夜勤 with 堀越②
何度も挑戦した。
何度も失敗した。
何度も考えた。
何度も否定された。
何度も後ろ指をさされた。
何度も嗤われた。
何度も進路をふさがれた。
何度も退路をふさがれた。
何度も心が折れそうになった。
何度か、差し伸べられた手があった。
何度も戸を叩いた。
何度もチャイムを押した。
何度も大声をかけた。
一度も、応じる様子はなかった。
時計もスマートフォンも持っていないので、時間の経過がわからない。
しとしと降っていた雨は、街灯の光を浴びて絹のようなカーテンをつくっている。
自分でもおかしいと思うくらい、冷静だった。
大木は、近所のコンビニに向かって歩を進めた。
薄桃色の半袖のウエアの下には長袖のTシャツを着ており、紺色のズボンも薄手ではない。しかし、静かに降る雨は徐々に服に浸み込んで、体温を奪ってくれる。
コンビニに着き公衆電話の前で、にぎりしめたままの手を開いた。金属臭くなった手の平には、財布から出した小銭が温まっている。
50円玉と10円玉が1枚ずつ。100円玉を持ってきたつもりだったが、うっかりしていた。
職場に電話し、玄関を開けてもらえるよう堀越と交渉するつもりだ。60円で説得できる自信はないが、アクションを起こさないと何も変わらない。
ボタンをプッシュしようとしたとき、夜勤明けに高橋に言われたことが頭をよぎった。
――少しでも、つらいと思ったら、施設長か国友さんに連絡することをおすすめします。
つらくなんか、ない。
大木は職場の番号を押した。
何コールか数えるのが億劫になる。発信から1分は経ったと思った頃、相手が電話に出た。
「もしもし、大木です。玄関の鍵――」
喋り始めてすぐに異変に気付いた。
相手も何か話している。しかし、うわんと響いて聞き取れない。
そういえば、半月ほど前に施設長と岩居が話していた。シニアの電話がたまにおかしくなる、と。
「もしもし? 『いろは本庄』職員の大木です。堀越さんですか?」
返事はない。相手の声が反響して、聞き取れない。
数秒後、通話が切られた。
つらくはない。でも、施設長か生活相談員の国友に連絡して事情を話すしかない。しかし、ふたりの電話番号は暗記しておらず、スマートフォンも、緊急連絡網を挟んだ手帳もロッカーの中だ。
ポケットに常に入れているメモ帳には、デイとシニアの電話番号と、連絡網で大木の前後にあたる人のアドレスをひかえている。大木の前は、萩野。後は、高橋だ。
手持ちの残りは、30円である。萩野か高橋に電話をかけ、施設長か国友に事情を話してもらうか。
大木は、いちかばちか高橋の携帯電話に発信した。
相手は1コール目で出てくれた。
『……はい』
「大木です。あの……」
『もすもす。高橋です』
一言目は警戒していたが、二言目にはリラックスしてふざけている。
「高橋、ごめんね。施設長の連絡先を教えてほしいの」
高橋は、「はい」も「いいえ」も言わず、黙り込んだ。
通話時間が限られている身としては、1秒でも早く答えてほしい。
『大木さん』
「はい」
焦る気を押さえて、大木は耳を澄ませる。
『今から、そっちに行きます』
「えっ、あんたが? 施設長には――」
大木が言いかけたところで、残高がゼロになった。
立っているのが限界だった。大木はその場にしゃがみ込んでしまった。
お腹がすいたが、食欲はない。それよりも、何か飲みたい。咽喉が焼けるように痛い。体は熱いが、同時に寒さも感じる。
すみません、と声をかけられたが、顔を上げるのも億劫だった。
声をかけてくれたのは、コンビニの店員だった。手を引いて立たせてくれて、イートインコーナーの椅子をすすめてくれた。よく見ると、大学生くらいの女の子だ。最近の若い子は、しっかりしていて優しいようだ。
壁の時計は、22時を過ぎていた。閉め出されてから2時間は経過していた。
「あれから40分!」
テーブルでうとうとしていた大木を起こしたのは、高橋の陽気な声だった。
「大木さん、何か飲みますか?」
「……温かいもの」
「ラジャーです!」
高橋はテンション高く買い物をし、大木の前にペットボトルの紅茶や、おでん、スープパスタなどを並べる。
「ところで、大木さん。お夕飯は?」
「買ってから訊くのかよ!」
瞬間的に体の不調を忘れ、思わず突っ込みを入れてしまった。
「でも、ありがとう。何も食べてなかったの」
大木はペットボトルのキャップを開けた。鼻水がつまっていても、紅茶の香りは
