

「うちの職員に何をなさるのですか」

 女性は、振り上げた手を下ろさず、首を傾げる。何かを言いたい表情が、大木に似ていた。

 女性は言葉を慎重に選んだように、言う。

「あなたのところに害をなす生ゴミを回収しに来たのよ。はるばる東京から、高い電車賃を払ってあげて」

「……失礼ですが、職員の大木とはどのようなご関係で?」

「嫌だわ、この人。口のきき方もなっていない人に、答えるつもりはないわ」

 女性は、あごを上げて自信たっぷりに言い切った。

 そのとき、事務長が到着した。

 女性はわざとらしく大きく溜息をつき、振り上げた手を下ろした。とりあえず、今はいさかいを続けるつもりはなさそうだ。

 大木はうずくまったまま、呟いた。

「……お母さん」

 かろうじて高橋に聞こえるくらいの、蚊の鳴くような細い声で。



 第2ラウンドは、相談室で行われたようだった。

 事務長と女性が3時間ほど話し合い、女性は帰っていった。

 その間、大木には別の場所で休んでもらい、高橋が「けやき」に残った。

 高橋は、女性の勢いに驚いて怖がってしまったご利用者様の話を傾聴した。大木を心配する声も聞かれた。

「絵美ちゃんは大丈夫なの? あたしが無理を言ってお風呂に入れさせてもらっていたから、罰が飛び火しちゃったのかなあ? あたしのせいね」

 卜部様はずっと、自分のせいだと思い込んでいる。夕食には全く手をつけず、ついには泣き出してしまった。

 遅番の職員が「あとはやるから大丈夫だよ」と言ってくれたので、高橋は事務所へ戻った。19時半頃のことだった。

 女性の話を、高橋は事務長から聞いた。

 女性は、大木の母親だった。日頃から介護の仕事を「家政婦レベルの程度の低い仕事」と認識して快く思っておらず、頻繁に大木に電話をして、仕事を辞めるよう説得し続けていたらしい。それでも大木は折れず、女性はしびれを切らせて大木を連れ戻しに来たのだそうだ。

 この施設のブログを、バックナンバーから最新記事まで細かくチェックし、建物の構造や大木の所属を突き止めたらしい。刑事ドラマの鑑識課もびっくりの執念深さだ。

 高橋はタイムカードを押して退勤し、コンビニに寄ってから施設に戻った。

 デイサービスルームの照明が、ひとつだけ点いている。大木はそこにいた。

「大木さん」

 高橋が声をかけると、大木は弾かれたように顔を上げた。

「お夕飯、付き合って頂けませんか?」

 高橋は、コンビニのレジ袋を掲げてみせる。

「大木さんのことだから、今夜の夜勤は続けるんですよね?」

 大木は無言で目を見開いたが、あごを上げて、にんまり笑った。

「当然でしょ。こういう状況こそ、介護職員かいごの意地の見せどころなのに」

 母親に似た、自信に満ちた口調だった。これこそ、高橋の知る大木だ。ご利用者様に優しく、己を含む職員に対しては厳しい、介護職員の大木絵美だ。

 しかし、大木は完全に立ち直ったわけではなさそうだった。

 大木は、高橋が買ってきたコンビニ弁当の中から、ビビンバ丼を選んだ。米飯と具をスプーンで混ぜているうちに、その手が止まった。

「……世の中のために働くことって、おかしいのかな?」

 デイルームの中を、大木の声が広がって、消える。

「何のために働いているの、って訊かれて、世の中にために働いている、って答えたら……」

 誰に訊かれたんですか? ――言うまでもなく、母親だろう。

「だったら介護なんかじゃなくて公務員になりなさい、と鼻で笑われた」

 酷い、と高橋は呟いていた。と思うことは、高橋には到底できない。

 高橋は事務所で、介護職員を見てきた。嵐のように忙しい現場に向かう職員が、戦う人のようで恰好良いと思う。

 だから高橋は、疲れて退勤する職員には、心から「おつかれさまでした」と声をかける。現場の手が足りなくなれば、見守りに行く。レクリエーションをしている場所にはデジカメを持って行って、楽しむご利用者様と勤しむ職員を写真に収める。高橋にとって介護職員は、尊敬に値する人達だ。

