うなだれる向日葵⑤

 軽自動車のフロントガラスに打ちつける雨は、まるでアクション映画の銃弾のような激しさになっている。

「すごかー!」

「少し黙ってて下さい!」

 後部座席で感嘆する鹿木を、甲田が叱った。

「甲田さん、本当にお邪魔して良いんですか?」

 助手席の後藤は訊ねる。

「気にしないで下さい。俺と祖父のふたり暮らしなんです。部屋も布団も余っていますし、若い人が来れば祖父も喜びます」

 甲田は一転して穏やかな口調で答えた。が、鹿木の一言で豹変する。

「おお! ガンアクションみたいやな!」

「先生、まじで放り出しますよ! アクションシーンみたいに!」

「嫌やあ! しーちゃんが怖い!」

「……甲田さん」

「後藤さん、ためぐちで良いですよ。もう職場じゃないんですから」

「そうたい、美声年びせいねん

「鹿木さん、その呼び方はやめてほしいんですけど」

「そうですよ、先生。少し黙ってろ」

「……すんません」

 後部座席が静かになると、甲田は気持ちを切り替えて運転に集中したようだ。



  南の海上を北上していた台風は、本州に上陸せずに太平洋側へそれるようだ。

 しかし、強風の影響で首都圏を中心とした路線に遅れが出ていた。

 それに加え、信号トラブルも発生し、高崎線は全線で運転を見合わせている。

 それを知った甲田は、後藤と鹿木に提案した。

 うちに泊まりませんか、と。



 「いろは深谷」から甲田家まで、車で15分ほどだった。

 車が車庫に入ると、先程までの雨音が嘘のように小さくなった。

「着きましたよ」

「ありがとうございます、甲田……くん」

 睨まれこそしなかったが、仕事モードの爽やかスマイルをされると、後藤はかえって怖かった。

 家の外観は暗くてよくわからないが、後藤の実家と似ている気がした。

 田舎の農家の、築20年から30年くらいの、大きな二階建てだ。多分。

「じいちゃん、ただいま」

 甲田は玄関で声を張り、家の主を呼んだ。

しのぶ、悪いな。今、手が離せねんだ」

 祖父らしき人から返事があった。

「じいちゃん、俺も手伝うよ! あ、おふたりとも、上がって下さい」

「ありがとう……お邪魔します」

 後藤が靴を脱ごうとすると、鹿木に服を引っ張られた。後藤は気付いても、甲田にはわからないくらい、軽い力で。

「なあ、しーちゃん。煙草吸ってもええ? 携帯灰皿は持っとるけん」

「室内でなくて外ので吸って頂くことになるのですが」

「よかよか。ほら、美声年も行くで。……しーちゃん、すまんな」

 鹿木は甲田から懐中電灯を受け取った。

 後藤は鹿木に背中を押され、外に出た。

 甲田がバラックと言っていた車庫は、家の軒とトタン屋根でつながっている。

 玄関前からバラックまで濡れずに移動することができた。

「雨、すごいですね。台風が上陸してもおかしくな……」

 ふと鹿木を見ると、暗いせいで様子は見えないが、荒い呼吸音が聞こえる。

「……すまんな。巻き込んでしもうた」

「懐中電灯、持ちましょうか」

「悪い。頼んだ」

 後藤は懐中電灯を点け、鹿木の目にあたらないような方へ向けた。

 鹿木はジャケットのポケットから煙草の箱とライターを出した。

 後藤の視覚がそれを認識した途端、ねじ伏せていた衝動が再び暴れ始めた。

 煙草を吸いたい。一服したい。今日は帰れるつもりでいたから、持ってきていないのだ。

 ゆったりと紫煙を吐く鹿木。その雰囲気がどことなく色っぽい……とか思って自分をごまかしても、喫煙衝動は抑えられない。

「普段、何吸っとるん?」

「ウィンストンの5mgです」

 鹿木に訊かれ、後藤は何の気なしに答えてしまった。吸いたい様子は見え見えだったようだ。

「マルボロの8mgやけど、吸うか?」

「良いんですか?」

 後藤も数年前は8mgを吸っていたから、今も1本くらい吸えるだろう。

 鹿木は、べっ甲のフレームの眼鏡をかけ、後藤にライターを見せる。

「ほれほれ、火ぃ点けるけん」

「自分でやります」

「おっさんの言うことは聞いたらよか」

「鹿木さん、そんな歳じゃないでしょう」

「俺、来年40歳やけど」

「嘘!? せいぜい35歳くらいかと」

 鹿木は童顔でないが、雰囲気が若いのだ。

「ほれほれ。ぼさっとしとると、おっさんがキスしてしまうで」

 それは御免こうむる。

 後藤は煙草を一本もらい、恥ずかしいが火を点けてもらった。

 ライターをポケットにしまい、鹿木は言った。

「さっきのは、冗談やき」

 後藤は、一口目からむせた。慣れない刺激に煙草を落としそうになった。

 後藤に対して鹿木は、ゆったりとミントの風味を味わっている。

「腐っても恩人……て、あの子、言うてたな」

 日中のことだ。甲田が鹿木に対して「腐っても恩人ですから」と言っていた。

「恩を感じとるのは、俺の方たい。あの子がおらんかったら、俺はきっと年寄りが苦手のままでええと思っていた」

「苦手だというお話は、本当だったんですね」

「そうたい。小さい頃のトラウマってやつや。ばってん、あの子が介護を頑張っとるのを見ていたら、俺もこのままでは良くないと思ったき。……あの子、意外と修羅場をくぐってきたみたいや。俺は何も力になれんかった」