高橋は大木の隣に腰を下ろした。
「シニアにも施設長に電話をしてみたのですが、両方通話中になっていました。それなので、国友さんに電話してみました。大木さんが閉め出されて、コンビニに避難しているみたいです、って」
「どうして、私がここにいるってわかったの?」
「ええ、それはですね」
高橋は、眼鏡の位置を正して、人差し指を軽く立てた。
「公衆電話からの着信。それが大木さんからだったので、何らかの事情でスマートフォンもシニアの電話も使えないと思いました。大木さんのことだからスマホの充電は切らさないでしょう。また、普段の大木さんは、近くの自販機に行くときはスマホは持たず、お金も必要最低限の小銭のみ。先程、公衆電話の通話時間を気にされていたようなので、自販機に行こうとしたところを閉め出されたのではないか、と考えました。自宅を出る前に、このお店にも電話をしてみたところ、医療系の制服を着た女の人が体調悪そうに椅子に座っている、と店員さんが教えて下さいました」
熱で不鮮明な
「高橋、ごめんね。迷惑かけちゃった」
「とんでもないことでございます。私が堀越さんと夜勤をしたときも、その……大変だったので」
高橋のときは閉め出されこそしなかったが、堀越は20時に夕飯を食べると、仮眠室に鍵をかけて眠ってしまったらしい。
夜間の仕事をひとりでこなそうと奮闘していた高橋は、朝方に貧血を起こして動けなくなってしまった。
早番の岩居が来る頃、堀越も起きて、きびきびと動いた。
「俺は調子が悪かったんで、少し多めに仮眠をとらせてもらったんですよ。それにしても、あの女は全然仕事ができないんですね。貧血を起こすなんて、この仕事に向いていないんじゃないですか」
それに対し、岩居はご利用者様の前で笑いながら話した。
「高橋さんは、
堀越は、納得したように明るく言った。
「俺の見立てでも、そうだと思ってました。世の中のために働きたい、とかキチガイみたいなことをほざいていたんです。やっぱりキチガイだったんですね」
「……全然知らなかった」
高橋が朝方に貧血を起こしたことは聞いていたが、堀越が仮眠室を独占していたことは知らなかった。おそらく、岩居も言いふらしていないのだろう。
「あ、そうそう。私は今日、お休みだったのですが、しーちゃん……甲田くんが応援に来てくれていたそうなんです。大木さんがピンチになるかもしれない、と18時過ぎにLINEで教えてくれました」
高橋は休みで、甲田が深谷から応援に来ていた。全然気付かなかった。風邪のせいとはいえ、周りが全然見えていなかった。反省。
高橋はコーヒーのキャップを開け、一口含んだ。
「ごめんなさい、と言わなくてはいけないのは、私の方です。大木さんに隠すのが難しくなった話があるのです」
「いいよ。聞くよ」
大木には、少々想像がついている。
「すみません。私が『くすのき』で事務をしていた頃の話です」
大木が「特別養護老人ホーム くすのき」を退職して3か月が経っていた。
高橋が休日の事務当番で出勤していた日。退勤しようとしたところ、突然、「くすのき」の玄関前に救急車が停まった。
ケアハウスの入居者様が、職員を通さずに119番通報をしてしまったらしい。
ケアハウスの職員はすでに退勤し、生活相談員も出勤日ではなかった。
介護職員の手を借りて建物内を見回りしたところ、ケアハウスの廊下に倒れている伊丹様を発見した。「頭が痛い」と訴え、
高橋は伊丹様と一緒に救急車に乗り、病院へ向かった。
伊丹様は頭部CTを撮ったが、異常所見はなかった。その日のうちにケアハウスに戻ることができた。
ところが後日、MRIを撮ったところ、脳の委縮が認められた。アルツハイマー型認知症と診断された。
一番ショックを受けていたのは、本人様よりも、家族よりも、居宅支援事業所のケアマネージャーだった。
居宅支援事業所といっても、建物があるわけではなく、ケアマネも事務所内で事務職員や秋坂と一緒に仕事をしている。
高橋とデスクを並べるケアマネは、「担当しているご利用者様は、受け持ってから誰も認知症を発症していない」ことを誇りにしていた。
伊丹様の件を何度も掘り返し、“お局”ポジションを利用して、高橋を追い詰めた。
他の職員にも、高橋の陰口を言わせた。
――高橋さんがいたから、伊丹さんは認知症になったんだよ。
――高橋って、長所がひとつもないよね。
――短所が長所の裏返しにならない人も珍しいね。
――高橋って、仕事できてるの?
