それでも、ケアをさせて頂きたい

紺藤 香純

SS ――ショートステイ――

SS ――ショートステイ―― ①

 工場前の交差点は、今朝も渋滞している。その100mほど手前は、線路の下をくぐる道となっている。

 日差しが強くなり始めた今の時期、線路下で止まれればラッキーだが、なかなかそうはゆかない。今日は線路下を抜けた後に止まってしまった。

 高橋たかはし瑠衣るいは両側の窓を開けて車内に風を入れた。からっとした風に乗ってきたのは、パン工場から漂ってくる甘い匂いと排気ガスの臭い。思い切り吸い込んでから、青信号を待つ。もはやそれが日課であった。

 職場に着くと、カウンターのシャッターを開け、事務所と玄関を掃除する。

 10時過ぎに、岸なつ子様のご家族が面会に来た。窓口で面会簿に署名し、先月の利用料を清算される。

「……では、ちょうどお預かりします。こちら領収書でございます。お持ち帰り下さいませ。ありがとうございました」

 なつ子様のご家族がユニットへ行くのを見送って、高橋はお金をカルトンごとデスクへ持って行った。使用済みの封筒を一枚と、「アカデン」も拝借。赤伝は、普通は返金伝票のことを意味するらしいが、職場で言う「アカデン」は、入金伝票である。印字が赤いからアカデン。名称も赤い印字で「入金伝票」。

 再度金額を確かめ、お金を封筒に入れる。封筒の口を折る。

 アカデンは、今日の日付を記入し、項目を埋めてゆく。

 「入金先」は「特養」。

 「勘定項目」は「四月分」。

 「摘要」は「岸なつ子様」。

 金額の前に¥マーク、後ろに「-」。

 「係印」に自分の印鑑を押す。

 アカデンと封筒をクリップで止めてから、不備に気付いた。なつ子様はショートステイのご利用者様だ。「岸なつ子様」の後ろに「SS」と書き加える。

 電話が鳴った。

「はい、特別養護老人ホーム『くすのき』でございます」

 かねて希望していた事務職に就いて、1年が経っていた。



 短大の文学科を卒業して新卒で介護施設に就職できたのは、本当に偶然であった。

 漠然と事務職を希望して就職活動を始めたものの、2年生の1月まで1社も内定が出なかった。下手な鉄砲も数打てば当たる、というように100社近く選考を受けてきたが、内定がもらえたのはこの介護施設だけだった。

 大学の就職支援課の職員さんにも、ハローワークのジョブサポーターにも「努力した結果ですね」と言われたが、そうだとは思わなかった。予告なしに行われた小論文は、もちろん対策なしで挑み、支離滅裂なことを書いてしまった。面接は、今まで通り緊張し過ぎで上手く話せなかった。何より、介護の知識が皆無なのだ。こんな自分を拾ってくれた職場に、高橋は感謝している。