 前半と後半の話の内容が違うことに、鹿木本人は気付いていないようだ。

 鹿木は、短くなった煙草を、携帯灰皿に押しつけて火を消した。

「本当に良かった。あの子、元気になってくれて」

 後藤は、鹿木が涙目になっているように見えた。しかし、涙目になっていたのは、後藤の方だった。煙草のメンソールが強過ぎて、からい。最後まで吸うことができず、半分くらいで灰皿を借りて火を消した。

「悪いな、付き合わせてしもうて」

「いえ、とんでもないです。煙草、ありがとうございました」

 雨は止みそうにない。

 トタン屋根にはじく雨音に紛れて聞こえてきたのは、隣の男の鼻歌だ。

 2本目の煙草を味わう彼が口ずさむメロディーは、「見上げてごらん夜の星を」に聞こえた。



 家の中にお邪魔すると、甲田の祖父はすでに自室に撤収していた。

「しーちゃん、すまんな。おじい様に気ぃ遣わせてしもうたき」

「祖父ですか? DVDが見たくて部屋に籠っただけですよ。返却期限が明日らしくて。俺こそ、先生のことを考えていなくて……ごめんなさい」

「よかよか。しーちゃんと俺の仲や」

「何の仲ですか」

「よかよか」

 鹿木は、へらへら笑って甲田の頭に手を乗せようとする。

 甲田はその手をかわし、「こちらへどうぞ」とエアコンの効いたリビングに通してくれた。

 リビングは、畳敷きの和室だ。

 ローテーブルには、すでに料理が鎮座している。

 そうめん、野菜の天ぷら、茹でたオクラ、生野菜のサラダ、鶏の竜田揚げなど。

「竜田揚げか。懐かしかね。しーちゃんと俺の初デ――」

「『旅の夜風』でよく酒の肴にしましたね」

「そうやね。しーちゃんがどうて――」

「うるさいです。さっさと食べましょうね」

 鹿木が言いかけた単語が、後藤には“初デート”とか“童貞”のように聞こえた。後藤には関わりのないことだ。気にならなくもないが、迂闊に突っ込んで訊けない。

 甲田は冷蔵庫から缶ビールを出し、各々の前に置いた。

 キンキンに冷えたビールで乾杯し、本日の労をねぎらう。

 甲田がテレビをつけると、19時のニュースはすでに終了しており、特集番組が放送されていた。

「今日やったね」

 鹿木が呟く。

 後藤には、その意味がわからなかった。

 甲田をちらっと見たが、彼も小首を傾げている。中性的な容姿にその仕草は、女の子みたいだった。

 しかし、甲田はすぐに思い出したようで、声が跳ねた。

御巣鷹山おすたかやま!」

 それを聞いてもぴんとこない後藤は、己の無知を恥じた。

 すぐにスマートフォンの検索エンジンに“8月12日 できごと”と入力し、検索する。

 検索結果に出てきたのは、「日本航空123便」というフレーズだった。それから、歌手の坂本九の名前も。



 1985年8月12日。

 日本航空の旅客機が御巣鷹の尾根に墜落。

 乗員乗客524人のうち、死亡者数520名、生存者4名。



 この部分を読んだだけでも、後藤はぞっとした。それと、思い出したことがあった。

「この事故、映画とかにもなっていますよね?」

「そうたい。ようやく思い出したか、美声年」

「……すみません」

 後藤は怖くなって、この事件の情報をこれ以上読むことができなかった。

「先生、仕方ないです。後藤さんも落ち込まないで下さい。俺だって関東に住んでいるのに、この歳になるまで知らなかったんですから」

「この歳て……しーちゃん、22歳やないかい」

「甲田……くん、22歳!?」

「後藤さん、その微妙な間は何ですか」

「いや、それは……」

 アルコールが入れば馴れ馴れしくなって「甲田くん」とスムーズに呼べるかと思ったが、元々酒に強い後藤は、500mlの缶2本くらいでは酔わなかった。

 甲田も後藤と同じくらい飲んでいるが、彼もけろっとしている。

「先生。ペースが早いです。急にダウンしてしまいますよ」

「しーちゃんと同じくらいしか飲まんけん」

「俺と同じペースで飲んだら、酔い潰れるでしょうが!」

 甲田の口調が、駄目な息子を叱る母親のようになっていた。

 案の定、鹿木はしゅんとなってしまった。しかも、目じりに涙がにじんでいる。

「泣きますね」

 甲田は冷静に予測した。

 数秒後、鹿木は眼鏡を外して泣き始めた。

「どうせ俺なんか、しーちゃんと同じフィールドに立つことすらできん」

 駄目もとで、テレビのチャンネルを変える。画面には、「見上げてごらん夜の星を」を歌う若手歌手が映る。

「なんばしょっと! 今日に限ってこん歌なんか聴くと?」

「鹿木さん歌っていましたよね?」

「聴きたくなか!」

 鹿木は両手で顔をおおって号泣し始める。

「……なんか、ごめんなさい」

「後藤さんのせいではありません。先生は、お酒が入ると殿のようになるのです」

「どこの殿?」

「テレビに出る殿です」

「バカ殿?」

「違います」

「穀田屋十三郎の話に出てくる殿?」

「……ネタはわかりますが、違います。ある意味近いですけど」

「どこの殿?」

「そこに戻りますか」

「だって、甲田……くん」

「スムーズに話していたのに、そこで詰まるのですか」

 後藤と甲田がそのような会話をしている間に、鹿木はローテーブルに突っ伏して眠ってしまった。

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