夜勤明け

 昨夜から降り始めた雨は、翌朝になっても続いていた。

 ヴェールのような霧雨の中を、大木は車を走らせて自宅へ向かう。

 本庄市の隣の児玉郡こだまぐん上里町かみさとまち。JR高崎線・神保原じんぼはら駅から歩いて10分ほどの場所にあるアパートが、現在の住まいだ。

 部屋に着くと、さっそく玄関の鍵をかけた。

 布団代わりの低反発マットレスに横になるが、目をつむってもすぐには眠れなかった。

 思い出すのは、昨夜から今朝にかけての予想外の出来事だ。

 堀越に閉め出され、高橋に助けられ、解熱鎮痛剤を服用して、夜勤を乗り切ることができた。

 朝の申し送りで、小野里が本日をもって退職することを話した。

 倒産したらまた来るかもしれない、と冗談めかして言っていたが、そうなることは、おそらくないだろう。

 しかし、介護の経験が良い思い出となってほしい、と大木は願わずにはいられなかった。

 小野里が抜けると、現場はさらに人手不足で忙しくなるだろう。

 休めるのは、今だけだ。



 スマートフォンのロックを解除した。

 いつもの彼から「夜勤おつかれさま。早番行ってきます」とメッセージか来ている。

 返事を入力しようとしたが、誤って電話のマークをタップしてしまった。

 切断する前に、相手が応答してしまう。

『もしもし?』

「あ、はい……!」

 大木は反射的に起き上がっていた。

『カナちゃん?』

 バリトンボイスが、勝手につけた愛称で呼ぶ。はじめは「大木さん」だったが、そのうち「カナリアちゃん」とか「カナちゃん」に変わっていた。

「ごめんなさい。実習中なのに」

『今、休憩していたところ』

「……そうですか」

 熱発でふわふわするあたまにも、彼の声は明瞭に届いていた。

 彼と電話をしたことは、数回しかない。会ったのも、あの一度だけだ。

 彼の声は、耳に心地良くて、ずっと聴いていたいと思ってしまう。そう思うのに、吐息まで錯覚してしまい、こそばゆく感じてしまう。

「あの、やっぱり、実習中に関係ない電話は良くないと思うので、切ります。ごめんなさい。頑張って。気をつけて」

 大木は一方的に通話を終了した。

 彼は頑張っているのだ。弱みを見せて心配をかけてはいけない。


     ◇   ◆   ◇


 ねえねえ、おっきいおばあちゃん。

 いつもゼリーみたいなごはんで、おなかすかないの?

 えみちゃんのプリン、おっきいおばあちゃんにあげるね!

 これたべて、げんきになってね!

 えみちゃん、おっきいおばあちゃんとおしゃべりしたいな。

 げんきになったら、おはなしきかせてね。


     ◇   ◆   ◇


 自分の寝言で目が覚めた。

 外はとっぷりと暮れている。枕元のスマートフォンを見ると、18時を過ぎていた。

 いつもであれば、このくらいの時間からフィットネスクラブへ行き、ランニングマシンで汗を流してからシャワーを浴びる。しかし、今日はだるさが抜けなくて、運動するのは難しい。