「高橋さん、ちょっといい?」

 昼休み、事務所のカウンター越しに高橋を呼んだのは、介護職員の大木おおき絵美えみだった。高橋より2歳年上で、顔を合わせることが多い。

「『けやき』 の卜部うらべ様と白田しろた様、をしたいんだけど、今日でも大丈夫そう?」

「ちょっと待ってて下さい」

 高橋はデスクから離れ、ホワイトボードを確認した。

「大丈夫です。『けやき』の卜部様と白田様、本日、夜間入浴ですね」

 夜間入浴とは、読んで字のごとく夜に入浴をすることだ。

 入浴はたいてい、日中に行われる。しかし、入居者様の中には、これまでの本人の習慣やご家族様の希望で、夜に入浴を行うこともある。

 夜間入浴に時間や人数の制限はしていないが、浴室の利用の旨を事務所や宿直職員に伝えてもらうようにしている。

「……お風呂場は大丈夫なんですけど」

 高橋は言葉を濁してしまった。

 大木は、「何?」と言いたそうに眉を歪める。

「今夜の『けやき』の職員さん、隣のユニットと兼務の、夜勤のかただけですよね? 夜勤者さんはユニットから離れられないのでは?」

「私が入浴介助をする」

「でも、大木さんは今日は早晩ですよね?」

 早番は、7時から16時が勤務時間だ。

「ご利用者様が夜間入浴をご希望なの。私がやれば解決する話だよ」

「それでも……」

 それでも、高橋は反対したい理由がある。しかし、それを言ってしまえば、大木と険悪になってしまうだろう。介護職員と事務所の壁をつくることは、避けたい。

 大木は、高橋のためらいを見透かすように、わざとらしく相槌を打つ。それに続く言葉は喧嘩を売るようだった。

「仕事をしないくせに、余計なことを考えるんじゃないよ」

 高橋は、首筋に冷や汗を感じた。

 大木は責めるような話を続ける。

「高橋さん、休憩時間に本を読んでいるよね。それ、悪いことだよ。あんたは事務所の職員で、ましてやカウンターから見える場所にデスクがあるんだよ。この施設の第一印象になる人が、お客様から見える場所で仕事と関係のないことをしているなんて、おかしいよ。お客様には、職員が休憩していることなんて関係ないんだから。あんたがそうやって仕事をしないで遊んでいる姿は、お客様に見られているんだよ。私は、あんたのそういう態度が恥ずかしい。こんな人と同じ場所で働いていることが馬鹿らしくなっちゃう。介護職員は事務所のことなんて考えていないとでも思っているんでしょう。その台詞、逆にして返してあげようか」

 事務所は介護職員のことなんて考えていない――大木は言葉には出さなかった。しかし、言いたいようだった。

 高橋は返す言葉もなく、大木の背中を見送った。

 少年のように短い髪、バックにも模様があるキャラクターもののTシャツ、洗いざらしたストレッチジーンズ、細くしまった腕と脚、歩き方は少々だ。

 普段通りの大木の姿だった。しかし、脆く壊れそうな、今にも消えそうな、雰囲気がまとわりついていた。

 大木と入れ替わるように事務所に戻ったのは、ケアマネージャー兼生活相談員の秋坂だった。ユニットの巡視から戻ってきたところだ。

 秋坂は開口一番に高橋に言った。

「高橋さん、お願い。今日、卜部さんのお迎えに行ってくれる?」



 この社会福祉法人は、ひとつの建物に複数の事業所を併設している。

 入所サービスである「特別養護老人ホーム」が50床。全床ユニット型個室だ。

 居宅サービスの短期入所サービス「ショートステイ」が10床。こちらは1ユニットである。

 通所介護「デイサービス」、軽費老人ホーム「ケアハウス」、居宅支援事業所もある。

 特別養護老人ホーム(通称・「特養」)のユニットは、5つ。「つばき」「えのき」「ひいらぎ」「ひのき」「すぎ」。大木との会話で出てきた「けやき」がショートステイである。

 これらのサービス提供に欠かせないのが、ケアマネージャーと生活相談員の配置である。

 ケアマネージャーは、正式には「介護支援専門員」と呼ばれ、ケアプランを作成することが主な仕事である。生活相談員は、ケアプランを元にサービスの利用に関わる業務を行うことが主な仕事である。

 「くすのき」では、秋坂が特養のケアマネージャーと生活相談員、さらにショートステイの生活相談員をこなしている。



 17時頃。高橋は卜部様のご自宅へ向かった。

 卜部ミホ子様。86歳。要介護3だが、入院していたときに認定された介護度で、現在は要介護1くらいだろう、と職員から言われている。頭はとてもしっかりしていて、杖を持たずに歩行できる。

 高橋は「けやき」と卜部様に、多少なりとも関わりがある。

 高橋は事務職員で入職したが、最初の3か月間は、試用期間として介護職をしていた。そのとき配属になったのが、ショートステイ「けやき」だった。1年も前のことだ。

 卜部様はそのときからショートステイをご利用されていた。他のご利用者様や職員の顔と名前をすぐに覚え、忘れない。高橋も「瑠衣ちゃん」と呼ばれ、実の孫のように可愛がってもらった。

