うなだれる向日葵④

 8月12日は、朝から雨が降っていた。

 気象情報によると、先日発生した台風が北上していて、その影響で関東地方は一日雨が降るそうだ。夜のはじめ頃に台風が本州に上陸するおそれもある、とも言われている。

 後藤の住む巣鴨は強めの雨が降っていたが、深谷駅の前は小雨であった。

 施設長からは、9時に北口のロータリーで待つように言われている。

 8時50分に北口の階段を下りると、軽自動車が1台、ロータリーに停まっているのが見えた。

 後藤が軽自動車の近くまで行くと、助手席の窓が開いた。

「後藤さん」

 運転席にいるのは、あの若い爽やかな介護職員・甲田だ。

「助手席、乗って下さい」

 施設長が言っていた、“9時に北口のロータリー”は、後藤の迎えのことだったらしい。

 申し訳ないと思いつつ、無碍にもできず、後藤は助手席に座った。

 後部座席がいやにがらんとしている気がして、振り返ってみる。

 後部座席のシートはなかった。その代わり、ベルトやフックが普通の車とは違う場所についている。

 この軽自動車は、福祉車両だった。

 「どうかしました?」

 甲田に訊かれ、後藤は答える。

「懐かしいと思いまして」

「懐かしい……?」

 訊き返され、後藤は「何でもないです」と首を横に振った。

 甲田は腑に落ちないようだが、「行きます」と車を発進させた。

 後藤は、リズム良く動くワイパーを見つめながら、過去の記憶を引き出していた。

 最初の就職先は、デイサービスだった。

 ご利用者様をご自宅まで送迎したり、外出レクで運転もした。

 車椅子の乗せ方がなかなか覚えられず、退勤後に練習させてもらったこともあった。

 グループホームに異動になってからは、車に乗ること自体が減った。

 福祉車両を見たのも、乗ったのも、5年ぶりだ。

 懐かしいと思った。

 また1日、介護職に戻れると錯覚することができ、嬉しくも怖くもあった。



 「いろは深谷」に着くと、ご利用者様はすでにデイサービスに移動していた。

 本日出勤している介護職員は、甲田を含めて7人。先日は4人だった。今日の納涼祭に賭ける気持ちがうかがえる。

 9時半までにご利用者様のおむつ交換とトイレ誘導を行い、10時までに水分を摂って頂く。職員が介助しなければならないかたが多いため、後藤も介助をした。

 とろみをつけた緑茶をスプーンですくい、ご利用者様の口へ入れる。ご利用者様の飲み込み具合を確認し、次の一口を飲んで頂く。

 後藤が介助したご利用者様は、発語はないが、嚥下えんげはしっかりしており、すぐに緑茶を飲み終えてしまった。

「後藤くん、介助が上手うまいんだね」

 ベテランらしい職員に言われ、後藤は「恐縮です」と答えた。

 おそらく、童顔のせいで20歳前後だと思われている。実務経験のある28歳です、と言うタイミングはなかった。



 10時になると、ベテラン職員がご利用者様の前で「納涼祭を開始します」と挨拶した。

 その後、南京玉すだれのボランティアのかたが、技を披露する。

 南京玉すだれが始まって10分ほど経った頃、デイの事務所に来客があった。

 甲田の様子がおかしいことに後藤が気付いたのは、その頃だった。

 爽やかで誠実そうな好青年が、落ち着きなくそわそわしている。そのことに、他の職員は気付いていない。

 事務所の来客がホールに出てくると、甲田はご利用者様の近くに移動し、車椅子のかたと目線を合わせるようにしゃがみ込んでしまった。まるで、来客から逃げるように。

 後藤は、近くの職員に訊ねた。

「あのお客様、見学のかたですか?」

 どちらさまですか、とは訊けなかった。

 職員はこう答えた。

「東京の人が納涼祭の取材に来るって、施設長が朝礼で言っていたから、その人じゃないかな」

 来客は、長身の男性である。遠目からでも背が高いことがうかがえる。きょろっとした大きな目が、鹿を連想させた。



 11時に南京玉すだれが終わり、ご利用者様は早めの昼食となった。

 天気が晴れであれば、外にテントを建てて焼きそばやバーベキューをする予定であったらしい。

 しかし、あいにくの天気であるため、室内のホットプレートで焼きそばをつくり、あらかじめ加熱しておいたソーセージや野菜を皿に添える。

 食事形態がペーストや刻みのかた、麺類禁食のかたは、先にキッチンで調理されたものが提供された。

 配膳を終えると、職員は前半と後半に分かれ、休憩をとることになった。

 今日は特別に1時間一気に休憩をする。

 後藤は、甲田と一緒に前半に休憩に入った。

 職員の昼食は、ご利用者様と同じく焼きそばとバーベキューだ。キッチンの職員が、介護職員の分をキープしてくれた。