――全くできないんだよ。
――働く意味あるの?
――高橋って、生きてる意味ある?
――ないよね。死んだ方がよほど有意義だって皆が言ってるよ。
高橋は、給湯室やトイレにこもって泣くことが多くなった。過呼吸も起こすようになった。その音声を、誰かしらに録音され、高橋の聞こえる場所で再生されることが日常になった。
伊丹様の件から1か月後、高橋は退職した。
その後、メンタルクリニックを受診し、「一時的な鬱状態」と医師から言われた。
薬は処方されていない。
「でも、居宅のケアマネさんのことは
高橋の表情は、思い詰めているようではなかった。むしろ、すがすがしい。
「今の職場は、事務の募集だったのです。でも、私が応募した直後に、本社から事務職員が派遣されることが決まってしまったそうです。介護職なら採用できる、と施設長に言われ、『お願いします』と言ってしまいました。初任者研修も受講させてもらえましたし、事務のときよりも収入が上がりましたし、ご利用者様と笑っていると、ストレスがなくなるんです。この仕事に就けて、良かったです。大木さんとまた会うことができましたし」
高橋のスマートフォンから、着信音が鳴った。彼女はコンビニの外に出て通話する。
大木はしばらく茫然としていた。風邪のせいではない。
高橋がひとりでかかえていたもの。伊丹様との一件は、大木の想像よりも重いものだった。鬱状態にもなってしまった高橋は、今のように割り切れるまで大変だっただろう、と大木は考えてしまう。
高橋のひょうきんなキャラクターは、落語や大喜利が好きだという性格も一因かもしれないが、自分の闇を隠すために振る舞っているのかもしれない。あるいは、そういう明るいひょうきんなキャラクターが、理想の自分なのかもしれない。
想像の域を出ないのだけれど。
「大木さん、聞いて下さい!」
通話が終わり、高橋は勢い良くイートインコーナーに戻ってきた。
「堀越さん、勝手に帰ったそうです! シニアと施設長の電話がつながらなかったのは、堀越さんと施設長が電話をしていたからなんだそうです。で、堀越さんを説得できずに、堀越さんは勝手に帰ってしまった、と。今は、国友さんがシニアにいて下さっているそうです。堀越さんの代わりに、私が今から夜勤に入ります。大木さんには苦労をおかけしてしまいますが……」
「高橋はそれで平気なの?」
「はい。家を出発するときに、夜勤してくるかもしれないと伝えてあるので。大木さんは寝ていて下さい。朝、少し介助を手伝って頂きたいですけど」
無茶苦茶だ、と大木は思った。高橋が夜勤を手伝ってくれるのはありがたいけれど、負担をかけすぎてしまう。
「とりあえず、戻りましょう。大木さん、私の車に乗って下さい」
高橋は、大木の前に並べた食べ物を、さっさとレジ袋に入れ直した。
「行きましょう、大木さん」
手を差し出された。
その手を取ることは恥ずかしくてかなわなかったが、高橋についてゆく。
外は未だ雨が降っていた。
でも、雨が浸み込むことはない。車で移動するから。
寒くはない。車の中は暖房をつけるから。
つらくない。頼れる仲間がいるから。
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