 先ほど見た夢の余韻が残っている。

 幼い頃、血のつながらない祖母が曾祖母の介護をしていた。

 大木は当時、曾祖母という概念がわからず、“おばあちゃんより歳が大きいおばあちゃん”だから“おっきいおばあちゃん”と言っていた。

 母がいない隙に曾祖母のベッドサイドへ行き、全介助でペースト食の曾祖母に、おやつのプリンをあげようとしたことがある。

 気が弱いが優しくて頑張り屋の祖母が、好きだった。

 ただベッドに横になっているだけの曾祖母も、好きだった。

 祖母は大木が小学生になる前に亡くなってしまったが、曾祖母を恨む気持ちは全くない。

 目頭が熱を帯びてきた。詰まった鼻をすすると、涙が頬を伝って枕に浸み込む。



 あのときの“えみちゃん”は、“おばあちゃん”のことも“おっきいおばあちゃん”のことも、なんにもしらなかった。



 もしも、大木えみちゃんが18歳を過ぎていたら。

 大木は祖母おばあちゃんと一緒に曾祖母おっきいおばあちゃんの介護をしていたかもしれないのに。



 介護用ベッドとティルト・リクライニング付き車椅子をレンタルして、

 福祉車両を購入して、

 曾祖母を車椅子に移乗して、

 曾祖母には車いすごと車の後ろに、祖母には助手席に乗ってもらって、

 とろみをつけたお茶とプリンを持って、

 大木が福祉車両を運転して、

 桜の綺麗な公園でお花見をする。



 そのような楽しみを、共有していたかもしれないのに。

 叶わないとわかっているが、そうしたかった。


     ◇   ◆   ◇


 また、うとうと眠ってしまった。

 次に目が覚めたのは、19時。スマートフォンの着信音に起こされた。

「……もしもし?」

『カナちゃん?』

和記かずきくん……後藤さん!」

 また、とび起きてしまった。寝起きの耳に良い声バリトンボイスは反則だ。

『起しちゃったかな』

「ううん……別に」

 大木の動揺は、彼に見透かされているようだ。くすくす、と笑う声がこちらに漏れている。

『カナちゃんの声が聞きたくて、電話しちゃった。夜勤、おつかれさま』

「ごとうさんこそ、実習おつかれさまです」



 ――おつかれさま。



 いつもメッセージで送り合っているフレーズなのに、声に出すと印象が変わる。

 メッセージよりも一層、ふわっと温かく、心の中にぽっと入ってくる。

 まるで、心の隙間を埋めるように。



『迷惑だと思われるかもしれないけど、きみが心配だったんだ』

「迷惑なんかじゃないです。嬉しいです」

 電話の向こうから、アナウンスが聞こえてくる。

 ――三番線に参ります列車は、各駅停車高崎行きです。

 ――当駅を出ますと、新町しんまち倉賀野くらがの、終点高崎の順に停車します。

「後藤さん、駅にいるんですか?」

『どうしてわかったの?』

 今度は彼が驚いている。

『アナウンスか』

「はい、そうです」

 彼がいる駅は、東京都内ではない。大木に内緒にするつもりで、近くまで来ているようだ。

「次の電車まで、何分ありますか?」

『えっと……20分くらい。……あっ!』

「今行きます!」

 大木は、すかさず電話を切った。

 スマートフォンと鍵を持ち、普段使いのジャンパーを羽織って、アパートを出る。

 化粧を直さず、服もそのまま。風呂にも入っていない。

 女性の品格なんてものは捨てているが、嫌われたら、それはそれで良い。

 電話の向こうのアナウンスが耳に入った途端、小さく固まっていた気持ちが一気に膨らんだ。



 ――会いたい。



 歩いて10分。車に乗れば3分から5分。

 映画の登場人物がやるように、雨の中を傘もささずに走った。

 向かう先は、JR高崎線・神保原駅。

 人のまばらな改札前には、彼の姿があった。

 夏以降会っていなかった、後藤和記の姿が。

「カナちゃん……絵美ちゃん!」

 細身のジーンズとシンプルなコートのスタイルだが、肩にはエナメルバッグを下げている。

「お昼に電話をもらってから、いてもたってもいられなくて。実習が終わった足で、来ちゃった。ごめん。ストーカーみたいだよね」

 相変わらず、大木より年下に見られそうな童顔。慌てているのか、照れているのか、声音は安定しているのに、視線に落ち着きがない。

 咳ばらいをし、頑張って大木を直視しようとする。

「気持ち悪い男だけど、正直に言います。きみに会いたかった」



 ――会いたかった。



 ふわっと温かく、心の中にすぽっと入ってくる。

 膨らんでいた気持ちは、容量を超過し、こらえる間もなく涙があふれてきた。

 大木はジャンパーの袖で目元をこする。人目が気になって下を向くと、足元にぼろぼろと滴が落ちた。

 前方がかげった。何事かと確認しようとするも、距離を詰められ、コートの肩口に顔を押しつけてしまう。公衆の面前でこんな醜態をさらすのが恥ずかしくて、逃げようとするも、しっかり抱きすくめられた。

 かすかな煙草の匂いが鼻をくすぐる。メンソールの強そうな匂いと、ベリー系の弱い匂い。後者はおそらく、大木が吸っているのと同じシリーズだ。

 今日は調子が良くなくて、明け方に一服できなかった。煙草に依存していないとはいえ、吸えなかったことは悔まれる。

「……もしかして、煙草臭い?」

 心地良い声が耳朶をくすぐる。

 刹那、小さな幸せというものを実感した。

「ううん、好きな匂い」

 今だけでいい。少しでも匂いを感じていたかった。

 少しでも、彼の気持ちに甘えていたかった。



 介護の仕事が好き。つらいこともあるけれど、ひとりじゃないと思えるから。

 祖母と曾祖母のことも好き。再び夢で会えたら、介助をして同じ時間を過ごしたい。

 もしかしたら、彼のことが好きなのかもしれない。

 仕事も、祖母も、曾祖母も、好きだけれど、全く違い種類の“好き”という感情。

 その感情に名称はあるけれど、認めるのは恥ずかしかった。



 【「夜勤」終】

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