 休憩は、2階のシニアでとる。

 後藤は箸を手にする前に、スマートフォンのメッセージをチェックした。

 9時半頃に1件受信している。



 『こちらは雨が強いです。

  東京はどうですか?』



 1か月ほど前に会った女の子からのメッセージだった。

 彼女は、居酒屋チェーン店で後藤の近くのテーブルにいて、同席の女子達に責められていた。

 彼女が一方的に攻撃される様は、西條八十の「金糸雀かなりや」を連想させた。

 他の人と足並みがそろわない――歌を忘れたカナリアを、棄てようか、けようか、柳の鞭で打とうか、とされているように見えた。

 理不尽に責められても、後腐れしないようにじっと耐える彼女は、健気だが壊れてしまいそうだった。

 後藤は黙って見ていられず、仲裁に入ったが、仲裁は失敗に終わった。店から逃げ出した彼女を、後藤は追いかけてナンパ同然に声をかけた。

 その後、ふたりで「旅の夜風」というバルで飲み直し、彼女は溜まりに溜まった弱音をぽつぽつとこぼしてくれた。

 それ以降は彼女と会っていないが、無料通信アプリでメッセージのやりとりをしている。

 介護の仕事にストイックな彼女は、介護以外の話題になると、意外な一面を見せてくれる。それがまた可愛らしい。

 最近一番意外だったのは、彼女は喫煙者だということだ。初めて会ったとき、彼女から煙草のにおいがしなかったのだ。喫煙のタイミングを、厳しく限定しているらしい。

 煙草の銘柄を聞いたが、後藤の知らないものだったので、パッケージの写真を送ってもらった。濃いピンク色にラインストーンのアクセントがあるデザインで、10本入りという小さなパッケージだった。

 憂い顔の彼女が可愛い銘柄を好んでいるというギャップも、後藤にはツボだった。

 彼女は埼玉県に住んでいると言っていた。

 後藤も今日は埼玉県にいるのだから、ひょっとしたら会えるのではないかと勘違いしてしまう。



 『今日は深谷にいます。

  朝は小雨でしたが、今は強い雨みたいです。』



 彼女にメッセージを送信し、昼食にありついた。

 焼きそばは、ご利用者様用に柔らかくなっているが、それでも充分おいしい。

「おつかれさまですー」

 職員と同じように焼きそばをもらって、ごく自然に甲田の隣に座ったのは、納涼祭の取材に来たというあの男だった。

「どもども。鹿木といいます」

「後藤です」

 あまりにも馴れ馴れしいので、後藤は少々警戒してしまった。

 甲田は黙々と焼きそばを頬張って、話そうとしない。

 来客に失礼じゃないか――後藤はそう思ったが、鹿木が気にする様子はない。

 キッチンの職員が「チャーシューが余った」と持ってきてくれた。それを受け取ってから、甲田は鹿木と口をきいた。

「訊きたいことがあるのですが」

「なに?」

 鹿木は何かを期待するように甲田に目をやる。

「眼鏡はどうされたのですか」

「あるで」

 鹿木はジャケットの内ポケットから眼鏡を出して装着した。べっ甲のフレームの、個性が強い眼鏡だった。

「そっちの方が、らしいです」

「さすが、。ようわかっとるわー」

 鹿木は甲田の頭を撫でようとするが、キャスター付きの椅子に座っていた甲田は、ゆかを蹴って椅子ごと逃げた。

「おふたりは、お知合いなんですか?」

 後藤は訊いてみた。

 鹿木が「そうたい」と答える。

「この子が東京におったとき、同じ下宿やったんや。この子、俺の前やとしょっちゅう機嫌悪うなるけん。ばってん、今日はちゃんと挨拶してくれたで。な?」

「……腐っても、恩人ですから」

 甲田はチャーシューをはぐはぐしながら、離れた場所から鹿木の様子をうかがっている。もはや爽やかな青年ではなく、兄に対して素直になれない弟、のように後藤には見えた。

「一体どういう風の吹き回しですか」

 甲田は食べるのが遅いのか、かなりの量を食べているのか、未だチャーシューをもぐもぐしている。

「お年を召したかたが苦手なあなたが、なぜ介護施設このようなところに来ようと思われたのですか」

 “このようなところ”は、後藤には“介護施設”のように聞こえた。

「仕事を選んだらあかんと思うようになった。それだけや」

 鹿木は、わざとらしく左手を見せてきた。薬指にはシンプルな指輪がはめられている。

 甲田がゆかを蹴って椅子ごと戻ってきた。

「籍、入れたのですか?」

「そうたい」

「『旅の夜風』のヨウコさんと?」

「そうたい」

「おめでとうございます!」

 ついさっきまで機嫌が悪そうだった甲田は、一瞬で嬉しそうな表情になった。“爽やかな好青年”より、“兄に対して素直になれない弟”風の性格キャラクターの方が、素の甲田なのかもしれない。