 片道10分足らずで、卜部様のご自宅に着いた。予定の17時半には余裕を持って到着できそうだ。

 卜部様は、玄関の鍵をかけているところだった。

 高橋は車から降りた。

「卜部さん、こんにちは。『くすのき』の高橋です」

「ああ、瑠衣ちゃん。こんにちは。しばらく見ないから、どこに行っちゃったのかと思ったよ」

 卜部様は、細い目をさらに細めて笑った。こういうところが「可愛いおばあちゃん」だと高橋は思ってしまった。

 施設に到着し、ユニット「けやき」に向かい途中で、大木が卜部様のお迎えに出ていた。

「卜部さん! ようこそ!」

 昼間の噛みつくような態度はすっかり消え、大木は満面の笑みで卜部様を歓迎する。

 卜部様は、柔らかい頬をとろけそうなほど緩める。

「絵美ちゃん、こんばんは。またお世話になります」

 卜部様は、ぺこりと頭を下げた。

「今日もお風呂に入れてくれるのよね?」

「……ええ。お風呂、入りましょうね」

 独歩の卜部様は、大木につかまって「けやき」へ向かう。

 高橋は、見てしまった。大木の表情が一瞬だけ強張ったのを。

 高橋は事務所へ戻ろうときびすを返した。しかし、その足は進まなかった。

 至近距離に、車椅子に乗った人がいた。卜部様と同じく、ショートステイをご利用中の、岸なつ子様だ。

「……あんた、この間の人かい?」

 なつ子様は高橋を見上げ、か細い声で訊ねてきた。

 高橋はしゃがみ込んで目を合わせる。

「そうです。この間の人ですよ」

 なつ子様は決まって、誰にでも「この間の人かい?」と訊ねる。そのたびに、皆、「そうです」と答える。

 なつ子様は要介護4。認知証も進んでいる。在宅ではとても生活が困難であるため、ショートステイを利用しながら、特養のベッドが空くのを待っている。ショートステイには、そういう理由で理由しているかたもいるのだ。



 高橋は、なつ子様につかまってしまい、事務所に戻るタイミングを失ってしまった。

 廊下で話し込んでいるうちに、夕食がユニットに運ばれてくる。

「なつ子さん、ご飯が来ましたよ。お席に行きましょう」

 我ながら上手く誘導した、と高橋は心の中で自賛した。

 本日の「けやき」のご利用者様は、6名。そのうち1名は食事介助が必要な町谷まちや様である。

 夜勤者は隣のユニットの手伝いに行ってしまったため、高橋は配膳を手伝い、「けやき」に待機することにした。

 自力で食事を摂取できるかたは、意外と早く食事を終わらせてしまう。すると、卜部様がトレイを持って下膳してしまった。自分の分だけではなく、他のかたのトレイも下げてしまう。残飯をバケツに捨て、同じ大きさの器を重ねてゆく。

 ご利用者様の食事摂取量は、記録しなければならない。しかし、食事介助をしていた大木は、卜部様が下膳する前に摂取量を確認できない。

 ここで高橋の出番だ。一瞬見えた残飯の量を記憶し、メモ帳に書いてゆく。



  卜部様 主食・10 副食・10

  なつ子様 主・8 副・8

  白田様 7・10

  荒木様 6・6

  亀子様 10・10



 記録には、主食と副食の摂取の割合を「10/10」というように残すのだが、高橋は、スラッシュの左右どちらが主食か副食か覚えていなかったため、最初だけでも「主」と「副」の文字を残しておいた。

 メモが簡素化していったが、介護職員には解読できるだろう。

 食事介助が終わった大木に、高橋はメモを渡す。

「高橋さん、ありがとう! 本当に助かった!」

 大木は、泣きそうな目をして笑っていた。



 事務所に戻ると、高橋は秋坂に声をかけられた。

 彼女曰く「大木さんと気まずいことを話してくれれば良かったのに!」とのこと。

 ケアマネと相談員を兼務する秋坂は、事務所の職員と介護職員が円滑にコミュニケーションをとれるように、職員仲も気にしている。

 高橋は、確かに大木と気まずかったが、「仕事だから」と割り切っている。大木もそのようだった。

 秋坂は「今日はもう帰って、ゆっくり休んでね」と高橋に言ってくれた。高橋もその言葉に甘え、退勤することにした。今日絶対にやらなくてはいけない仕事は、残っていない。

 カウンターのシャッターを閉めていると、浴室へ向かう大木とご利用者様を見かけた。

 現在の時刻は、18時半。

 高橋は心の中で呟いた。

 ――「けやき」の職員の残業、どうにかできないかな。

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