 だから、と考える人に大木や介護職員を潰されたくない。

「えっと……大木さんの『世の中のために』というのは、仕事内容ではなく、意思や心持ちのことですよね? それでしたら、公務員以外のどんな仕事でも当てはまるのではないでしょうか? ……ちょっと待ってて下さい」

 高橋はバッグからスマートフォンを出し、探したい言葉を検索エンジンに入力する。

「……出ました。私の好きな歌詞です。大きな夢を描いたら小さな夢が叶っていた、って内容があるんです。歌の趣旨とは違うんですけど、この部分だけなら、大木さんの心持ちと似ているのではないでしょうか?」

 大木はスマートフォンを覗き込んで歌詞を読んでいた。

「これ、私が言いたかったこと! あの電話で母に言えればよかった。悔しい! でも、言えていたとしても、今日みたいなことにはなっていたかも……」

 大木は弱気になり始めたのもつかの間、「そうだ!」と何かを思い出した。

「高橋さん、あのときはありがとう。高橋さんが間に入ってくれなかったら、町谷様にも危害が及んでいたかもしれない。町谷様を助けてくれて、ありがとうございました!」

 大木は深々と頭を下げた。

 高橋はあのとき、町谷様が無事だったことは安堵した。しかし、本当のところは、大木を守りたかった。

 年上の、お客様かもしれない人と対峙してしまったとき、怖くてたまらなかった。間違えた判断かもしれなかった。それでも、職員を守ることが第一優先だという考えを優先した。

 大木は自分自身より、ご利用者様を優先している。

 やはり、大木は介護職員だ。介護現場で戦う人なのだ。


     ◇   ◆   ◇


 大木は当月をもって退職することとなった。実際は翌日から来ないのだが、月末まで有給休暇を使うことになった。

 「ご利用者様第一主義」を掲げていた篠田は、「けやき」の職員の残業のことで秋坂と意見が食い違い、大木と同じタイミングで退職した。

 職員を2名欠いた「けやき」に、残った職員でまわせる余裕はなかった。

 高橋は「けやき」のホール待機を頼まれることが多くなった。一日の半分が「けやき」にいる、という日も珍しくない。

 高橋は、ご利用者様と話すうちに、声かけが上達するような気がした。もともと好きだった大喜利のニュアンスも会話に加え、「瑠衣ちゃんは面白い子だったんだね」と言われることが増えた。

 排泄介助も教えてもらい、トイレ介助もできるようになった。高橋は、自分が下の介助をそれほど嫌いでないことに気付いた。

 翌月、新たに介護職員が入職した。高橋は介護保険料請求のためのレセプトを作成するため、事務所にこもるようになった。

 事務仕事の最中、ふと大木の言葉を思い出した。

 ――世の中のために働くことって、おかしいのかな?

 おかしくない、と高橋は今でも思う。そこから自分自身に問いかける。



 ――自分は何のために働いているのだろう。



 廊下の電子錠を開けた荒木様が、車椅子を自走して事務所の方へ近づいてくる。

 高橋はデスクを離れ、脱走途中の荒木様に声をかける。

「荒木さん、こんにちは。お散歩ですか? 私、これから「けやき」に行くのですけど、荒木さんも一緒に来て下さいますか?」

 荒木様は、うん、と頷いた。

 高橋は、車椅子のフットレストを下ろし、荒木様の足を乗せ、ゆっくりと車椅子を押した。



 何のために働いているのか、すぐに答えは出ない。

 それでも、高橋は仕事を続ける。自分に投げた問いに答えられるように。



 【「SS ――ショートステイ――」終】

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