 ヨウコさんというのは後藤の知らない人だが、「旅の夜風」は行ったことがある。三軒茶屋にある和風バルだ。女性の店員を見かけたので、その人かもしれない。

「しーちゃん、あのな」

 鹿木は急に真面目な顔になり、甲田に向き合う。

「マルちゃんのことやけど」

 甲田は、いぶかしげに眉根を寄せる。

「……誰?」

加地かじ善明よしあき

 その愛称に“マルちゃん”の要素は見当たらない。

「マルちゃんな、しーちゃんのこと心配しとったで」

「そんなこと、ありえません」

 甲田は言い切った。

「俺はあのときから出来の悪い職員だから、加地さんは俺のことを嫌っていたんです。それなのに、出来の悪い人のことを心配しますか、普通」

「それは誤解や。マルちゃん言ってたで。『吉井にも甲田にも、つらい思いをさせた』て。それに、嫌いな人とSNSをフォローし合うか、普通」

「それは……! 上司だから断れなかっただけです!」

 甲田は残りのチャーシューを口に詰め込み、席を立った。

「俺はデイに戻りますが、後藤さんは時間いっぱいまで休憩していて下さい」

 口はもぐもぐしながら、甲田は早足で階段へ向かっていった。

 鹿木は細く長く溜息をつき、眼鏡を外す。

「すまん。嫌なもん見せてもうたな」

「……いえ、俺は別に」

「目がおびえとるで。チワワみたいやな。可愛ええわ」

 急に甲田が不穏な雰囲気になったから、驚いただけだ。しかし、言われてみれば怖かったかもしれない。甲田の過去が垣間見えた気がして、それが深い傷のようで、今になって後藤が痛みをおぼえている。おびえたわけではない。むしろ、鹿木の変態めいた発言におびえたい。

「感受性が強そうやな、は」

「……俺ですか?」

 おおきに……いやいや、美青年とちゃいまっせ、と大阪の人みたいな言い方をしそうになった。

「そうたい。あんたしかおらん。あんた、他人と自分を割り切れんと、全部自分で受け取って背負いこんでしまうんやろ。俺と違って感受性があるのはええけど、強いのは良くない」

「……えっと」

 “感受性が強そうやな、は”発言で、後藤は“ビセイネン”の部分を拾ったつもりだった。しかし、鹿木は“感受性”の話だと思っていたようだ。

「すみません。ビセイネンて……俺、全然違いますから」

「阿呆。あんたは良い声しとる美声年ビセイネンたい」

「そういう意味!? いや、声が良いわけでは……」

 ビセイネンは、造語だったようだ。

 美声を否定したものの、つい先日、声を褒められたばかりだ。あのに。

「少しは割り切ったらよかよ、美声年」

「その美声年というのは、ちょっと」

 鹿木は馴れ馴れしくて、はじめは身構えてしまう。それなのに、つい無遠慮に突っ込みを入れさせてくれる隙もある。

 その個性があるのだから、ご利用者様とコミュニケーションをとることだって出来そうなものだ。

 しかし、鹿木は午前中、ご利用者様から離れた場所で写真を撮っていただけだったのだ。



 前半の休憩が終わると、後半の職員が休憩に入った。

 口腔ケアまでは終わっていたので、おむつ交換とトイレ誘導を行う。

 14時に和太鼓のボランティアが来ることになっている。それまでにテーブルを部屋の隅に移動し、ご利用者様は和太鼓が見やすい位置に移動して頂く。

 ご利用者様は、迫力ある和太鼓の演奏を引き込まれるように見ていた。大雨の中、職員も手伝って和太鼓を運んだ甲斐があった。

 後藤は、ご利用者様の見守りをしながら和太鼓の演奏に耳を傾ける。

 甲田は事務所のデジカメでご利用者様の様子を写真に収めていた。

「後藤さん、後藤さん」

 現場に戻れば爽やかキャラの甲田は、デジカメのプレビューを後藤に見せてきた。

 後藤には、にわかに信じられなかった。

 カメラに収められていたのは、ご利用者様と笑い合う鹿木の姿だったのだ。

 デイの隅っこで、ご利用者様の田中たなか悦子えつこ様と鹿木が何かをやっている。

 鹿木は両手を握ってみせ、田中様が「こっち」と鹿木の右手を指差す。

 鹿木は右手を開くが、その手には何もない。

 左手を開くと、コインが出てきた。

 田中様は「あれ?」と首を傾げ、「もう一回」と鹿木にせがんだ。

 鹿木は田中様に手品を披露していたのだ。

 田中様はここのご利用者様の中で一番自立しており、他のご利用者様とはレクの内容が合わないようだった。この間もひとりで退屈していた田中様が、楽しそうに笑っている。

「先生、変わってきてんじゃねえか」

 甲田が呟いた。

「良かった、本当に」

 鹿木がこちらを向く。甲田は、ふいと向こうに顔をやった。



 和太鼓が終わると、15時の水分摂取とおやつのかき氷がご利用者様に提供される。

 その後は、職員による余興だった。余興といっても、毎年カラオケをしているらしい。今回もカラオケだ。

 後藤はマイクを渡されるとは思わず、甲田と一緒に「あずさ2号」を歌わされた。

 「声が良いから」と理由をつけられ、続けて「おら東京さ行ぐだ」も歌うはめになった。

 なぜかご利用者様からウケが良かった。



 16時過ぎにトイレ休憩をもらい、ついでにスマートフォンをチェックすると、あの女の子から返信が来ていた。

 その内容を見て、後藤は固まってしまった。



 『今、高崎線が運転を見合わせているみたいです。

  復旧のめどがたたないようですが、帰れていますか?』

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